室町幕府開く

楠木正成・北畠顕家に続き、新田義貞も討ち取った足利尊氏。
南朝方の主力が消えた事で、尊氏の天下を遮る者はほぼいなくなったと言える。
いよいよ尊氏が新たな武家政権を成立させる時がやってきた。


室町幕府の誕生 〜 尊氏、念願の征夷大将軍就任
新田義貞の死は、同じ源氏の血を引き武門の棟梁たる資格を持った者が消えた事を意味し、
足利尊氏だけが源氏の総領の地位を得る時代が到来したのだ。
天才的武力を誇った楠木正成、鉄の信念で南朝に尽くした北畠顕家、
尊氏と源氏棟梁の立場を争った新田義貞、これらの者が消えた事で
北朝の軍事的優勢は明白となり、名実共に足利尊氏が武門の棟梁と認められた。
1338年8月11日、光明天皇から征夷大将軍に任じられ、京に幕府を開いた尊氏。
室町幕府の誕生である。なお、「室町」とは幕府政務の中心になる将軍御所が建てられた
場所に面する洛中通りの名称だが、尊氏の時代はまだ室町通りに御所があったわけではない。
よって、「室町幕府」の呼称はこれより後の時代に付けられたものである事に注意されたい。
また、後代の将軍によっては将軍御所を替えたり、場合によっては京を追われ
他国を流浪する者もいたため、必ずしも室町が将軍居所であった訳でもない事を補足しておく。
それはさておき、足利氏の幕府が成立・機能存続した1338年〜1573年を室町時代と呼ぶ。
幕府成立当初、その権能は軍事部門と行政部門に2分された。
源氏棟梁の立場で、全国の武士団を統率する軍事部門は尊氏が担当し、
足利氏の副官として、所領問題解決などの行政部門を直義が担った。
これまで尊氏の手足として忠実に働いた弟・直義へ配慮し、将軍の権限を半分与えたのである。
こうして、尊氏・直義の二頭体制で幕政はスタートした。

北畠親房の反撃計画 〜 南朝の再起、夢に消ゆ
正成・顕家・義貞は既に亡く、南朝の軍事的劣勢は決定的なものになっていた。
京都還幸を願う後醍醐天皇は、反撃の夢を北畠親房に託す。親房は顕家の父。
元来は公家の北畠氏は親子・一族すべてが南朝方に忠誠を誓っていた家系である。
京の都を制圧し、中央政権を握った尊氏を打倒するには、もう一度兵を整え
足利軍に対抗する軍勢を編成しなくてはならない。後醍醐天皇の思いを叶えるべく
親房は伊勢国大湊(三重県伊勢市)で50隻以上の船を建造、東国・奥州の武士を味方につけ
この船で兵団を輸送して尊氏に一矢報いる計画を立てた。
尊氏の将軍就任に先立つ1338年8月3日、3隊に分かれた船団は大湊を出港。
1隊は義良親王とそれを守る北畠顕信(きたばたけあきのぶ、親房の子
結城宗広(ゆうきむねひろ)の船団、もう1隊は親房の船団、残る1隊は
遠江(静岡県西部)へ向かう宗良親王(むねながしんのうむねよしともの船団である。
しかし出港から10日ほど後、遠江沖で暴風雨に見舞われた船団は離散してしまい
親王や宗広らは伊勢・知多半島・御前崎などに漂着、親房のみがようやく犬吠埼へ辿り着いた。
南朝方の軍事船団計画はこうして頓挫してしまったのだった。
大船団を失った親房は常陸国の豪族・小田治久(おだはるひさ)の下に身を寄せ、
ここで神皇正統記(前頁参照)の執筆を行った。南朝の正統性を明記する事で
各地の武将に檄を飛ばし、再起を図ろうとしたのだろう。が、思うように兵力挽回は成らぬまま
関東へ幕府からの追討軍が差し向けられた。追い詰められながらも戦い続けた親房であったが
宗広の子で白河を守備していた結城親朝(ゆうきちかとも)までもが北朝方へ寝返る始末。
もはや南朝方に組織的抵抗力は消えたかのように思われた。
結局、支えきれなくなった親房は奥州へと逃亡するしかなくなった。

