★この時代の城郭 ――― 江戸城主・太田道灌:文武に優れた良将
中世の江戸、つまり現在の東京であるが、一般には湿地帯の寒村であったと言われる。
しかし、戦略価値の無い場所(しかも泥湿地)に城が必要な訳がなく
近年の研究では江戸という町の再評価が行われている。むしろ、鎌倉の政庁機能が薄れた分
江戸こそが関東の新たな中心都市になっていた可能性すら指摘されるようになった。
冷静に考えれば、多数の河川の河口となる江戸は港湾(水運)都市であり
相模・武蔵・下総(つまり京都方面・上越方面・常磐方面・房総方面)を繋ぐ中継点として
物流拠点ともなっていたはずである。だからこそ、江戸を押さえる必要があったのだ。
(これは徳川氏による江戸開府思想と一致する理由である)
平安時代の江戸氏が居館を構えた町に、道灌は城を築いた。
確かに低湿地の地盤であり、それほど大規模な工事ができない為に平城であったが、
低地を逆手に取り、縦横に堀が掘削され防御力を向上させただけでなく
本丸には静勝軒(せいしょうけん)と呼ばれる遠見櫓(御殿の説もあり)が構えられていた。
こうした大櫓は、後の世の天守建築に繋がる源流と言え、
それだけ道灌が先見の明に優れていた証である。
また、道灌が掘った濠と言われる「道灌濠」は、現在も皇居(江戸城跡)に残っている。
政治感覚・軍事才能・築城術の全てに長けた道灌は、同時に一流の芸術家でもあった。
1474年6月には、道灌の主催で江戸城中において連歌の会が催される。
「武州江戸歌合」と題されたこの会では、判者に連歌師の心啓(しんけい)を招き
同地の文化人・木戸孝範(きどたかのり)や太田一族が歌を競った。
道灌が歌詠みとしての才能を開花させたのは20歳過ぎと言われる。
鷹狩りに出た道灌が雨に降られ、近くの民家に蓑(みの)を借りに立ち寄ったところ
その家の少女が何も言わず山吹の枝を差し出したという。蓑を借りようとしたのに
山吹を出すとは何事か、と理解できぬ道灌であったが、古歌に寄せた断りの返事だったのだ。
七重八重 花は咲けども 山吹の
実の一つだに 無きぞ悲しき 中務卿兼明
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後拾遺和歌集に収められた歌である。“実の一つさえ無い=蓑一つさえ無い”と掛けて
「貧しい家ゆえ、お貸しできる蓑などございません、山吹にてお察し下さい」という
少女の機知に富んだ返答であった。これを知った若き日の道灌は
「貧しい民でさえ歌の心を解するのに、領主たる自分が知らぬのは恥ずべき事」と改心。
今まで武術一辺倒であった己を反省して、風雅の心を身に着けようと努力したという。
この逸話は後世の作り話とも言われるが、それにしても道灌の人柄を偲ばせるエピソードであろう。
他人の優れた所は素直に取り入れ、自己を研鑚する。
そうした心がけが名軍師・道灌の才覚や人望を築き上げていったのである。
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