大化の改新

日本初のクーデターといわれる大化の改新。
蘇我氏の専横は極まり、それを排除しようとする勢力は
遂に武力を以って実力行動に出たのである。
聖徳太子は制度と秩序で蘇我氏の暴挙を押さえようとしたが
次の世代においてはそうした猶予などなかったのだ。
激動の大和朝廷、蘇我氏打倒の火が燃え上がる。


改新前夜 〜 蹴鞠の出会い
蘇我馬子の死後、その後を継いだ蝦夷・入鹿父子は政治を独裁し
643年、天皇の許しもなく入鹿に紫冠を与えるほどであった。
既に推古天皇は没し、舒明天皇から皇極天皇の世に移っていたが
皇太子の位は決定していなかった。これを政治的に利用しようとする蘇我氏は
蝦夷の妹・法堤郎女(ほていのいらつめ)を母とする
古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)を皇太子に据えようと画策した。
一族に所縁の者が立太子すれば、蘇我氏の権勢はますます強くなるからである。
しかし対立候補は数多く、現在の天皇である皇極天皇の子
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や、聖徳太子の遺児
山背大兄王(やましろのおおえのおう)などがいた。
邪魔者は消せと言わんばかりに、同年に入鹿の手の者が山背大兄王を暗殺。
聖徳太子の血統は滅んでしまった。
さらに644年、入鹿は飛鳥宮を見下ろす甘橿丘(あまかしのおか)に館を造営。
武器庫や柵を構え、都を足元に眺める大邸宅であった。
蘇我氏の暴政はここに極まったのである。

皇太子候補一覧

当時の皇太子候補 (赤字は女性) ―は親子関係 =は婚姻関係
もう一人の皇太子候補・中大兄皇子は、自らの身にも蘇我氏の手が及ぶ事を警戒し
ひそかに蘇我氏打倒の機会を狙っていた。ある日の事、蹴鞠の会で靴を飛ばしてしまった皇子は
その靴を拾ってくれた人物、中臣鎌足(なかとみのかまたり)と親しくなる。
鎌足もまた蘇我氏の暴政を正そうとする者の一人であった。
両名は隋より帰国していた南淵請安の門下で学び、
新たな国家体制作りを研究しつつ、蝦夷・入鹿打倒の構想を練る。
入念な計画は蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)など賛同者を着実に増やし、
後は決行の日取りを待つばかりとなった。

決行の日 〜 新政府の発足
645年6月12日、この日は朝鮮半島の3国(高句麗、新羅、百済)の使者が来日し
皇極天皇に謁見する日であった。飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)の
大極殿(だいごくでん、天皇が政治を執り行う建物)で、
使者の書を読み上げる役は蘇我石川麻呂である。この朗読の最中、事件は起こった。
列席の蘇我入鹿に中大兄皇子らが斬りかかり殺害。同時に中臣鎌足は軍勢を指揮し
甘橿丘の邸宅にいた入鹿の父・蝦夷の動きを封じた。これが大化の改新である。
翌13日、既に趨勢は決したと観念して蝦夷は自害、蘇我氏の邸宅には火が放たれた。
クーデターは成功を収めたのである。さらに14日、皇極天皇は退位し上皇になり新政府が発足。
天皇の位には皇極天皇の弟・孝徳天皇が即位、皇太子に中大兄皇子が就く。
新たに設置された役職である内臣(うちつおみ、ないしんとも)に中臣鎌足、
左大臣に阿倍内麻呂(あべのうちまろ)、右大臣に蘇我石川麻呂、
政治顧問である国博士(くにのはかせ)に遣隋使として留学した旻と高向玄理が就任した。
そして19日、中国の制度に倣い元号を制定、大化(たいか)とする。
新体制の確立はさらに続く。8月、東国に国司(こくし)を任命した。
国司とは地方行政長官のようなもので、各国を治めるために地方へ派遣された役人である。
9月には古人大兄皇子を討ち、蘇我氏所縁の者は完全に排除された。
もはや飛鳥宮に政争の火種は無くなり、この年の暮れ
政治刷新のために都は難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)へ移された。
遷都地図遷都地図(色は現在の府県であり旧国ではない)
1飛鳥板蓋宮あすかいたぶきのみや 642〜645奈良県高市郡明日香村
2難波長柄豊碕宮なにわながらとよさきのみや 645〜655大阪府大阪市北区
3飛鳥岡本宮あすかおかもとのみや 655〜667奈良県高市郡明日香村
4近江大津宮おうみおおつのみや 667〜672滋賀県大津市
5飛鳥浄御原宮あすかきよみはらのみや 673〜694奈良県高市郡明日香村
6藤原京ふじわらきょう 694〜710奈良県橿原市
7平城京へいじょうきょう 710〜740奈良県奈良市
8恭仁京くにきょう 740〜744京都府相楽郡加茂町
9難波宮なにわのみや 744大阪府大阪市中央区
10紫香楽宮しがらきのみや 744滋賀県甲賀郡信楽町
11平城京へいじょうきょう 744〜784奈良県奈良市
12長岡京ながおかきょう 784〜794京都府長岡京市
13平安京へいあんきょう 794〜1180京都府京都市
14福原宮ふくはらのみや 1180〜1185兵庫県神戸市兵庫区
15平安京へいあんきょう 1185〜1869京都府京都市

