古墳時代(大和時代)

邪馬台国以来の沈黙を破るのが大和朝廷の成立である。
奈良時代に編纂された日本の史書、古事記と日本書紀から類推され
それを中国の史書が裏付けている。この頃の日本は豪族が独自に力を蓄え、
数多の豪族の上に君臨した「大王(おおきみ)」が中央政権を作り上げたとされる。
神話と歴史の狭間に見え隠れする大和朝廷の成り立ちを記載する。


大王 〜 世界一長く続く王統、日本皇室の始まり
4世紀頃の日本では、各地の豪族が国を治め軍事力を持ち
お互いに抗争を繰り返していた。やがて数多くの豪族を打ち倒し
「大王」とよばれる人物が登場してくる。
大王による日本初の中央政権が大和朝廷であり、その支配地域は
九州〜畿内にかけた西日本と、朝鮮半島南部にも及んでいたのである。
当時の朝鮮半島は高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ、しんら)
百済(くだら、ひゃくさい)といった国々に分裂していたが
この一角に日本が支配した任那(みまな)地域が食いこんでいた。
(任那は加羅(から)とも言う)
百済は伝統的に日本の友好国であり、倭王に献上品を贈った事が度々ある上
日本・任那の連合軍が新羅を倒し支配した時期もあった。
こうして日本と朝鮮に勢力を張った大和朝廷の大王は
邪馬台国以来の朝貢を中国に行い、権力基盤をより強固なものへと狙ったのである。
413年、倭王が東晋(とうしん)に献上品を贈ったと晋書に記載され
宋書によれば421年に倭王の讃(さん)が宋(そう)に使者を遣わした。
以降、讃・珍(ちん)済(せい)興(こう)武(ぶ)が大陸に朝貢し
安東将軍や征東将軍などの称号を中国皇帝から贈られている。
この5人を「倭の五王」と呼ぶが、応神仁徳反正允恭安康雄略のうち
いずれかの天皇であるとする説が有力である。つまり、大王は天皇の事であり
世襲制で皇位を継承する制度がこの時点で確立していたのである。

古墳 〜 世界一大きな陵墓、日本に現る
この時代で最も特徴的な事柄は古墳(こふん)の造営である。
古墳とは、有力な豪族や大王の陵墓であるが、一般の墓とは違い
その大きさは桁違いなもの。人工の山を作ると同じようなものである。
古墳の大きさや装飾が埋葬者の権威を示すものとされたのが理由である。
一口に古墳と言っても様々な形状があり、創建の時期や地域によって特色がある。
古墳の形状
1.前方後円墳(古墳時代前期)
2.前方後円墳(古墳時代中期)
3.前方後円墳(古墳時代後期)
4.双方中円墳
5.前方後方墳
6.円墳 7.方墳 をそれぞれ上空から見た形状である。
(これ以外にも様々な形状がある)
古墳時代前期に畿内を中心に発生した古墳は
丘陵地・台地に築かれる事が多く、鏡・宝玉など祭祀器が副葬品として埋められた。
古墳の輪郭には筒状の円筒埴輪(えんとうはにわ)が並べられていた。
古墳時代中期になると、全国的に広まり規模は最大化、
あまりに巨大な墳墓は平野部でなければ作れないものであった。
副葬品には馬具・甲冑といった武器や装身具のような実用品が多くなり
人や動物、家をかたどった形象埴輪(けいしょうはにわ)が古墳を守った。
古墳時代後期には規模が縮小され、簡単に作られる円墳が主流となる。
埴輪はほとんど使われなくなり、個人ではなく一族を葬る群集墓形式が多くなった。
最大の古墳は大阪府にある大山(だいせん)古墳、仁徳天皇陵である。
墳丘部の全長は486mにも及び、ギネスブックに認定される世界最大の陵墓。
これだけ巨大な墓を用意できるということは、大王の威光は相当なものであったろう。

氏姓制度と大陸交流
この時代の政治制度は、大王(天皇)を頂点とし
有力豪族を配下に置き人民を統制する形態であった。
豪族は一族で集団を作って氏(うじ)を名乗り
朝廷内の地位に応じて姓(かばね)という役職称号を与えられていた。
この体制を氏姓制度(しせいせいど)と呼ぶ。有力な氏は
中央政界において大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)の姓に就き
地方支配において伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)などの姓に任じられた。
大臣は主に経済・外交を担当し、大連は軍事や裁判を担当、
伴造・国造は地方行政長官のようなものである。
また、この時代には朝鮮半島から来日し帰化した人材が多く
こうした者も豪族と並んで氏姓制度の一翼を担った。
渡来人は王族・学者・文化人・技術職人などの知識人であり
日本に先進の大陸文化を運んできたのであった。
例えば5世紀に渡来した弓月君(ゆづきのきみ)は養蚕・機織の技術者で
大和朝廷において秦(はた)の氏を与えられた。
大和朝廷の権力基盤確立において、渡来人の優れた知識と技能が
大きく貢献したことは想像に難くないであろう。

磐井の乱
第25代天皇の武烈天皇が没した後、後継者が決まらずにいた時期
越前(現在の福井県)で圧倒的な軍事力を持つ人物が大王一族の末裔と名乗り出た。
大連の大伴金村(おおとものかなむら)はこの人物を新天皇に迎え入れた。
第26代天皇、継体天皇である。金村は継体天皇の側近になり権勢を振るうが
私欲に走り512年、任那のうち4郡を百済に売り渡してしまった。
この割譲で朝鮮半島における日本の影響力は大きく減退、
任那地域は最大の敵国とも言える新羅の脅威に晒され
日本との航路も危うくなり、貿易や通行が満足に行えない状況に陥った。
大和朝廷はこの事態を憂慮、527年に新羅討伐を計画し
有力豪族の近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)を遠征将軍に任命した。
毛野臣は各地の豪族にも出兵を命じ討伐軍を編成しようとしたが
筑紫国(つくしのくに、現在の福岡県・佐賀県周辺)国造であった
磐井(いわい)はこれを承服せず、大和朝廷に叛旗を翻した。
九州各地の豪族は磐井に呼応し、朝廷の新羅討伐軍に対し妨害工作を行った。
磐井は新羅と密約があったという説もある。
この磐井の乱に対処するため朝廷は鎮圧軍を新たに編成、
大連の物部麁鹿火(もののべのあらかひ)が総大将となって九州へ向かった。
大和軍と磐井軍の合戦は1年半にも及んだが、
御井郡(みいぐん、現在の久留米市近郊)において行われた決戦で磐井は敗北、
そのまま行方知れずとなった。磐井の乱を鎮めた事により
大和朝廷は抵抗する諸豪族を服従させ、権力基盤を強固なものとしたが
任那問題で540年に大伴金村は大連を辞任するに至り
562年、任那は新羅に滅ぼされてしまう。



前 頁 へ  次 頁 へ


辰巳小天守へ戻る


城 絵 図 へ 戻 る