応仁の乱
「人の世空し(1467)応仁の乱」とは良く言ったもので、
1467年に勃発した応仁・文明の乱は従来の政治体制を破壊し
全てを無に帰して新たな時代を創造する幕開けとなった。
旧来の伝統・文化・権威・価値観は消え去り、
柔軟な知恵と確かな実力のみで自らの勢力を勝ち取る時代へと変化していくのだ。
戦国乱世への転換点・応仁の乱が今、火蓋を切る。
政長管領罷免 〜 正月の政変
1467年の正月、管領・畠山政長邸で新年祝賀の宴会が予定され、
そこに将軍・義政が出席する事になっていた。ところが、これは突然キャンセルされ
しかも義政はあろうことか畠山義就の開く宴席へ義視を伴って参加してしまった。
義就の接待にすっかり気を良くした義政は、何と政長の屋敷を義就へ譲るように命令。
当然こんな話を承諾できない政長は、幕府第一の実力者・細川勝元を通じて
屋敷の譲渡を断ったところ、義政は1月8日に政長を管領職から解き、
斯波義廉を新管領に命じた。政長としては青天の霹靂である。
対立する義就によって義政は骨抜きにされ、
しかも反細川派である義廉に管領職を奪われてしまったのだから。
もちろん、全ての糸を影で操っていたのが山名宗全である事は言うまでもない。
義政・義視と政長のラインを切り崩し、勝元の面目を潰したのである。
憤懣やる方ない政長は兵を集め、義就打倒の戦へと動き始めた。
御霊林の戦い 〜 政長善戦するも宗全に嵌められる
「畠山氏の戦闘間近」の報に接した義政であるが、呑気な美術将軍は気にも止めない。
自分が政長の面子を潰し義就に鞍替えした事が原因にも関わらず、
どこ吹く風といった具合である。それでも細川氏と山名氏による大戦という事態は
さすがに回避した方が良いと判断したのか、勝元と宗全には手出しせぬよう命じた。
(畠山氏が戦争するのは構わないのか?と言いたくなるが…)
勝元・宗全の思惑、将軍の無能さを横目にしつつ、斯くして1月18日に
上御霊(かみごりょう)神社の境内において、政長軍と義就軍の戦闘が始まった。
因縁の原因となった自宅に火をかけ、絶対勝利の意気込みで布陣した政長軍は
優勢に事を進め義就軍を追い詰めていったが、ここで山名軍が参戦。
歴戦を勝ち上がってきた武断派の宗全は、「勝てば官軍」とばかりに
義政の意向などお構いなしで兵を動かし、義就の支援に回ったのである。
一方、官僚派の勝元は将軍の命令を無下にもできず、援軍の派遣を控える。
結果、戦況優位であったはずの政長軍は敗走する目に遭い敗れたのであった。
この戦いを御霊林の戦い(ごりょうばやしのたたかい)という。
応仁・文明の乱(1) 〜 東西両軍、京を焦土に変える
理不尽な敗戦を味わった政長、宗全に出し抜かれた勝元。
怒りが頂点に達した両者は復讐を決意。
全国各地の諸大名を糾合しその軍勢を京都へ呼び寄せた。
一方、負けじと宗全らも味方を募り同じく京へと軍を結集させる。
こうして、京の都は細川方・山名方の軍勢で溢れかえり、一触即発の状況になった。
細川方につくのは細川一族のほか京極持清(きょうごくもちきよ)、
赤松政則(あかまつまさのり)、斯波義敏ら24ヶ国約15万の兵力。
山名方につくのは中国地方の山名一党をはじめ土岐成頼(ときしげより)、
六角高頼(ろっかくたかより)など20ヶ国約10万の軍勢。
京都は両軍合わせて25万もの兵士で埋まったのであった。
5月26日、戦いの火蓋を切ったのは細川方の武田信賢(たけだのぶかた)と
細川成之(ほそかわしげゆき)。両名は山名方に与した
一色義直(いっしきよしなお)の邸宅を急襲し、館に火を放った。
当然、山名方も反撃に転じ洛中各地で戦闘が拡大、史上最大の兵乱が始まった。
細川方は勝元邸と相国寺を中心に本陣を構え、対する山名方は宗全宅が本陣となり
ちょうど京の東西に分かれて布陣する形になったため、細川方を東軍、山名方を西軍と呼ぶ。
ちなみに、京都の伝統工芸である西陣織の「西陣」は
西軍の本陣=西陣が置かれた場所という意味である。
東西両軍は激しい戦闘を繰り広げ、京都の主要地域はことごとく焼失する。
太平洋戦争でも空襲を免れた千年の都・京都であるが、この兵乱では焦土にされたのである。
戦火によって京都全域が焼け落ちた事は後にも先にもこの戦いしかない。
こうして始まった大乱を、元号から採って応仁・文明の乱(一般的に応仁の乱と略記)という。
1467年に開始されたこの乱は、予想だにしない10年規模の巨大戦争にまで拡大するのであった。
東軍
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足利義政 足利義視
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細川勝元 (細川一門)
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畠山政長
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斯波義敏
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赤松政則 京極持清
武田信賢 富樫政親
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将軍家
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幕府有力者
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畠山氏
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斯波氏
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その他の守護大名
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西軍
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日野富子 足利義尚
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山名宗全 (山名一門)
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畠山義就
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斯波義廉
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一色義直 土岐成頼 六角高頼
