観応の擾乱

北朝方の攻勢に風前の灯火といえる状況まで追い詰められた南朝方。
一方、南朝への警戒心が薄れた室町幕府では新たな問題が発生した。
幕閣内部での主導権争いが勃発するようになったのである。


高師直の台頭 〜 幕府No2を巡る争い
前頁で記した通り、この数年で目覚しい活躍をしたのが足利氏執事の高師直である。
もともと執事として足利氏の実務を取仕切る立場にあった上、
北畠顕家討伐・楠木正行征伐・吉野陥落の戦功を重ねた師直の声望は上がる一方で
幕府内で尊氏に継ぐ重要な地位を占めるようになっていた。
こうなると、面白くないのは直義である。足利氏副官として常に尊氏の補佐をし、
幕府設立時には副将軍の地位を有して幕政の半分を担っていたのが
いつの間にやら師直が台頭し尊氏・直義・師直の三頭体制になっていたからだ。
当然、師直としても直義の存在を意識せざるを得ない。
幕府内において直義と師直の対立は日に日に激しくなっていった。

高師直 〜 代表的“ばさら大名”
高師直なる人物、いったいどのような者であったのか。
先般から書いているが、高氏は足利家発祥の頃からその執事を務めた家柄で
幕府内での勢力は大きいものであった。この地位による強大な権力や
数々の戦功を挙げた武威でもわかるように、豪気な性格の主で
建前上、幕府は北朝を推したてているにも関わらず
「京の都には王など不要、帝も院もどこぞへ流し
 代わりに木か金物で作った人形でも据えておけ」などと言い放つ。
古くからの権威を否定し、派手で贅沢を好み、自分の実力で地位を勝ち取る将、
こうした大名を“ばさら大名”と呼び、師直はその典型的な人物であった。
他に佐々木高氏(ささきたかうじ道誉(どうよ)とも土岐頼遠(ときよりとお)
このように型破りな“ばさら大名”だと言われる。道誉は近江国(現在の滋賀県)、
頼遠は美濃国(岐阜県南半分)の守護で、尊氏に従う北朝方の有力武将である。
“ばさら大名”は戦乱の時代を勝ち抜く闊達奔放な人物、と言えるが
古くからの伝統を重んじる者にとっては無礼で粗暴な行為と見られ、
価値観の相違から対立する事もしばしばあった。
直義と師直の関係もそういった意味を内包していたのである。
師直の台頭と横暴を嫌う直義は、将軍である兄・尊氏に訴えて
1349年6月に師直を執事の職から降ろした。

足利家の憂鬱 〜 足利尊氏・義詮・高師直vs足利直義・直冬
尊氏には数名の子が居たが、長男と言われる竹若丸は鎌倉幕府倒幕の戦乱で
不慮の死を遂げており、次子の義詮(よしあきら)が嫡男の地位にあった。
室町幕府の成立時、義詮は鎌倉へ下向し東国を統括する役目を担っている。
また、義詮の弟・直冬(ただふゆ)は直義の養子に入り長門探題の任に当たっていた。
このように、足利家の一族が全国へ展開している最中に直義と師直の対立が
表面化してきたのであった。師直の執事罷免だけでは収まらない直義、
さらに師直の勢力を削ごうとして朝廷の院宣をもらい師直討伐を計画する。
これを知った師直は先手を打ち、1349年8月に直義を幕政から遠ざけてしまった。
事ここに至り、直義と師直の対立は決定的なものになり幕府を2分。
さらに、直義の行き過ぎた行動を懸念した尊氏は師直方に与し、
鉄壁の間柄であった足利兄弟までが険悪な関係になってしまった。
南朝の勢力が弱まった今、幕府内のほころびが表へ出てきたのだ。
事態の沈静化を図るため、直義は出家したものの幕府内の対立は続く。
同年、尊氏は嫡子・義詮を政務に就かせるため鎌倉から召喚し、その代わりとして
末子・基氏(もとうじ)を鎌倉府へ派遣、鎌倉公方(かまくらくぼう)の職に任じた。
公方とは将軍の別称で、鎌倉公方とは即ち東国支配を行う“坂東の将軍”という意味である。
義詮・基氏の交代を行う過程で直義は幕政から完全に排除され、これを好機と捉えた師直は
直義の子となっていた直冬までも除こうと計画した。この謀略に気付いた直冬は九州へ逃亡、
直義も河内国(大阪府内陸部)へ下り反撃の準備に取りかかる。
師直の台頭から始まった権力闘争は、足利家全体を巻き込む事態に陥り
高一族に加担する尊氏・義詮父子とそれに抗う直義・直冬親子の対立になってしまった。

