衰退する将軍家

大乱の誘発を招いた将軍家後嗣問題は
応仁の乱における力関係によって更に流転するようになり
もはや誰のための、何のための戦なのかわからなくなってしまった。
その原因とも言える放蕩将軍・義政は
これだけの紛争を起こしておきながら、何ら政治の舵を切ろうとはしなかった。


守護不在の空白 〜 大内氏の「家庭の事情」
前頁で述べた通り、応仁の乱の戦火は全国へ拡大していた。
東軍・西軍は互いに戦いつつ、敵勢力の寝返りを促したり
京都を離れた領国に対する直接攻撃を計画していたし
何よりも守護不在の国では在地の武士らがクーデターと言える下剋上を狙っていたからだ。
このような状況が何年も続く中、西軍主力となっていた大内政弘の領国で造反劇が発生した。
1470年5月19日、大内軍の有力武将・仁保弘有(にほひろあり)が東軍へ転じ
それに同調して長門国で政弘の伯父・大内教幸(おおうちのりゆき)も政弘打倒の兵を挙げた。
これにより、大内軍の軍事行動は一時停滞を余儀なくされる。
強大な勢力を保持する守護大名であればこそ、一族の中から地位を狙う者が現れるのも当然。
こうした憂慮を抱えながら上洛軍を率いなければならない政弘の心境は複雑であろうし
他の守護大名にも同様の事が言えたのである。
将軍家では義尚と義視が東軍・西軍を入れ替わったし、
戦う目的も、敵味方の関係も、計略の手段も、幕府や大名の権威も、
何もかもが解らない中で戦い続ける諸大名であったが、
それでも「殺らなければ殺られる」という状況の中では、
生き抜く為に戦いを止めるわけにいかなかった。
しかし、消耗戦となる大乱を継続する事によって
結局は自らの勢力を弱めるようになると気付く者は、まだ居なかった。

宗全・勝元の死 〜 それでも終わらぬ大乱
大乱発生から6年が過ぎた1473年、事態は急変する。この年の3月、西軍大将であった
山名宗全が70歳の高齢で死去したのだ。もはや長年の戦乱を嫌悪するムードが広がっていたが
この報に俄然東軍は活気付き、再び戦闘が激しくなるようになってしまった。
ところがその矢先、5月には東軍大将の細川勝元までが死す。享年44歳。
あまりに若く、突然の死は東軍の勢いに水を差し、混乱を深める結果となった。
東西両軍は総指揮官を失い、戦略ビジョンが立てられぬ有様。
こうしている間に各将は独自に戦闘を続け、矛先の納めようが無くなってしまう。
中には戦闘を忌避した将が京から帰国する例もあったが、
応仁の乱はますます先が見えぬようになって、猶も終わる事なく続いていった。
そんな渦中の同年12月19日、義政・富子の子である義尚が元服し、9代将軍に就任。
「将軍職を譲る」と約束された義視が義政と仲違いし西軍へ身を投じたため
結局は義尚が将軍後嗣とされ、この日を迎えたのだった。
管領には畠山政長が任じられた。勝元亡き後では順当の人事であったが、
応仁大乱のきっかけとなる御霊林の戦いを引き起こした政長が幕閣の頂点に立つのは
諸大名の反感を呼び、政界の混乱が収まるはずはなかった。
義尚将軍・政長管領という組み合わせは、形式的には東軍の意見が通った事になり
特に西軍諸将は猛反発。こうして戦闘は継続され、応仁の乱が終わる気配は無かった。
この大乱が収束するには、さらに数年の時間が必要とされたのである。

応仁の乱終結へ 〜 もはや逆行できぬ乱世へ
勝てば恩賞や敵領地の割譲、そういった皮算用を狙って参戦した諸国の大名であったが
思わぬ長期の戦闘継続により、造反・裏切・権威失墜・戦費負担・勢力疲弊など、弊害が続出。
将軍家の後継問題は成り行き的に解決し(てしまっ)たが、勝敗は定かならず
諸将が自分の利権を守るためだけに京都で戦闘するようになり早や数年の歳月が過ぎ
ようやく厭戦ムードが漂うようになってきてはいた。勝元の嫡子・政元(まさもと)
宗全の後継・政豊(まさとよ)の間では和議の約定が結ばれようとしていたが
それでも畠山氏・斯波氏の争いは未だ決着が着かず、なかなか停戦にはならない。
結局、戦に疲れた諸大名が個人の判断で帰国するようになり
10年にも及んだ応仁大乱が終結する事となった。が、政長が管領に就いた事に反発する
畠山義就は、幕府の意向も、戦闘の終結も認めずに単独行動を起こす。
もはや孤立無援となった義就は東軍から無視され、幕府(東軍)は
西軍主力であった大内政弘と和議交渉を進め、これに山名政豊らが追従。
1477年11月に政弘が京を引き払い領国の周防へ帰国した事を以って一応の終戦とされ、
東西諸将は大半が帰国した。1467年に勃発して以来、実に10年の長きに渡る応仁大乱であった。
が、これで全てが終わった訳ではなかった。上記の通り、畠山義就は独りで戦い続けていたし
将軍継嗣を反故にされた足利義視は収まりがつかずに幕府との和睦を拒否、
隠棲先の美濃(土岐氏の領国)で怨嗟の念を募らせるようになっていた。
勝者も敗者も決まらない終戦は、詰まるところ問題が残されたままだったのである。
しかも、「敗者(西軍)を処断できない」幕府は、権威を失墜させた事になり
全国では守護不在の混乱と下剋上の機運が蔓延し、もはや中央政界も地方支配も
従来の室町幕府機構の構造では統治が難しい状況になってしまっていたのであった。
10年規模の大乱は、日本全土を逆行できぬ乱世の時代に作り替えてしまっていたのだ。

