邪馬台国

弥生時代後期に登場するのが邪馬台国である。
弥生時代の日本にはもちろん文字やそれを記した書物はなく
生活様式を石器・土器・集落遺跡・稲作痕跡などから推定するしかないのだが
先進の大陸文化が花開いた中国では漢字文化が定着し
さまざまな史料が残されている。
中国の史料から推定される当時の日本、「倭国(わこく)」の記述とは。


大陸情勢 〜 中国史書に記載された日本
世界4大文明のひとつである黄河文明が栄えた中国では
文字、建造物、社会制度といった文化が古くから確立し
紀元前1600年頃には文明国家の殷(いん)王朝が成立したと言われる。
さらに紀元前1050年頃に殷を倒して周(しゅう)王朝が立ち、
長い戦国時代を経て紀元前221年、始皇帝による秦(しん)帝国が中国大陸を統一した。
始皇帝の死により秦はわずか15年で滅亡、代わって漢(かん)帝国が成立した訳だが
漢も紀元8年に一時断絶、紀元25年に復活する曲折を経ている。
断絶前の国は前漢、復活後の国は後漢と呼ばれ区別される。
さて、中国ではこうした帝国が自らの正統性と権威を主張するために
史書を編纂したが、この中で日本について記載する事が度々あった。
はじめて日本の様子が記載されたのは紀元0年頃である。
当時の漢王朝の記録書「『漢書』地理志(かんじょちりし)」の中に
倭国は百余国に分立している、とある。
ここで言う国とはムラの集合体となる国家の事である。
当時のムラは互いに集合や争いを繰り返し連立国家を作り上げ
その国もまた集合や争いを続けていたようだ。
続いて紀元57年、倭の奴(な)国王が後漢に朝貢(ちょうこう)し
当時の皇帝である光武帝(こうぶてい)から印綬(いんじゅ)を授かったとされ
これは「『後漢書』東夷伝(ごかんじょとういでん)」に記載されている。
朝貢とは、強大な権力を持つ中国皇帝に臣下の礼をとる儀礼。
奴国の王は中国皇帝に認められ後ろ盾とする事によって
他の国々を従わせようとしていたのである。
後漢書東夷伝にはその後も倭国についての記録が残され
紀元107年に倭国王帥升(すいしょう)が生口(せいこう、奴隷の事)160人を献上、
147年〜189年にかけて倭国で大乱が発生したとある。
倭における国と国の争いは日々激化していたようだが、
後漢もこの後急速に衰退、220年〜222年にかけて
魏(ぎ)・蜀(しょく)・呉(ご)の3国が次々に独立し、三国時代が到来する。

邪馬台国 〜 女王の治める古代国家
華北を制圧し3国で最も強大であった魏に
紀元239年、倭の邪馬台国女王・卑弥呼(ひみこ)が使者を送り
「親魏倭王(しんぎわおう)」の金印と銅鏡などを賜った。
これは魏の史書「『魏志』倭人伝(ぎしわじんでん)」に記されている。
邪馬台国は「やまたいこく」とも「やまとこく」とも呼ばれ
その場所も定かでない謎の古代国家である。
邪馬台国の位置には諸説あるが、有力なのは北九州説と畿内説の2つである。
年代的に九州を統一した程度の国が邪馬台国であるとした北九州説に対し
畿内説は邪馬台国がその後の大和朝廷へと繋がるものであると推測している。
畿内説では「邪馬台国(やまとこく)=大和国」と読めるとしている。
いずれにせよ長き戦乱が続いた倭国では、大規模な統一国家形成が求められ
卑弥呼が指導的立場に挙がり邪馬台国の成立に至ったようである。
卑弥呼は神懸り的な能力を秘めた巫女と言われるが、これもまた謎の一つ。
神秘の女王が治める事により、倭国の争乱は収束していったのであろうか。
卑弥呼は243年にも魏に朝貢し、247年には狗奴(くな)国の王
卑弥弓呼(ひみここ)と戦ったと魏志に記録が残る。
卑弥呼の死後、男の王が立ったが国中承服せず再び戦乱が発生し
卑弥呼と同じく巫女の力を持つ壱与(いよ)が女王になったことで
戦いは収まったと言われている。266年、倭の女王が中国に遣使しているが
この女王が壱与であると見る意見が有力である。
266年の記載は魏・蜀を併合した国家、
西晋(せいしん)の史書「晋書(しんじょ)」にあるが
これ以後147年間、日本と中国の国交記録がなく
次に中国の史書が日本を記載するのは413年の事である。



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