3代将軍・足利義満

楠木正成、新田義貞、後醍醐天皇、北畠親房、高師直、そして足利尊氏…。
南北朝争乱の主役たちは次々と没し、
時代の舵取りは彼等の子・孫が受け持つようになっていく。
朝廷を二つに分かつ争いはいつ果てるのか。


楠木正儀の降伏 〜 南朝の凋落
足利尊氏は1358年4月30日に没したため、嫡子・義詮が同年12月8日に将軍職を襲職し
室町幕府2代将軍となった。度重なる南朝方の攻勢を受け、時に苦戦を重ねながらも
細川氏・斯波氏・畠山氏・山名氏・赤松氏・土岐氏・今川氏といった強大な配下に支えられ
南朝方を弱らせ室町幕府の権威を高めていった。将軍就任から約10年後、義詮は病に倒れ
1367年12月7日にこの世を去ったが、その志は息子の義満(よしみつ)に受け継がれる。
家督を相続した義満はこの時わずかに10歳。若年の当主を支えるために
管領(かんれい、将軍を補佐し政務を統括する室町幕府の最重要職制)である
細川頼之(ほそかわよりゆき)は奔走、政治の厳格化を図った。
一例を挙げると、公務の引き締めを狙って義詮死去の翌日に厳しい倹約令を発している。
こうした努力を経て、1368年12月30日に義満が3代将軍へ就任。
室町幕府は義満・頼之の二人三脚で支配力を強化していった。
対する南朝を支えた武将は楠木正儀(くすのきまさのり)である。
正成の子で正行・正時とは兄弟にあたる彼は、落ち目の南朝に残る最後の賢将と言えた。
1351年・1361年の京都奪回計画がいずれも失敗した後、
南朝は軍事的再起が難しくなり、諸国の味方は次第に北朝へ寝返っていったのだが
それでも献身的に南朝を支えていたのが正儀である。
が、そうした賢将に時代は冷たかった。後醍醐天皇や北畠親房といった南朝の指導者は
「南朝こそ正統皇統、北朝や室町幕府は断固殲滅」という強硬論で固まっており
後醍醐帝や親房が死してもその理論は変わらなかった。しかし、正儀は違った。
現実主義者の彼は、弱体化する一方の南朝を救うには和平を模索するのが最善の方法と考え
南北朝の融和を目指していたのである。実際、南朝の軍事力は局地的に優勢であっても
大局を見通せば圧倒的に不利な情勢にあり、室町幕府の殲滅など不可能になっていたのだ。
誰よりも南朝の将来を案じていながら、頑固な南朝公家衆にあしらわれ続けた正儀は
進退極まって1369年に北朝へ降る。南朝最大の軍事指導者が寝返った事により
北朝の優位は決定的なものとなり、南朝の凋落は加速度的に早まっていった。

九州探題 〜 今川了俊、征西府を圧倒
没落する南朝にあって、未だ強力な軍事力を保持したのが九州の征西府であった。
菊池氏・阿蘇氏といった現地の将を従えた懐良親王は頑強に室町幕府への抵抗を続けていたのだ。
楠木正儀を降伏させた義満は、この機を逃さず征西府の打倒を目指し
足利一門で強力な軍事力を持っていた今川貞世(いまがわさだよ)を九州に派遣した。
1371年の事である。九州探題として同地へ赴いた貞世は南朝軍と激しい戦いを繰り広げ
次第に懐良親王を追い詰めていく。およそ10年に渡る戦いの後、貞世の軍に敗北した親王は
筑紫の山中へ隠棲する事となり、1383年3月に没した。南朝は九州でも負けたのである。
この功績を挙げた貞世、出家して了俊(りょうしゅん)
室町幕府での地位を高め、さらに強力な権力を手にする事となった。
同様に、山名氏清(やまなうじきよ)の軍勢は南朝の本拠地である吉野・穴生を攻略し
長慶天皇(後村上天皇後嗣)らを圧迫。この軍功を認められた山名一族は
室町幕府から領地を加増され、大勢力へと成長していった。
九州・大和の両方で敗北を続けた南朝に、もはや再起の道は閉ざされたと言えた。

室町御所 〜 絢爛豪華な“花の御所”
征西府を倒し、南朝を追い詰め、幕府の権威は高まる一方である。
また、観応の擾乱から足利宗家と対立していた足利直冬とも和睦を成立させた。
将軍・義満と管領・頼之の政治は順調に進み、政権基盤は磐石なものとなっていた。
南北朝の長き戦乱に明け暮れた京の都も、徐々に平穏な生活を取り戻していく。
こうして、幕府権勢の安定を明らかにすべく新たな将軍御所の造営が行われた。
選ばれた場所は相国寺に隣接した室町今出川、現在の京都市上京区役所付近である。
この新御所は地名から「室町御所」と呼ばれ、絢爛豪華な邸内には一年を通して
花が咲き乱れていた事から“花の御所”の通称が附けられた。
当然、「室町幕府」「室町時代」の「室町」は「室町御所」から来るものだ。
1378年3月に義満は新築成ったばかりの室町御所へ居を移し、
以来ここが幕政の中心となった。これにより、将軍・義満の威光は天下に轟くようになる。

室町幕府 〜 三管四職が支える幕府職制
唐突な話であるが、室町幕府は「弱い幕府」である。
平氏や奥州藤原氏を打倒し、全国を平定した後に開かれた鎌倉幕府や
関ヶ原合戦で敵対勢力を一掃し、官僚制機構を確立した江戸幕府とは異なり
南北朝争乱の渦中でなし崩し的に成立したのが室町幕府だからである。
尊氏の開幕当初は政治機構も不充分で、南朝勢力の圧迫もあり不安定な体制だった。
が、南朝を追い詰めた義満の時代になり、ようやく幕府機構も整うようになった。
以下にその政治機構を解説したい。

