弥生時代

日本人の主食である米。
“腐らずに保存できる食物”の米は貴重なものであり
江戸時代まで国家へ納める税の基本となった。
稲作が日本全土に広まった時代が弥生(やよい)時代である。
紀元前300年頃からの時代区分が弥生時代。
弥生とは、東京都文京区にある地名で
ここで遺跡が出土したことにちなんで名付けられた時代区分である。


弥生時代の生活 〜 縄文文化の踏襲と駆逐
縄文時代に引き続き、弥生時代においても石器や土器は使用された。
しかし、石を叩き割っただけの石器ではなく
石を削り、磨き、多彩な種類を作り上げるようになってきた。
こうして作られる石器を「磨製(ませい)石器」という。
磨製石器は狩猟・漁業に使うだけでなく
槌や斧、鍬のような物にまで発展していく。
この石器の登場により、木材を加工した建築物や
耕作に利用する農機具が登場し、縄文時代とは明らかに違う集落が発生した。
土器も改良が加えられ、縄文式土器とは異なって
薄く、軽く、より硬い土器が作られるようになった。
この土器は時代区分から弥生土器と呼ばれる。
弥生土器は貯蔵用の壷、煮炊き用の甕(かめ)、蒸し器となる甑(こしき)、
食器として使う高坏(たかつき)の4種に大別される。
稲作の伝播、木造建築物の登場、弥生土器による食生活改善により
ムラと呼ばれる集落とそこでの生活は大きな変貌を遂げた。
すなわち、集落に付随して水田が広がり、それに伴い水路や畔が整備され
収穫した穀物を貯蔵する高床式の倉庫が建設され
壷に入れていた米を甑で蒸し(当時は炊くのではなく蒸して米を調理した)
高坏に盛って食べる暮らしになったのである。
静岡県の登呂遺跡などがこうした遺跡の代表例で
大規模な集落の周りで広大な水耕農業が行われた事を実証している。

稲作と大陸文化の広がり
近年の研究では縄文時代末期には稲作が日本に伝えられていたとされる。
稲作農業は中国の揚子江下流域が起源と言われ、
日本に大陸から稲が伝播したルートには2つの説がある。
揚子江下流域から中国大陸を北上した稲作文化が
山東半島から朝鮮半島へ伝わり、ここから日本へ渡来したとする説と
揚子江下流域から直接日本へ伝えられたとする説である。
いずれの説においても、日本で初めて稲作が行われたのは北九州と見られ
次第に中国・四国地方、近畿地方、中部地方へと広まったようである。
大陸から伝わったのは稲作だけではない。銅器・鉄器の伝来である。
これら金属器の使用は、中国大陸では既に一般的となっており
鉄斧のような生活器具、銅鉾(どうほこ)・銅戈(どうか)・銅剣や
祭祀器と見られる銅鐸(どうたく)が日本各地で発掘されている。
ただし、銅鉾は中国で武器として用いられる物であるが
日本では変形し祭祀器として使われた。
こうして伝えられた稲作・鉄器文化=弥生文化は
古い縄文文化を塗り変えていったわけだが
最近の考査では「弥生人」とされる人種と「縄文人」の人種は異種であり
縄文人は弥生人に打ち倒され、弥生文化の浸透に合わせて
近畿地方→中部地方→東北地方へ追われていったと言われる。
最後まで弥生文化が伝わらなかった北海道・沖縄は別格であり
北海道は続縄文(ぞくじょうもん)文化、沖縄は南島(なんとう)文化が栄えた。


★この時代の城郭 ――― 戦争の始まり
農耕が始まった事により、食料は貯蔵できるようになった。
それは財産の発生を意味し、貧富の差を生じさせる事となり
富める者と貧しき者、支配する者と支配される者、
そしてムラの長となる人物とその社会制度を産み出したのである。
ムラとムラの交流は、時に財産の奪い合いともなり戦争が起きるようになる。
ムラを争いから守るためには、侵入する敵を食いとめる施設が必要であり
集落全体を堀や土塁で囲う「環濠(かんごう)集落」が作られていった。
これらの設備は、後世の城郭へと繋がっていく「城の源流」と呼べるものである。
もちろん、環濠は人間同士の争いだけでなく
熊や狼のような野獣からムラを保護する役割も担っていた。




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