壬申の乱

大化の改新を成し遂げたのが天智天皇であれば
壬申の乱を勝ち抜いたのが天武天皇である。
壬申(じんしん)とは、十干と十二支を組み合わせた年号表記方法で
壬(みずのえ、十干の9番目)申(さる、十二支の9番目)の年という意味。
西暦の672年が壬申の年であるため、この年に起きた乱を壬申の乱と呼んだ。
戊辰戦争(1868年)の「戊辰」なども同様の表現である。
大化の改新後、律令制を確実なものとしていくために戦った
天武天皇とその妻・持統天皇の治世について。


大海人皇子の戦い 〜 2人の皇位継承者
天智天皇の死に際し、皇位をめぐり朝廷は真っ二つに分かれた。
天智天皇の子で太政大臣の大友皇子が継ぐべきか、
天智天皇の弟で朝廷内第一の実力者である大海人皇子が継ぐべきか。
大海人皇子は争いを避けるために自ら大津宮を離れ吉野宮(奈良県吉野郡吉野町)へ退去、
これによって672年、大友皇子が即位し弘文天皇となった。
しかし吉野方を封じ込めたい弘文天皇は密かに兵を集め大海人皇子討伐を目論むと共に
吉野宮へ通じる街道を封鎖し食料や物資の供給を止めようと画策した。
いち早くこれを察知した大海人皇子は大津方との対決を決意、6月22日に挙兵。
はじめはわずかな手勢しかいなかった吉野軍であるが、
大海人皇子の見事な采配で徐々に勢力を拡大していく。
配下を先行させ大海人皇子の領国である美濃(現在の岐阜県南部)で兵を整え
大津宮に残っていた大海人皇子の子・高市皇子(たけちのおうじ)
大津皇子(おおつのおうじ)を手際良く救出。
さらに飛鳥の豪族・大伴吹負(おおとものふけい)を味方に付ける事に成功した。
この動きを見て伊賀・伊勢(共に現在の三重県)・尾張(現在の愛知県西部)の勢力は
大海人皇子軍に帰順し、東国を完全に掌握したのである。
一方、完全に出し抜かれた大津方は慌てて軍を出兵させたが
大和方面・美濃方面の両方で敗北を重ね、7月22日における瀬田の決戦で敗れたため
遂に弘文天皇は自害、大津宮は落とされたのであった。
この大乱を壬申の乱と呼ぶ。
壬申の乱関係地図壬申の乱関係地図

大海人皇子の政治 〜 天武天皇、律令制を定む
乱を制した大海人皇子は飛鳥へ凱旋、ここを都と定め翌673年に天武天皇として即位した。
681年、新たな国家作りを目指し飛鳥浄御原令(あすかきよみがはらりょう)の作成を命じる。
天智天皇の時代では浸透しなかった公地公民制を徹底させるのが目的である。
さらに684年、八色の姓(やくさのかばね)を制定。冠位制度をさらに細かくし
皇族中心の身分支配を固めるもので、位は合計で48階級にも及ぶ。
天武天皇の政治は基本的に兄・天智天皇の志向を踏襲したものであるが
律(りつ)と令(りょう)、格(かく)、式(しき)を中心とする法制度を確定し
皇族の権威を揺るぎ無いものとする確実なもので、この制度を律令制と呼ぶ。
公地公民制、律令制はその後の朝廷政策の根幹を成す重要なものであった。
ちなみに、律は主に刑法典、令は行政・訴訟・民事法、
格は律令の補足・修正事項、式は律令・格の施行細則を内容としている。
同年、天皇は川島皇子(かわしまのおうじ)に国書の編纂を命じ
語部の稗田阿令(ひえだのあれ)には歴史の記憶を命令した。
後年、阿令の記憶は史書として「古事記」「日本書紀」になるのであった。
なお、稗田阿令は女性という説もある。
686年、天武天皇は死去。後事は妻の鵜野皇女(うののひめみこ)に託された。

持統天皇の時代
681年に皇太子は草壁皇子(くさかべのおうじ)に決定していたが
大津皇子の声望は高く、その地位を脅かすものであった。
鵜野皇女の弟である川島皇子は大津皇子に謀反の罪を着せて粛清、
草壁皇子への皇位継承を進めようとした。ところが689年に草壁皇子は急死してしまう。
皇太子不在となったため、690年暫定的に鵜野皇女が天皇に即位した。持統天皇である。

天武天皇と持統天皇

天武天皇と持統天皇 (赤字は女性) ―は親子関係 =は婚姻関係
持統帝即位の前年、689年に飛鳥浄御原令を施行し
694年には新都となる藤原京へ遷都。
藤原京は唐の首都・長安(現在の西安)に倣って作られた
日本初の都城制(とじょうせい)都市で、縦横に規則的な通りを配置した
碁盤の目のような町並みになっている。
本家中国の長安城は町全体を城壁で囲っており、
城の中に町を作った形になっているが、藤原京ではそこまで至らなかった。
が、都城制は後の都である平城京や平安京でも採用されており
それらの手本となったのがこの藤原京だったのである。
藤原京大極殿跡藤原京大極殿跡(奈良県橿原市)