観応の擾乱(1) 〜 高兄弟、直義に討たれる
1350年、幕政から排除された直義は河内国で挙兵、直義に従う直冬も九州で反撃を開始。
戦を有利に展開しようとする直義は何と南朝と手を組み師直に対抗した。
劣勢の南朝としても北朝が内訌を起こし、それに介入できれば勢力挽回を狙えるため
直義の要請を受け入れたのだった。これで勢いを得た直義は京都を占領。
師直も負けじと京都を再占領。しかし戦いに利あった直義がまたも京都を回復する。
直義の勢力は侮れない、と気付いた尊氏は和睦の道を模索し1351年に停戦するものの
犬猿の仲である直義・師直はその後も対立を続けた。表面的な和睦はつかの間で消え
結局は直義軍と師直軍が摂津国武庫川で衝突。
今まで剛勇を鳴らした高師直・師泰(もろやす)兄弟であったが、
都を占領した軍事力を持つ直義の勢いには敵わず、この戦いで敗死してしまった。
直義配下の上杉憲能(うえすぎのりよし)が高兄弟を暗殺したとも言われる。
こうして、因縁の対決は直義の勝利に終わったかに見えた。しかし、幕府の頂点にある
征夷大将軍・尊氏は、直義の独走を許す訳には行かず直義征伐を決意する。

観応の擾乱(2) 〜 直義も落命、その恩恵を受けた者は…
宿敵・高師直を倒したものの、将軍・尊氏の脅威を受けるようになった直義、
このまま京都に居続けるのは危険と判断し、兵力の拡充を図るべく鎌倉へ逃れた。
直義軍と師直軍の戦闘は終わったが、今度は尊氏軍と直義軍が対決する事態へと
状況は変化していくのである。とはいえ、南朝との戦いが完全に終わったわけでもなく
鎌倉の直義・九州の直冬・穴生の南朝と、周囲に敵を抱えて尊氏は難儀する。
三者を同時に倒すのは不可能と判断した尊氏、事もあろうに南朝へ降伏を申し出た。
師直を倒そうとして直義が採った方法を、尊氏も実践したのである。
南朝方は最大の敵・尊氏が降伏するのを拒むはずも無く、あっさりと和睦が成立。
三種の神器(ニセモノではあるが)を返還した尊氏に対し、
南朝は機嫌を良くし直義討伐の綸旨(りんじ、天皇の命令を記した文書)を発した。
後顧の憂いを無くした尊氏は全軍を率いて鎌倉へ向かい、1352年1月に直義の軍勢を倒す。
降伏した直義は、それから間もなくこの世を去った。
これについては、尊氏に毒殺されたという説が有力である。
1350年〜1352年にかけて起きた、高師直・足利直義の対立に始まり
直義死去に至るまでの一連の騒動を「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」と言う。
直義という最大の脅威を除いた尊氏であったが、九州には敵対する直冬が健在であり
南朝との和睦も一時凌ぎの見せ掛けに過ぎなかったため、混乱は猶も続いた。

南朝の逆襲 〜 義詮の苦戦
観応の擾乱によって最も恩恵を受けた者、それは南朝に他ならない。
本拠地・吉野を陥とされ危機に瀕していたのが、足利一族が内紛を起こした挙句
直義が盟を結び、そして尊氏までが(形式的とは言え)降伏したのだから当然である。
「尊氏降伏」の報に各地の南朝方武将は勢いを盛り返し、再び兵力を結集。
穴生に逃れていた後村上天皇はこの好機を逃すまいと京都奪還作戦を発動した。
尊氏が直義征伐の為に鎌倉へ下向していた1351年末に進発した南朝軍は京都へ侵攻、
父の留守を預る義詮は近江国(滋賀県)へと逃れる事になる。形の上では南朝へ降伏し
三種の神器も明け渡したのだから南朝軍と戦う訳にはいかなかったためだ。
この混乱の渦中、北朝の光厳上皇・光明上皇・崇光天皇は南朝軍に捕えられ拉致された。
瀕死の南朝に逆襲され近江へ逃れた上、北朝皇室を奪われたとあっては
尊氏嫡子である義詮の面目丸潰れであった。意を決した義詮、翌月に軍を整え
南朝から京都を回復する軍事行動を開始するが、またもや大きな問題が立ち塞がった。
敵の首領・後村上天皇が御座所としたのは男山八幡、即ち岩清水八幡宮だったのだ。
義詮が岩清水八幡宮を攻撃する事は、源氏の氏神を嗜虐する事になる。
未だかつて八幡宮に弓引く者はおらず、後村上帝はそれを逆手に取っていたのであった。
しかし、これが油断に繋がった。義詮の決意は固く、八幡宮への攻撃が開始され
よもやの攻撃に支えきれなくなった南朝軍は敗退、結局は穴生へ戻る事になってしまった。
南朝の逆襲劇は、あと一歩の所で屠られたのである。
一方、京都を奪い返した義詮にも問題が残った。三種の神器も北朝天皇も無い状態に陥り
幕府の後ろ盾となるべき朝廷権威は空白となってしまったのだ。
体裁を整えなくてはならない義詮は、皇族から外れていた光厳上皇の3男を
三種の神器も無いまま急遽即位させた。これが後光厳天皇である。
南北朝の混迷が猶も続く中、南朝方主戦派筆頭の北畠親房が1354年に死去し
1358年には足利尊氏も没した。将軍位を継承した義詮であったが、その後も苦戦が続き
1361年にも南朝の攻勢を受けて近江へ逃亡、後に京都回復という事態を再演する。
朝廷を二分する混乱を収束させるには、まだまだ長い時間が必要であるかに思われた。



前 頁 へ  次 頁 へ


辰巳小天守へ戻る


城 絵 図 へ 戻 る