東山文化

足利義満が北山山荘を作り、北山文化を開花させたのと同じように
芸術将軍の義政は東山山荘(ひがしやまさんそう)を造営(後頁で紹介)し
室町中期の文化・東山文化を大成させた。


東山文化 〜 「奥深さ」を漂わせる文化
3代将軍・義満によって実現された北山文化は「華やかな文化」であった。
能楽などの演劇舞踊、広大な敷地を持つ建築や庭園、そして金箔を捺した金閣。
そのどれもが一目見て心奪われる豪華さで現されるものばかりであろう。
一方、8代将軍・義政の嗜好が存分に具現化された東山文化とは、
北山文化を昇華しつつ、見た目ではなく奥深さを味わう文化と言える。
以下に代表例を列記する。
建築
書院造・禅宗様
東山山荘観音殿(慈照寺銀閣)
書院造
東山山荘東求堂(慈照寺東求堂)
庭園
東山山荘(慈照寺)庭園(善阿弥)
龍安寺庭園
大徳寺大仙院庭園
絵画
水墨画
四季山水図(山水長巻)(雪舟等楊)
秋冬山水図(雪舟等楊)
天橋立図(雪舟等楊)
小栗宗湛の活躍
土佐派
土佐光信
狩野派
周茂叔愛蓮図(狩野正信)
大仙院花鳥図(狩野元信)
文学
五山文学
横川景三・万里集九ら
漢詩
狂雲集(一休宗純)
連歌
水無瀬三吟百韻(飯尾宗祗・肖柏・宗長)
新撰菟玖波集(飯尾宗祗)
白河紀行・筑紫道記(飯尾宗祗)
犬筑波集(山崎宗鑑)
学問
医書大全(阿佐井野宗瑞)
樵談治要・公事根源(一条兼良)
神道
唯一神道(吉田兼倶)
庶民芸能
花道
池坊専慶ら池坊一門
茶道
侘び茶の成立(村田珠光)
東山文化の代表例
東山山荘は、京都府京都市左京区に建てられた義政の隠居所で、
現在は慈照寺(じしょうじ)となっている。銀閣寺の名が有名であろう。
義満の金閣に相対するような銀閣がある事からこの通称で呼ばれている。
銀閣は観音殿として建てられた建造物で、潮音閣(ちょうおんかく)と呼ばれる上層は
禅宗様(ぜんしゅうよう)の形式、心空殿(しんくでん)と言う下層は
書院造(しょいんづくり)形式で作られた楼閣建築(ろうかくけんちく)である。
書院造は鎌倉期に寺院で発生した建築様式である。僧侶が書物を引見する為の場として造られ
これが「書院(書斎の意味)造」の名の由来となっている。書物を読むために採光を重視し、
明障子の設置を基本としている。鎌倉末期から僧侶や武家の住宅に採り入れられるようになり
東山文化の頃に形式が整うようになったのである。
観音殿と共に現存する東求堂(とうぐどう)も書院造で建てられた建築物。
本尊の仏像を安置する持仏堂であり、仏間には浄土宗・浄土真宗の本尊である
阿弥陀三尊像(あみださんぞんぞう)が置かれ、その隣の部屋には夢窓疎石の書が
掲げられていた。即ち、東求堂は浄土宗と臨済宗を両方祭っているのである。
この堂の同仁斎(どうじんさい)という部屋が義政の書斎になっており、
有名な「違い棚」など、今日の和風住宅に繋がる基本様式が用いられている。
慈照寺観音殿(銀閣)慈照寺観音殿(京都府京都市左京区)
この時代に名手が多数出た事により、水墨画も東山文化を代表する芸術と言われる。
幕府の御用絵師であった小栗宗湛(おぐりそうたん)に始まり、
土佐派を興した土佐光信(とさみつのぶ)などの隆盛が続くが、
特に著名なのは雪舟等楊(せっしゅうとうよう)と狩野一族である。
「涙で鼠の絵を描いた」という話で有名な雪舟は、備中国(現在の岡山県西部)赤浜の生まれで
幼い頃から京の相国寺で水墨画を学んだ画僧。遣明船で中国へ渡り更なる修行を重ね、
明の皇帝にも画才を賞賛されたという。大自然を雄渾に描く画風は世界に誇れるもので、
天橋立図や四季山水図などが代表作である。
晩年は諸国を周りながら画作を重ね、1506年に周防国山口(山口県山口市)で没した。
次に挙げるのは狩野派の祖・狩野正信(かのうまさのぶ)
伊豆国で生まれた正信は、小栗宗湛に学び実力をつけた人物である。
義政が東山山荘の建物を飾る襖絵の創作を雪舟に依頼したところ、
「自分より相応しい人物がいる」として推挙されたのが正信であった。
その腕前に惚れ込んだ義政は正信を近習として取り立て、以後幕府の御用絵師となった。
正信の子・元信(もとのぶ)も父の跡を継ぎ御用絵師となり、
狩野一族の活躍は江戸幕府へも続いていく。これが有名な狩野派の誕生である。