東山山荘の造営 〜 大乱後の義政
翌1478年、ようやく義視と義尚の間に和議が成立。と言っても、義視の帰京は認められず
要は「義視に再び反乱を起こさない確約を取り付けたまま京を追放する」という意味だ。
それでも一応の講和が成った事で、将軍家の内紛は収まった事になる。
後顧の憂いを無くした義政は、政治への意欲を見せ…た訳ではなく、
相変わらず美術趣味や邸宅造営に熱中するばかり。将軍家の台所は金儲け一筋の
日野富子が仕切っていたが、こうした背景から義政は富子・義尚と不仲になる。
既に1474年の時点で義政は富子と別居生活を送るようになっていたし、
大乱が終わった事で新たな邸宅を作り、優雅な隠居生活を送ろうとしたのであろう
誰に気がねする事も無く、1481年に京都東山浄土寺境内に新山荘の造営を開始した。
義政の隠居所として造られたこの山荘は場所から採り東山山荘と呼ばれ、
常御所(つねのごしょ)、東求堂(とうぐどう)、会所などが建てられた。
祖父・義満の北山山荘に対抗するかの如く造られた東山山荘は、
東山文化の極致であり、現在では慈照寺(じしょうじ)と呼ばれる寺になっている。
山荘建築途中の1485年6月に嵯峨三会院(さがさんえいん)で義政は出家したが、
山荘造営の熱意はその後も変わらなかった。政務を放棄し、芸術にだけ没頭する義政の態度は、
足利将軍家がもはや政治の中心には居ない事を表し
中央政界のコントロールが効かずに迷走していくばかりという事実を体現していた。

山城国一揆 〜 「百姓ノ持テル国」の成立
芸術一辺倒の父・義政、金儲けに没頭する母・富子の間にあって、
9代将軍職を継承した義尚は幕政の建て直しに心を砕いたようだ。
ところが、応仁の乱後は政界の統制が取れるはずもなく、細川氏頭領である政元とは
なかなか折り合いがつかない。また、義就討伐に燃える政長はどうにも暴走気味。
将軍と管領家が連携できないのでは、幕府権威など向上するはずもなかった。
そんな最中の1485年、幕府のお膝元である山城国(京都府南部)で巨大一揆が発生した。
もともと山城国は畠山氏の領国とされ、応仁の乱終結後も政長・義就が互いに争い
国内は戦闘状態が継続されていた。しかも、東山山荘造営にあたって
山城国の民衆は工事の労務に駆り出されるばかり。武士の勝手な横暴に溜まりかねた民衆は
国を挙げての巨大一揆を起こしたのである。この一揆は徳政を求めるものではなく、
両畠山軍の完全撤退、荘園・武家支配の否定、関所新設の禁止など、
政治的要求が主とされていた。こうした政治的一揆を国一揆(くにいっき)と呼び
山城国で起きたこの一揆を「山城の国一揆」と言う。翌1486年2月には
宇治平等院で一揆衆による独立行政機関が成立、36人の合議衆が選出され
これに基づいて国中掟法が制定された。山城国は武家支配を完全拒絶し
農民・国人による自治体制へと移行したのである。こうした国を惣国(そうこく)と言う。
山城国からは両畠山軍が追放された上、幕府や守護を認めない独立国になったのである。

義尚の苦労 〜 山城国一揆・六角討伐・加賀国一揆…
京の目の前で起きた巨大一揆、しかしそれを鎮圧する力は幕府になかった。
管領家と足並みが揃わず、手探りで政務を執る義尚では、
名目的に山城国の新守護を伊勢貞陸(いせさだみち)に任ずるだけで
それ以上の実力行動を準備する余裕が無かったのである。
ところが今度は南近江を治める守護大名・六角高頼によって所領が横領される事件が発生。
幕府は所領の返却を命じたが、高頼はこれに従わなかった。
将軍の配下にあるべき守護が将軍の命令に逆らうとあっては、看過する事もできず
1487年9月、義尚自ら兵を率いて六角討伐の軍を発した。
横暴な守護を成敗する事で将軍の威信を回復しようとしたのだ。
しかし老獪な高頼は幕府軍の到来を見越して甲賀地方へ退却。同地でゲリラ活動を展開した。
こうなると将軍が指揮しようが何だろうが六角軍の思う壺である。
義尚の思いとは裏腹に、幕府の権威は失墜したままであった。
更に1487年末には加賀国(現在の石川県南部)でも国一揆が勃発した。
義尚の信頼篤かった加賀国守護・富樫政親(とがしまさちか)はこの報に接し
急遽六角攻めから帰国し一揆鎮圧を行おうとしたが、一揆勢の数は莫大なもので
鎮圧どころか自分が囲まれる嵌めになってしまった。1488年6月9日、一揆軍20万人に
居城・高尾城(たこうじょう)を包囲された政親は為す術なく自刃。
こうして、加賀国も惣国となったのである。
腹心と呼べる政親の死、自治が続いたままの山城国・加賀国、
そして思うように進まぬ六角討伐…。義尚の疲労はピークに達し、病に倒れた。
9代将軍・足利義尚、陣中にて没す。時に1489年3月26日、享年23歳。
この頃、東山山荘の観音殿に着工した義政は義尚の訃報を聞き意気消沈。
自分が山荘に熱を上げていた間に義尚は独り幕府の重責を背負い、
しかも年若くして、義政より先に死んでしまったのだ。すっかり気落ちした義政は
義尚の後を追うように1490年1月7日に死去。心血注いだ観音殿の完成を見る事はなかった。
義政の死によって東山山荘の建築は打ち止めとされ、義政の時代が終わりを告げたのである。
伝足利義政像伝足利義政像



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