★この時代の城郭 ――― 古代山城の築城
本文に記したとおり、663年・白村江の戦いで大敗した日本は
唐・新羅からの報復を恐れて西日本各地に防衛城砦を築いた。
これには滅亡した百済の亡命知識人が協力し
石垣や建築物の築造方法、防衛戦術など多岐に渡る技術指導を行ったのである。
大和朝廷の成立・発展にはこういった渡来人の先進知識が深く関わっており
権力基盤の確立に多大な貢献を果たしたと見られる。
こうして築城された古代山城は、現在において2種類に大別されている。
一つは文献上に残っている城郭「朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)」で
もう一つは文献に残っていない「神籠石式山城(こうごいししきやまじろ)」である。
朝鮮式山城は文献に残るだけあって、場所や経緯がある程度解明されていた。
文献では664年、水城(みずき、福岡県太宰府市近辺)を築城、
同年に対馬・壱岐・筑紫に防人と烽(とぶひ、烽火台)を設置とある。
水城は全長約1kmに及ぶ大突堤で、筑紫平野において敵の軍勢を足止めする施設である。
その名称から水を蓄え、敵の侵攻時に堤を決壊させ
洪水に巻き込むという戦術の為の堤防であると指摘する意見もある。
665年には大野城(福岡県糟屋郡宇美町)、667年に金田城(かねだのき、長崎県下県郡厳原町)
屋島城(やしまのき、香川県高松市)、高安城(たかやすのき)も築城し
九州から瀬戸内海を通り畿内までを防衛する城郭群が構成された。
一方、神籠石式山城は文献にない城郭であるため、長らく不明の遺跡として扱われ
太平洋戦争前までは宗教遺跡ではないかという見方まであった。
戦後の詳細な発掘調査によってこれらも古代山城であったと解明されたが
今なお研究は続けられている。こうした神籠石式山城は現在のところ全国に16箇所を数える。
岡山県の鬼ノ城(きのじょう)、香川県の城山城(きやまじょう)らが代表例である。
なお、西日本防衛のために数々の山城が築かれたが、特に九州内のそれらを統括し
防衛司令部としての役割を果たす政庁も作られた。太宰府(だざいふ)である。
結局、大陸からの侵攻はなくこれらの城が使われる機会はなかったが
大宰府は西日本を治める朝廷の出先機関として機能し、
以後の歴史に大きな影響を及ぼしていく。
鬼ノ城(岡山県)の石垣・水門遺構
|