枯山水 〜 抽象芸術の誕生
墨の濃淡だけで表現する水墨画に通じるのが枯山水(かれさんすい)庭園である。
従来の庭園芸術は、池泉回遊式(ちせんかいゆうしき)庭園と呼ばれ
池や川に水を曳き、美しい林や植物を多数配置して雄大な庭を造営するものであったが、
禅の侘び寂びを取り入れた枯山水庭園は全く違う形式で造られる。
実際の水は全く使わず、石組みや白砂のみで構成して自然を表現する庭園。
すなわち、砂の模様で水の流れを示し、そこに浮かぶ石が島であり、
植物であり、宇宙の真理なのである。自然を極度に抽象化し
比較的狭い空間に圧縮した世界をちりばめている枯山水庭園は、
代表的なものに龍安寺(りょうあんじ)や大徳寺大仙院のものがある。
見る者の視覚に訴えるのではなく、奥深さを以って情景を表現する、
こういった枯山水庭園を造園する者として代表的な人物が善阿弥(ぜんあみ)
「河原者(かわらもの、その日暮らしの土木就労者)」と呼ばれる低い身分の者であったが
優れた土木技術を義政に買われ、数々の庭園造営に携わるようになった。
このように、義政の周りには一芸に秀でた者が数多く居り、
特に建築や造園などの分野で活躍するものが多かった。
東山山荘の造営にあたり、普請指導や室内装飾の指示を行った者たちは
義政の良き相談役を務めるようになった。こうした人々は同朋衆(どうぼうしゅう)と呼ばれ、
中でも相阿弥(そうあみ)や禅僧の横川景三(おうせんけいさん)
彼等の中心的存在になった人物である。
龍安寺庭園
龍安寺庭園(京都府京都市右京区)

代表的な枯山水庭園として有名な龍安寺庭園。
白砂の上に大小15個の石を並べただけの庭園は
草木を全く使わない、文字通りの「枯山水」であり
石の配置構図は「虎の子渡し」と例えられる。
善阿弥の作り上げた庭園は現存しないが
その気風は現在も脈々と受け継がれ、守られている。

連歌と古今伝授 〜 文芸界の新風
後小松天皇の皇子といわれる一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は、この時代の革命児。
幼い頃から僧籍に入り、仏門を極める修行に明け暮れた一休。
ところが、この当時の僧はほとんどが上辺だけを綺麗に装いながら
現実は私欲にまみれる行為を繰り返す事に嘆き、一休は破戒僧のような奇行を敢えて行う。
自らを狂雲子(きょううんし)と名乗り、諸国を流浪し、
みすぼらしい風体で町に繰り出し、酒を愛で、遊郭へ通う事も度々あったが、
腐敗した仏教界を痛烈に批判するその姿は庶民の評判となっていおり、
遂には大徳寺の住職に就任して荒廃した寺院の復興に力を注いだ。
高齢になってからは盲目の女性・森侍者(しんしじゃ)を妻に娶り
彼女への思いを綴った漢詩を狂雲集(きょううんしゅう)として詩集にまとめたのであった。
一休宗純像一休宗純像
連歌界で特筆されるのが飯尾宗祗(いいおそうぎ)である。
室町時代を代表する連歌師・宗祗は、相国寺で修行した禅僧であったが、
30歳を過ぎた頃から和歌や連歌の道へ傾倒し数々の名作を作り上げた。
弟子の肖柏(しょうはく)宗長(そうちょう)と共に作り上げた
水無瀬三吟(みなせさんぎん)は、連歌の最高傑作とも評される作品である。
また、宗祗は古今伝授(こきんでんじゅ)の継承者としても知られる。
古今伝授とは、古今和歌集の故実や解釈を師から弟子に伝えるもので
その内容は秘事口伝(ひじくでん)、つまり継承者以外には一切知らせず、
記録も残さぬように口頭でのみ伝える技法で受け継がれるものであった。
東常縁(とうのつねより)から宗祗へ伝えられた古今伝授は、
宗祗から三条西実隆(さんじょうにしさねたか)・肖柏・宗長の3名に受け継がれ
更に後世へと残されていく。その秘法は皇室も一目置く重要なものとされ
何と関ヶ原合戦の折りに政治的道具として脚光を浴びる事になる。