中大兄皇子の戦い 〜 政争、蝦夷征討、そして百済の滅亡
646年正月、改新の詔(みことのり)発布。唐(隋に代わった中国の王朝)に倣った制度を
新政府の基本方針として導入する宣言であり、公地公民制・班田制が取り入れられた。
公地公民制とは、従来それぞれの豪族や皇室が領有していた土地と民を
すべて国家のものとし、豪族は国の役人として政府に任官する制度である。
これに伴って定められたのが班田制(はんでんせい)で、
班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)に基づいて民に口分田(くぶんでん)を与え
そこから国家に税を治めさせるもの。豪族はあくまでも公務員として国家から俸給を受ける。
税収のために農民の戸籍・計帳を作成、全国に国司・郡司を任命し地方官制を整えた。
しかし新制度が機能するには一朝一夕ではいかず、政治が停滞する事が多々あった。
中大兄皇子と中臣鎌足は政敵となる人物を排除しようと試み
649年3月に蘇我石川麻呂が自害、653年には孝徳天皇を難波長柄豊碕宮に残し
新政府中心人物は飛鳥へ戻ってしまった。655年に天皇は死去、
皇極天皇が重祚(ちょうそ、皇位を退いた者が復位する事)し即位。
斉明天皇となり再び飛鳥が都と定められた。さらに658年、孝徳天皇の遺児である
有間皇子(ありまのおうじ)蘇我赤兄(そがのあかえ)を使って討ち取らせる。
石川麻呂、孝徳天皇、有間皇子と目障りな人物を消していったのであった。
一方、この頃の東北地方は未だ大和朝廷の支配下にはなく、現在の山形県・宮城県以北は
未開の地、蝦夷(えみし、えぞとも)とされていた。朝廷は東北制圧を試み、
658年〜660年にかけて阿倍比羅夫(あべのひらふ)率いる軍勢を派遣。
この水軍は日本海沿岸から齶田(あきた)・渟代(ぬしろ)・津軽など東北各地に上陸、
最終的には粛慎(みしはせ、北海道の事)まで遠征した。
国内の状況が中央集権体制の確立を模索していた660年、朝鮮半島から急報が届く。
日本の友好国であった百済が唐と新羅の連合軍によって滅ぼされたのである。
過去に任那地域を失った日本にとって、百済までが滅亡しては
朝鮮半島における影響力がなくなるため、翌661年に百済復興軍を編成し
北九州に集結させた。同時に斉明天皇・中大兄皇子らも九州に渡り
筑紫の朝倉宮(あさくらのみや)に仮御所を構えた。
ところが、この朝倉宮で斉明天皇は崩御してしまうのであった。