1.管領(かんれい) 中央政治機構
将軍を補佐し、全政務を統括する最重要役職。
足利氏一門の細川氏・斯波氏・畠山氏の中から任命された。
この3氏を「三管領(さんかんれい)」と呼ぶ。
管領の隷下には次のような職制が定められた。

1-1.政所(まんどころ) 中央政治機構
財政事務・民事訴訟を担当する部署。長官を執事(しつじ)と呼び、
当初は二階堂氏、後に伊勢氏が襲名するようになった。

1-2.侍所(さむらいどころ) 中央政治機構
京都の警備・刑事裁判などの担当部署。
御家人の統括も行う。長官を所司(しょし)と言う。
侍所所司は有力大名の赤松氏・京極氏、足利氏血縁の山名氏・一色氏から選ばれた。
この4氏を「四職(ししき)」と呼ぶ。

1-3.問注所(もんちゅうじょ) 中央政治機構
記録・文書の保管などを担当、長官は執事と呼称。
執事は太田氏・町野氏が歴任。

1-4.評定衆 中央政治機構
その他一般政務を担当。評定衆の配下に引付衆(ひきつけしゅう)を設置。

以上が幕府の中央機構である。地方支配は次のような職制。

2.鎌倉府(かまくらふ) 地方支配機構
鎌倉公方の下で奥州・関東(甲斐・伊豆を含む)の支配を行なう。
鎌倉公方は足利基氏の子孫が代々世襲。
鎌倉府の隷下には以下の職制が定められた。

2-1.関東管領(かんとうかんれい) 地方支配機構
鎌倉公方を補佐する鎌倉府の管領。上杉氏が代々世襲していく。
1252年の宗尊親王将軍就任に随伴し、京から鎌倉幕府へ使わされた
公家の勧修寺重房(かじゅうじしげふさ)が上杉氏祖で、
鎌倉下向後に足利氏へ従属し名を上杉重房に改めたのが始まりとされる。
武家名の上杉に改姓した後も、京との関係が強かった事で足利氏の重臣に取り立てられ
室町幕府成立において関東管領の要職を命じられたのだった。
名門・上杉氏はこの後も命脈を保ち、江戸時代まで家名を残していく。

2-1-1.政所
2-1-2.侍所
2-1-3.問注所
2-1-4.評定衆・引付衆
それぞれ関東管領の下で運営された鎌倉府の統治機構。

3.九州探題(きゅうしゅうたんだい) 地方支配機構
4.奥州探題(おうしゅうたんだい) 地方支配機構
5.羽州探題(うしゅうたんだい) 地方支配機構
九州・陸奥・出羽の統括。奥州探題・羽州探題の成立はやや後年の事。
九州探題は今川氏、後に渋川氏が任じられた。
奥州探題は伊達氏、羽州探題は最上(もがみ)氏に命じられる。
伊達氏は元々南朝に与していたが、時代の推移によって北朝へ帰順。
最上氏は斯波氏の一族で、出羽へ赴いた際に最上氏へと改姓したもの。

6.守護・地頭 地方支配機構
地方各国の軍事・警察権を統べる。
南北朝期から室町幕府の成立過程において行政などの実効支配権も獲得していく。

室町幕府は、京に座す足利将軍家の権威によって中央政権を維持したものの、
東国支配は鎌倉府、九州や東北の地方には各探題を監督役として設置する形で
実質的には各地の守護に支配を任せる体制であった。
故に、将軍が強力ならば各地の守護はそれに従い、平穏な統治が行われる事になるが
将軍の力が弱かったり、守護が大きな力を持つような場合には
幕府の政治はないがしろにされ、各守護が独立する傾向に陥った。
中央政権と地方支配は必ずしも連動するものではなかったのである。
こうした体制からも「弱い幕府」という事が覗える。
よって、幕府の権威をどれだけ高くするかが重要な課題であり
それを支える将軍と三管領・四職の立場が幕政を左右したと言っても過言ではない。
なお、三管領と四職を合わせて「三管四職(さんかんししき)」と呼ぶが、
その家格が確定したのは1398年の事であった。

康暦の政変 〜 細川頼之、管領辞任
義満を補佐し、管領として厳しい姿勢で政治を行う頼之は、
義満政権の最功労者であり、義満の“育ての親”であった。
義満の政治感覚はこの頼之によって養われたと言っても良い。
ところが、あまりに苛烈すぎる頼之に対して各地の将は反感を募らせ、
1379年閏4月にこうした大名らが軍勢を率いて室町御所を包囲した。
軍事的圧力をかけて頼之の管領辞任を要求したのである。
父と慕う頼之を失うのは痛恨であったが、天下安寧のために義満はこの要求を呑んだ。
頼之もまたその思いを察し、事を荒立てずに管領を辞し領国の四国へ引退した。
この事件を当時の北朝元号から「康暦の政変(こうりゃくのせいへん)」と言う。
頼之辞職から10日あまり後、諸大名に推された斯波義将(しばよしまさ)が新管領に就任、
義将は巧みに守護らをコントロールし、幕政の安定を図ったが
康暦の政変は将軍義満が頼之から離れて政治的な一人立ちを行う契機ともなった。
将軍・義満の力量は、この瞬間から開花していく。



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