花道と茶道 〜 池坊の隆盛と侘び茶の気風
義政の時代、風流を愛でる人々は四季折々に様々な集いを催していた。
春は立花(りっか、たてはなとも)の会、夏は茶会、秋は月見の会、という具合である。
立花とは花瓶に生けた花を楽しむ事で、現在の生け花に繋がる芸術であった。
こうした立花で一躍有名になったのが池坊(いけのぼう)一門だ。
京都の頂法寺(ちょうほうじ)、六角堂の僧たちは花道の名手が揃っており
彼らを総じて池坊と呼んだ。池坊の中でもこの時代に活躍したのが専慶(せんけい)
池坊一門も狩野派と同様に室町・安土桃山・江戸時代と通じて名を残していく。
さて、北山文化で闘茶を紹介した茶道はと言えば、産地当ての賭博から進化し
禅の精神を取り入れた茶の湯が成立するようになっていた。
これは茶道の元祖と称えられる村田珠光(むらたじゅこう)によるものだ。
元々は修行僧であった珠光は、若気の至りで闘茶にのめり込み博打三昧の日々を送る。
とうとう寺を追い出された彼は放浪した後、一休宗純に出会い
茶道についての悟りを開いたという。遊戯・賭け事として加熱する闘茶ではなく、
禅の精神、即ち侘び寂びの風雅を重んじて茶の奥深さを探求する“茶の湯の嗜み”こそが
本来あるべき茶道の姿だと気付いたのであった。
侘び茶の作法は珠光から弟子たちに伝えられ、安土桃山時代の芸術へと昇華される。
こうした弟子達の一人が足利義政であり、芸術将軍の名に相応しく
義政の茶器に対する審美眼は人並み外れたものであったという。
義政が選定した茶道具の逸品を大名物と言い、
茶の湯に傾倒した後世の大名・武将らはこぞってこの芸術品を欲したとされる。

東山文化の社会背景 〜 公家文化の拡散
北山文化にその端を発し、東山文化で顕著になった社会背景として、
元来は公家の風習であった伝統的な技能が一般庶民に受け入れられ
芸能となった点が挙げられる。公家の伝統に禅宗の要素が加わり民衆の技巧で成立した文化、
それが東山文化の大きな特徴と言えるのだ。では、公家の文化が何故拡散したのであろうか。
主な理由として挙げられる点は、従来の荘園制が瓦解し武士による全国支配が公然化したため
経済力を失った公家衆が、伝統として育んでいた学問・故実を
武士や有力民衆に教授する事で生活の糧にしようとした事が指摘できる。
一方、こうした指導を受ける武士や富豪層にとっては、
朝廷の有職故実に通じる事で自らのステイタスを上げ、
知性面から権威を向上しようとする狙いがあった。
「武力一辺倒ではなく、学識も兼ね備えた武士」
「支配に甘んじるのではなく、教養を高めて支配者層に近づこうとする民衆」
彼等のこうした目標が、公家の知性を活発に吸収し、新たな文化を切り開いたのだ。
そしてそこには、権力者の争いが続く不安定な時代ゆえに仏教の精神も重んじられ
当時の仏教権威であった禅宗の影響が大きく関わっている。
ところで、朝廷の衰えを憂う公家の中には、自分達で古き良き伝統を残し
朝廷儀礼や公家風習の復活を志す者がいた。一条兼良(いちじょうかねら)が好例で
彼の著作である樵談治要(しょうだんちよう)や公事根源(くじこんげん)は
有職故実を研究し、後世に残そうとする努力の結晶であった。



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