飛鳥時代

大和朝廷の政治基盤が安定した時代になると
有力氏族の間で権力闘争が繰り広げられるようになる。
一方、それを危険視して天皇の権力をより強固にしようと試みる動きもあった。
都が飛鳥の地におかれた時代、
仏教伝来の時期に重なる氏族の対立と
秩序ある政治を目指した聖徳太子の苦悩。


仏教伝来 〜 物部氏vs蘇我氏の崇仏論争
522年に中国から渡来した司馬達等(しばたっと)が仏教を私伝したとされるが
一般的に仏教が伝来したのは538年(552年説もある)百済の聖明王による
仏像・経典の献上であると言われている。この仏教公伝は有力氏族の対立を引き起こした。
大臣の蘇我稲目(そがのいなめ)は大陸伝来の新宗教を歓迎したが
大連の物部尾輿(もののべのおこし)は日本古来の神道こそ祭るべきで
仏教を異国の邪教とし排除を求めた。当時の欽明天皇は仏教の評価を決めかね
とりあえず稲目に仏像を与え祭らせた。ところがこれを納得しない尾輿は
疫病や天災を仏教を祭った事に日本古来の神々が怒っていると理由付け
蘇我氏の寺を焼き討ちしてしまったのであった。
しばらくして稲目と尾輿は亡くなるが、崇仏論争はそれぞれの子供
蘇我馬子(そがのうまこ)物部守屋(もののべのもりや)に引き継がれた。

聖徳太子の誕生 〜 蘇我馬子、権勢を奪取す
敏達天皇の治世であった574年、天皇の弟である後の用明天皇に男子が生まれた。
この男子の誕生では馬屋(厩)の前で陣痛を起こしたため
厩戸皇子(うまやどのおうじ)と名付けられた。
用明天皇の母・堅塩媛(きたしひめ)は蘇我稲目の娘であり
蘇我馬子は厩戸皇子の大叔父に当たる。馬子は皇族である皇子を味方に付けるため
仏教の必要性を説き、利発な皇子も優れた大陸文化の一つとして熱心に崇拝した。
敏達天皇の後を継ぎ皇位に就いた用明天皇は間もなく病にかかり亡くなったが
次の皇位をめぐっても蘇我氏と物部氏は対立した。
馬子は自分の甥である泊瀬部皇子(はっせべのおうじ)を推挙したが
当然、守屋は蘇我氏の縁戚である人物へ皇位を与えるのに真っ向から反対した。
仏教の是非、皇位の継承と2つの大きな問題でいがみ合う両者は
587年、遂に武力衝突を引き起こす。
馬子は厩戸皇子・泊瀬部皇子を引き連れて物部氏の本拠に迫ったが
大連という軍事担当の職にある守屋はこれを物ともせず撃退。
物部軍攻略にてこずる蘇我軍陣中で、厩戸皇子は四天王の仏像を彫り勝利を祈願し
ついに宿敵・守屋を敗死させ物部氏を滅ぼしたのであった。
厩戸皇子は戦勝を授かった御礼として四天王を奉る寺を593年に建立した。
これが大阪・四天王寺の由来である。
物部氏が消えたことにより泊瀬部皇子は崇峻天皇として即位し
馬子は朝廷内第一の権力を握る実力者となって君臨したのである。
一方、厩戸皇子は馬子の独裁を危惧し朝廷の行く末を案じていた。
この厩戸皇子こそ、賢者として名高い聖徳太子その人である。

蘇我氏系図

蘇我氏と皇室の繋がり (赤字は女性) ―は親子関係 =は婚姻関係

聖徳太子の政治 〜 初の女帝を補佐する賢き摂政
馬子の後援で即位した崇峻天皇であったが、実権は全て馬子に握られており
次第に蘇我氏を疎むようになってきた。これを感づいた馬子は天皇を暗殺。
天皇といえども馬子の思いのままに挿げ替えられるようになったのだ。
聖徳太子の懸念は見事に的中したのである。
馬子は次の皇位に女性の推古天皇を推挙、
天皇を補佐し政治を司る摂政(せっしょう)の役に聖徳太子を就け
自らは変わらず大臣の姓に君臨した。推古帝・太子・馬子の三頭体制である。
摂政に就任した聖徳太子は秩序ある国家体制の確立を目標とし
まず594年に仏教(三宝)興隆の詔(みことのり)を発した。
仏教の慈愛精神を広め政治基幹としたのである。
次いで600年、任那復活計画のために中国大陸の隋帝国と誼を結ぼうと
第1回の遣隋使(けんずいし)を派遣した。隋の支援を取り付けて
任那復活を目論んだのである。一方、馬子は先ず派兵ありとして新羅へと出兵。
結局、任那復活は成らなかった。
天皇や摂政の威光を軽んじる馬子を押さえ込む事が必要と感じた太子は
603年に冠位十二階の制度を制定。従来の氏姓制度で割拠していた豪族を
新たな序列に再編し、天皇の臣下である事を明確にした。その階級を12の位に分け、
位に応じた冠を色で分けて区別できるようにする制度である。
ところが馬子はこの制度に従わず、自らは「無冠の位である」と授冠を拒否した。
冠位
冠色
1
大徳
だいとく