律令制の展開 〜 藤原氏の勃興
持統天皇は天武天皇の政治を引き継ぎ、律令制を推し進める事に専心したが
この体制を支えたのが藤原鎌足の息子・藤原不比等(ふじわらのふひと)であった。
697年に持統帝は退位し上皇になり、草壁皇子の遺児・軽皇子(かるのおうじ)が即位。
文武天皇である。持統上皇は新天皇の後見として政治をみたが
不比等は相変わらず側近として腕を振るった。
701年、不比等や刑部親王(おさかべしんのう)らが編纂した新律令が完成。
これを記念して元号が大宝(たいほう)と改められ、律令は大宝律令と命名された。
大宝律令は浄御原令を基本とし、唐の制度により近づけた内容になっている。
この律令では、「二官八省」の役職を定めており、天皇の下に
太政官(だじょうかん、政治の中枢となる最高機関)と
神祇官(じんぎかん、朝廷での祭祀などを司る機関)が置かれ
太政官の統括下に中務省(なかつかさしょう、天皇の側近事務・詔勅作成・女官人事)
式部省(しきぶしょう、文官人事・朝廷儀礼・大学管理・官吏俸給支給)
治部省(じぶしょう、氏姓・相続・婚姻事務・葬制・外国使節の接待)
民部省(みんぶしょう、戸籍・租税など民政全般)
兵部省(ひょうぶしょう、武官人事・徴兵など軍事全般)
刑部省(ぎょうぶしょう、裁判・刑罰)・大蔵省(出納・物価統制・度量衡)
宮内省(宮中庶務)の八省が設置された。
他に弾正台(だんじょうだい、官吏の監督・弾劾)・衛府(えふ、皇宮警備)の役職が置かれ
地方官制として諸国に国司・郡司・里長の統括制度、
主要の地には大宰府(九州・西国の統治と外交・防衛)
摂津職(せっつしき、渡航港である難波津の管理・外交と摂津国の民政)
京職(けいしき、都の民政一般)の各役職が設けられた。この官制は大宝律令以後
奈良時代・平安時代にも朝廷の官吏制度として受け継がれた。
朝廷の支配制度を確定したのは、不比等であったとも言える。
こうして成立した律令制により、朝廷の支配はより確実なものとなり
国司を任命する事で地方へも波及していったのである。
各地の農民には班田収授法に基づき6歳になると国家から口分田が与えられ
租(そ、米穀)庸(よう、都での労役または布)調(ちょう、絹綿など)といった税が課せられた。
これ以外にも兵役や各地の特産物を納入する税もあり、
農民は完全に朝廷の支配に組みこまれる事になった。

白鳳文化 〜 「万葉集」の秀歌
この時代の文化は白鳳(はくほう)文化と呼ばれる。
先の飛鳥文化に続き仏教芸術が花開き、鮮やかな彩色を施した仏教画なども描かれており
唐の影響を受けたその気風は飛鳥文化と天平文化の中間における華やかな仏教文化と言える一方、
5・7・5・7・7のリズムで詠まれる歌など、日本独特の文化が興るようにもなってきた。
建築
薬師寺東塔
彫刻
法隆寺阿弥陀三尊像
法隆寺夢違観音像
薬師寺東院堂聖観音像
薬師寺金堂薬師三尊像
絵画
法隆寺金堂壁画
高松塚古墳壁画
白鳳文化の代表例
建築物で顕著なものは、何と言っても薬師寺の東塔であろう。
明治時代に来日し日本の古典哲学や古美術の研究をした米国人・フェノロサ曰く
「凍れる音楽」と例えられた律動美を示している。
一見六重塔に見えるその外見は、三重塔の各階中部に庇屋根の裳階(もこし)が付いているためで
規則的ながら変化に富んでいて見る者を感心させている。高さは34.1m。
薬師寺は本来680年に天武天皇が藤原京の位置に建てた官寺であるが
平城京の遷都に伴って現在の場所(奈良県奈良市西ノ京町)へ移築された。
絵画では高松塚古墳の壁画が有名である。
高松塚古墳は小規模の円墳であるが、1972年の発掘で内部の石室が調査され
棺室の4方壁面に色鮮やかな壁画が描かれているのが確認された。
北に玄武(げんぶ)、東に青龍(せいりゅう)、西に白虎(びゃっこ)が描かれ
南には朱雀(すざく)があったと推測される。これらは中国からの影響を受けた思想で
東西南北を司る四神によって墳墓を守らせたものであろう。
これら四神の他にも男女の姿や日輪、星座などの絵も描かれていて
色取り取りの顔料を用いた非常に鮮やかなものである。
薬師寺東塔薬師寺東塔(奈良県奈良市)
白鳳期の歌人には、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)
額田王(ぬかたのおおきみ)らがおり、
自然や風景の美しさ、素直な心情などを歌に表している。
これらの歌は後に歌集「万葉集」に収められた秀逸なものである。
淡海(おうみ)の海 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば
 心もしのに いにしへ思ほゆ    柿本人麻呂
茜草指(あかねさす) 武良前野逝(むらさきのゆき) 標野逝(しめのゆき)
 野守者不見哉(のもりはみずや) 君之袖布流(きみがそでふる)    額田王



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