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| 応仁の乱 開戦当初の関係表
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応仁・文明の乱(2) 〜 東西両軍、熾烈な工作合戦
洛中を焼き尽くす大乱の炎は、瞬く間に全国各地へ飛び火した。
権謀に長けた勝元の手により、西軍諸将の領国へ東軍の軍勢が攻勢をかけたのである。
京都へ出陣し留守にしている自分の国が攻撃を受けたとあっては、
西軍の各武将が浮き足立つのも当然であり、混迷の度は深まった。
一方、宗全も黙ってはいない。東軍より劣る兵力を補うため、娘婿である周防国守護
大内政弘(おおうちまさひろ)の出陣を促し、これに成功したのだ。
大内氏の領国は周防・長門(いずれも現在の山口県)・豊前・筑前(福岡県と大分県の一部)と
中国・九州地方の主要部を占めている大勢力であり、この軍勢が西軍に参加するとなると
東軍との兵力差はほぼ解消される事になった。

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東西陣営勢力図
青は東軍
赤は西軍
黄は両陣営混在地
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こうして、さらなる兵力が投入される事によって京都での戦闘はますます激化し
歴史ある古都・京の町は荒れ果てていくようになってしまった。
由緒ある寺院・神社や公家の屋敷、庶民の家まで焼け落ちて、
わずかに残されたのは室町御所くらいのもの。
公家らの多くは戦火を避けて都落ちし、焼け野原になった京都の惨状を嘆いた
飯尾彦六左衛門尉(いいおひころくさえもんのじょう)は次の歌を詠んだという。
汝(なれ)や知る 都は野辺(のべ)の 夕雲雀(ゆうひばり)
あがるを見ても 落つる涙は 飯尾彦六左衛門尉
[意味] 雲雀よ、この気持ちが分かるかい?都は無残にも焼け野原になってしまった。
夕空に舞い上がるお前の姿を眺めるだけでも、涙がこぼれてしまうではないか…。
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応仁・文明の乱(3) 〜 政界の混乱、戦闘の長期化…
1468年になると、勝元が管領に再就任。
諸大名が武力を以って大戦を行っている間に、政界でも目まぐるしい動きが進んでいた。
何と、将軍後嗣とされていたはずの義視が義政と仲たがいするようになってしまったのだ。
義視が細川派を離れたとなると、日野富子と義尚は当然義政の側に付くようになる。
これにより、将軍家における東軍と西軍のメンバーが入れ替わってしまった。
応仁の乱は、その当初における目的が大きく変化してしまったといえる。
どちらの軍が、誰の為に戦っているかが不透明になってしまい、
当然、将軍も幕府もこの戦乱を止めて荒廃した京都を復興させる力があるはずもなく
もはや幕府政治の混乱と権威失墜は極まったといえる。
しかも、政治体制の変貌は中央から地方へも波及していく。
守護大名の多くが領地を留守にし京都へ上っている間に、在地の土豪や
守護の支配に甘んじていた配下武将たちが勢力を伸ばそうと画策するようになったのだ。
幕府の権威や守護大名の勢力に従うという今までの地方支配機構の序列が崩壊し始め
「実力あらば、下の地位にあった者が上の者を倒し権力を獲得する」といった時代が到来。
こうした風潮を下剋上(げこくじょう)といい、
従来の政治体制がもはや意味を為さなくなった事の証明であった。
将軍家の流転とそれによる東西両軍の混乱、幕府権威の無力化、身分秩序の崩壊など
応仁の乱によって始まる混沌は留まる所を知らず、日本全土を乱世の時代に落し込んで行く。
よって、戦乱誘発のきっかけとなった1467年の応仁の乱勃発から
大名間抗争の終結とされる1615年の大坂夏の陣までが、一般的に戦国時代と定義される。
東軍
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足利義政 日野富子 足利義尚
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細川勝元 (細川一門)
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畠山政長
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斯波義敏
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赤松政則 京極持清
武田信賢 富樫政親
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将軍家
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幕府有力者
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畠山氏
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斯波氏
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その他の守護大名
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西軍
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足利義視
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山名宗全 (山名一門)
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畠山義就
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斯波義廉
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大内政弘 一色義直 土岐成頼 六角高頼
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| 応仁の乱 1468年以後の関係表
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