先史・旧石器・縄文時代

すべての国の歴史にあてはまる事であるが、
その国の国土と人間の存在があってこそ歴史が刻まれていくのである。
日本史の流れにおいてもまた然りであり
日本に人類が生活を営んだ時点から「日本の歴史」がスタートする。


日本のあけぼの@ 〜 日本列島の成立
日本史を紐解くならば、まず初めに出てくるのが国土の成り立ちである。
今から約3600万年〜約2500万年前、これは「歴史」というより「地質学」の範疇だが
「第三紀(漸新世)」と呼ばれる時代、日本列島は影も形もなかった。
数々の造山活動や地質変動、氷河期を経て約15万年前の「洪積世」の頃に日本列島の原型ができる。
しかしこれも中国大陸とは陸続きで、日本海は巨大な湖であった。
約1万年前の「沖積世」と呼ばれる時期になり、ようやく現在の日本列島となるのである。
日本列島の形成
左から第三紀(漸新世)《約3600万年〜約2500万年前》
第三紀(鮮新世)《約500万年〜約170万年前》
洪積世後期《約15万年〜約1万年前》
沖積世《約1万年前〜》の日本列島周辺

日本のあけぼのA 〜 日本人の起源
上に掲載した地図の左から3番目、洪積世後期の図に注目されたい。
日本列島は朝鮮半島と地続きであり、ユーラシア大陸の末端であった。
人類の発生は洪積世の初頭、今から約150万年前であると言われ
世界各地で生活を創めていたと見られている。
代表的なものが北京原人・ジャワ原人(約50万年前)
ネアンデルタール人(約8万年前)・クロマニョン人(約4万年前)であろう。
この時代の人類は主に狩猟を行い、ナウマン象や大角鹿といった動物を追って
居住地域を転々としてきた。未だ定住生活を行わない人類は
ユーラシア大陸から獲物を求めて日本列島の原型地点までやって来たのである。
それを証明する史料として、日本各地で約2万年前〜の人骨が見つかっており、
天然の洞穴などに身を潜めて暮らしていたと思われる。
港川人(沖縄県、約2万年前)や三ケ日人・浜北人(静岡県、約1万年前)がそれである。
この頃から沖積世の時代にかけて日本は大陸から分離、現在のような列島となり
「日本」としての歴史が始まるのである。

旧石器時代
大陸からやって来た人間は、狩猟生活を営む人々であった。
現在では絶滅したナウマン象や大角鹿を捕らえ、食するには
獲物を打ち倒し加工する武器が必要となる。
この当時の武器といえば、石材を打ち砕いて作った「打製(だせい)石器」である。
石と石を打ちつけて砕くと、その断面は鋭利な刃物のような形状になり
その石を棒に固定すれば矢や槍、斧や包丁のような使い方ができる。
こういった武器を使い日々の狩猟で生活した時代を「旧石器時代」と呼ぶ。
主な打製石器の原料として使われたのが黒曜石(こくようせき)と呼ばれる石で
加工が容易ながら耐久性に優れ、鋭利な断面を作れる石器にうってつけの石材である。
黒曜石から作られた打製石器の確認例は長野県の野尻湖遺跡・上ノ平(うえのたいら)遺跡や
群馬県の岩宿(いわじゅく)遺跡が有名。これ以外にも全国各地から出土しており、
旧石器を用いた人類が広範囲に生活していた事がわかっている。
時代区分としての旧石器時代は約1万年前までの年代を指す。

縄文時代 〜 定住生活の開始
約1万年前から紀元前300年頃までの期間を「縄文(じょうもん)時代」と言う。
縄文時代あたりから日本人は定住生活を営むようになった。
氷河期の繰り返しが終わり、気候が安定した年代となったため
ナウマン象のような超大型動物は絶滅し、その代わりに山で鹿や猪などを捕らえ
漁業で魚介類を得て暮らすようになってきたのである。
人々は竪穴式住居を建てて家とし、集団生活のムラを作った。
こうしたムラは日当たりの良い平坦な台地に作られる事が多かった。
より良い生活環境を求めた結果であろう。
当然、狩りや漁に都合が良いように山や海に近い台地が選ばれている。
また、縄文時代の頃から男女の分業が始まったと見られる。
男は山や海へ出て狩猟・漁業をし、女はムラで食材の加工や保存をしたのである。
食材の加工や保存に用いられたのが土器。粘土をこねて器の形を作り、
小枝を集めて燃やした焚き火の中にくべて焼き上げる簡素な焼物である。
土器の表面には縄目を転がした文様を付けて焼く事が多かった。
これが「縄文」の由来である。
このようにして作られた土器を使い、肉や魚、貝などを料理したとされる。
排出された貝殻や骨などはムラの外れの一箇所にまとめて捨てられていたらしい。
この「貝捨て場」が遺跡として残ったものが貝塚である。
東京都の大森貝塚、千葉県の加曽利(かそり)貝塚などが有名。
土器・貝塚・石器などの発掘で縄文時代の痕跡は日本全国に確認されている。

縄文時代の習俗と交易
土器は器として作られただけでなく、土偶(どぐう)や土板のようなものもある。
人形の土器を土偶と呼ぶが、これは原始宗教崇拝のために作られたようである。
原始的宗教は自然崇拝を基本とするのが通説であり
主に女性をかたどっている土偶は生命を産み出す事の敬意を表したものらしい。
また、この時代のものとして発掘される人骨は抜歯の痕がみられる。
これも宗教的な習俗の現れとみられている。
他に、秋田県の大湯では環状列石(ストーンサークル)が出土。
直径48mと45mの二種類があり、使用目的は日時計とも宗教遺跡とも言われる。
大湯環状列石大湯環状列石(秋田県鹿角市)
一方、縄文時代には交易も盛んに行われた。
旧石器時代から続いて石器も多用されていたが、
石器石材の産出地を推定し、発掘場所との差を検証すると
非常に広範囲の交易が行われていた事が判った。
例えば阿蘇山は黒曜石の産地であるが、九州全島で同一産地の石器が発掘されている。
これは阿蘇山で出た石が九州の隅々まで伝播していた事を意味している。
同様に、長野県の和田峠から出た黒曜石は中部地方一帯で、
北海道の十勝石も道央全域で発掘される。
注目すべきなのは香川県の金山から産出される讃岐石(サヌカイト)で、
この石を使った石器が瀬戸内海沿岸地域で確認されている。
陸上だけでなく海上交易も行われていた証拠であろう。
このような遠方交易は、次の弥生時代で稲作を日本全土に伝えることになる。



次 頁 へ


辰巳小天守へ戻る


城 絵 図 へ 戻 る