中大兄皇子の政治 〜 天智天皇、国内基盤を固める
斉明帝亡き後、中大兄皇子は称制(しょうせい、即位しないが実質上の天皇として政務を執る事)し
阿曇比羅夫(あずみのひらぶ)を総大将とする百済復興軍を662年に朝鮮半島へ送り込んだ。
かくして663年、唐・新羅連合軍と日本・百済連合軍が朝鮮半島南西部の
白村江(はくすきのえ、はくそんこうとも)で激突したが、日本軍は大敗を喫する。
これで百済再興は完全に不可能となり、大和朝廷は唐・新羅の報復を恐れて恐慌に陥った。
中大兄皇子らは九州から飛鳥へ戻り、大陸からの侵攻軍に対する防備を固めるために
九州から瀬戸内海一帯にかけて数々の城砦を築いた。現在では古代山城として分類される
これらの城の築城にあたっては、滅亡した百済からの亡命人が技術提供したと言われる。
同時に国内体制の確立を急ぎ、664年に冠位二十六階の制度を定める。
聖徳太子による冠位十二階は647年に十三階、649年に十九階に拡張されていたが
それを上回る階級分けで役人の序列と規律を確保したのである。
また、対馬・壱岐・筑紫に防人(さきもり、監視・防衛のための駐屯兵)を配置、
なおも大陸の脅威を懸念した皇子らは667年に近江大津宮へ遷都した。
少しでも大陸から遠い場所へ避難しようとしたのである。
明けて668年に中大兄皇子は天皇に即位。天智天皇である。
近江令(おうみりょう)と呼ばれる法令を制定し政権基盤をより一層固めようとしたが
翌669年、長年天智帝を支えてきた腹心・中臣鎌足が病の床についてしまった。
鎌足の危篤に際し、天智帝は大織冠(たいしょくかん)の位と藤原の姓を与えた。
後の摂関家藤原氏の祖である藤原鎌足と改名した功労者はその翌日に逝去。
671年には天皇も病に臥すようになり、後継者問題が表面化してくる。
天智天皇には息子の大友皇子(おおとものおうじ)がおり、
この年の1月に太政大臣(だじょうだいじん、臣下として最高の位)に就いていたが
朝廷内で第一の勢力を持ち、次の天皇候補とされていたのは
天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)であった。
天皇は我が子を次の皇位に就けるため太政大臣に任命したのだが
それは大海人皇子との確執を生み、朝廷内において大きな波紋を呼ぶ事となってしまった。
政争を避けようとした大海人皇子は10月に自ら隠棲し、吉野の山に篭って出家した。
大友皇子派の刺客が大海人皇子の命を狙う危険があったからである。
朝廷を離れた大海人皇子、権力の継承が未完の大友皇子、
両名の対立を遺したまま12月に天智天皇はこの世を去っていく。


★この時代の城郭 ――― 古代山城の築城
本文に記したとおり、663年・白村江の戦いで大敗した日本は
唐・新羅からの報復を恐れて西日本各地に防衛城砦を築いた。
これには滅亡した百済の亡命知識人が協力し
石垣や建築物の築造方法、防衛戦術など多岐に渡る技術指導を行ったのである。
大和朝廷の成立・発展にはこういった渡来人の先進知識が深く関わっており
権力基盤の確立に多大な貢献を果たしたと見られる。
こうして築城された古代山城は、現在において2種類に大別されている。
一つは文献上に残っている城郭「朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)」で
もう一つは文献に残っていない「神籠石式山城(こうごいししきやまじろ)」である。
朝鮮式山城は文献に残るだけあって、場所や経緯がある程度解明されていた。
文献では664年、水城(みずき、福岡県太宰府市近辺)を築城、
同年に対馬・壱岐・筑紫に防人と烽(とぶひ、烽火台)を設置とある。
水城は全長約1kmに及ぶ大突堤で、筑紫平野において敵の軍勢を足止めする施設である。
その名称から水を蓄え、敵の侵攻時に堤を決壊させ
洪水に巻き込むという戦術の為の堤防であると指摘する意見もある。
665年には大野城(福岡県糟屋郡宇美町)、667年に金田城(かねだのき、長崎県下県郡厳原町)
屋島城(やしまのき、香川県高松市)、高安城(たかやすのき)も築城し
九州から瀬戸内海を通り畿内までを防衛する城郭群が構成された。
一方、神籠石式山城は文献にない城郭であるため、長らく不明の遺跡として扱われ
太平洋戦争前までは宗教遺跡ではないかという見方まであった。
戦後の詳細な発掘調査によってこれらも古代山城であったと解明されたが
今なお研究は続けられている。こうした神籠石式山城は現在のところ全国に16箇所を数える。
岡山県の鬼ノ城(きのじょう)、香川県の城山城(きやまじょう)らが代表例である。
なお、西日本防衛のために数々の山城が築かれたが、特に九州内のそれらを統括し
防衛司令部としての役割を果たす政庁も作られた。太宰府(だざいふ)である。
結局、大陸からの侵攻はなくこれらの城が使われる機会はなかったが
大宰府は西日本を治める朝廷の出先機関として機能し、
以後の歴史に大きな影響を及ぼしていく。
鬼ノ城石垣遺構鬼ノ城(岡山県)の石垣・水門遺構




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