2
小徳
しょうとく
3
大仁
だいじん

4
小仁
しょうじん
5
大礼
だいらい

6
小礼
しょうらい
7
大信
だいしん

8
小信
しょうしん
9
大義
だいぎ

10
小義
しょうぎ
11
大智
だいち

12
小智
しょうち
冠位十二階
604年、太子は十七条憲法を制定。馬子を牽制すると共に
役人の心得を示したもので、第1条の「和を以って尊しと為せ」という文言は有名。
仏教の保護、天皇への服従、公正公平の遵守などが記載されている。
対外的には607年に小野妹子(おののいもこ)を第2回遣隋使として派遣。
国書の冒頭に「日本」という国名の由来となった一文、
「日出づる国の天子、書を日没する処の天子に致す」と記し
隋の皇帝・煬帝(ようだい)の不評を買ったものの、一応の成功を見た。
太子は臣下の礼を取るのではなく、対等外交を望んだのがこの文の意味とされる。
608年にも第3回遣隋使として妹子を派遣、この時には隋への留学生として
高向玄理(たかむこのくろまろ)南淵請安(みなみぶちのしょうあん)・僧侶旻(みん)らを随行させた。
隋との交流を深め、先進の大陸文化や政治制度を吸収する事で
大和朝廷、すなわち天皇の権威を高めようとしたのである。
しかし太子の努力にもかかわらず馬子の専横を排除できなかった。
長年の激務が祟ったのか、622年に太子は病没。蘇我氏の専制は太子の死後も続き
626年に馬子が没すると馬子の息子・蘇我蝦夷(そがのえみし)
蝦夷の子・蘇我入鹿(そがのいるか)に引き継がれてしまったのである。

飛鳥文化 〜 仏教伝来によるシルクロード交流
言うまでもなく、仏教はインドで成立した宗教であり
仏教伝来は日本にインドからの文化が伝わった事を意味する。
しかし極東の日本へ伝わったのは中央アジアからの事物だけという訳ではない。
インドからさらに遡り、ヨーロッパの影響を受けた物が多々日本へ到達している。
ヨーロッパ〜中央アジア〜中国と繋がる交易路は一般にシルクロードの名で知られており
この「絹の道」を通り様々な文化が日本へとたどり着いたのだ。
例えば、仏教伝来により日本にも寺が建立されるようになったが、
この時代に建てられた法隆寺歩廊の柱は、古代ギリシアの
パルテノン神殿石柱と同じようにエンタシス形式の柱で仕上げられている。
エンタシス形式とは、立柱の中央部に膨らみをもたせ、根元と頂部を細めに加工する形式。
日本の建築様式に遥かヨーロッパの文化が影響を与えているのだ。
また、仏像の形式でも中国やインドの風合いを色濃く反映している。
飛鳥時代の彫刻は北魏(ほくぎ)様式と南梁(なんりょう)様式に大別されるが
前者は中国風の作風、法隆寺金堂釈迦三尊像や飛鳥寺釈迦如来像が代表作で
後者はインド風の作風、広隆寺弥勒菩薩像や中宮寺弥勒菩薩像が当てはまる。
日本へ伝来した仏教は融合された多国籍文化の終着点であったのだ。
ちなみに、北魏様式仏像の名工として止利仏師(とりぶっし)一派がいるが
仏教を私伝した司馬達等の孫がこの止利仏師(鞍作鳥(くらつくりのとり)とも言う)である。
建築
法隆寺[金堂・五重塔・中門・回廊(歩廊)など]
彫刻
北魏様式
法隆寺金堂釈迦三尊像
法隆寺金堂薬師如来像
法隆寺夢殿救世観音像
飛鳥寺釈迦如来像(飛鳥大仏)
南梁様式
法隆寺百済観音像
広隆寺弥勒菩薩像
中宮寺弥勒菩薩像
絵画
法隆寺玉虫厨子扉絵
法隆寺玉虫厨子須弥座絵(捨身飼虎図・施身聞偈図)
工芸
法隆寺玉虫厨子
法隆寺獅子狩文様錦
中宮寺天寿国繍帳
飛鳥文化の代表例
玉虫厨子(たまむしのずし)は、法隆寺にある宝物の一つ。
厨子とは仏像を安置するための台座箱の事で
玉虫厨子では装飾として2563匹の玉虫羽根を貼りつけてきらびやかな物にしている。
箱の扉や台座部分には絵画が使われており、これも飛鳥時代ならではの仏教画である。
中宮寺の天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)は、
聖徳太子の死を悼んだ橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)
死後の太子が辿り着いたであろう天寿国の姿を映し出すために
渡来人たちに絵画を描かせ、刺繍させた織物である。
日本最古の刺繍であり、現在は88.5cm×82.7cm分の切れ端が残っている。
橘大郎女は聖徳太子の室。
蛇足になるが、法隆寺は世界最古の現存木造建築物といわれ、
姫路城と並び日本で初めての国連世界文化遺産に登録されたのは周知の事実である。
法隆寺金堂法隆寺金堂(奈良県生駒郡斑鳩町)



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