後醍醐天皇の崩御 〜 南朝の首領この世を去り、尊氏天龍寺を創建す
京の都へ戻る事を夢見つつも、それを果たせぬ後醍醐天皇は病の床につく。
重体に陥った天皇は夢破れし事を悟り、1339年8月15日に義良親王へ譲位した。
吉野の御所で即位した新天皇、後村上天皇への世代交代である。
無念の思いを抱きつつ、翌16日に後醍醐上皇は死去。
鎌倉幕府打倒・建武新政・尊氏との確執・南北朝分裂と、波乱の生涯を送った51年。
その最期に思うものは一体何だったのであろうか。
崩御の知らせは尊氏の下にも届けられた。好敵手と言える後醍醐天皇の死去にあたり、
尊氏もその心中を推測したに違いない。長く深い対立ではあったが、
お互いに立場や考えがあっての事である。敵ながら畏敬の念を抱いていた尊氏は
天皇の霊を弔うため、京都嵐山の懐に壮大な寺院を建立する事を思い立った。
現在も京都嵐山の観光名所として名高い天龍寺の創建である。
その総てを託されたのは臨済宗の名僧・夢窓疎石。
夢窓は天龍寺の建築や造園に心血を注ぎ、尊氏は建設費用をまかなうために
元(当時の中国正統王朝)に貿易船を派遣した。この船を天龍寺船(てんりゅうじせん)と呼び
後の勘合貿易(かんごうぼうえき、後記)へと繋がる日中貿易制度の発生点となる。
こうして、夢窓の尽力と大陸交易の成果を示した天龍寺は1345年に落慶供養を迎えたのであった。
天龍寺庭園(京都府京都市右京区)
天龍寺庭園(京都府京都市右京区)

現在の天龍寺建築物は明治時代の再建だが
庭園は南北朝時代のまま残されている。
夢窓疎石の創造した池泉廻遊式庭園は
背後に控える嵐山の風景をも
庭園の一部として採り込んでいるため
静寂を極めながらも圧倒的なスケールを誇り
その魅力は訪れる者の心を捉えて離さない。

征西府 〜 南朝方の継戦拠点
尊氏に抗う軍事的指導者を多数失った南朝は各地で劣勢を強いられ
東国で軍勢再起を計画していた北畠親房も結局は1343年に吉野へ帰還。
室町幕府の権威が全国へ展開する勢いであった中、
唯一南朝方に優勢な場所が残されていた。朝廷から遥か離れた西方の地、九州である。
多々良浜の戦いにおいて、菊池氏を除くほとんどの九州諸将は足利軍に従ったが
尊氏帰京後の1342年に後醍醐帝の子・懐良親王(かねながしんのうかねよしとも
九州へ上陸、征西府(せいせいふ)を設けて同地の武将を南朝方へ帰順させたのだ。
菊池氏の軍事力を背景に征西府は北朝方と徹底交戦を続け、落ち目の南朝を支えた。
また、各地の南朝方も全滅した訳ではなく、北朝方に対し散発的抵抗を継続。
これには楠木氏・北畠氏・新田氏の一族が深く関わっていた。
1347年、紀伊国(和歌山県)で楠木正行(くすのきまさつら、正成の子が挙兵し
幕府の足元を脅かす。火種を摘み取りたい幕府はまたも高師直ら有力武将を派兵するに至り
翌1348年、河内国(大阪府内陸部)の四条畷(しじょうなわて)で両軍は激突。
双方入り乱れる大激戦が展開されたが、戦上手の師直に翻弄された楠木軍は遂に力尽き
正行・正時(まさとき)の兄弟は自害して果てた。父・正成と同様、南朝に殉じたのである。
余勢を駆った師直の軍勢は南朝の本拠である吉野にまで侵攻、南朝政府施設を焼き落とす。
しかし間一髪、後村上天皇は脱出に成功し吉野よりさらに奥地の
穴生(あのう、現在は賀名生と表記、奈良県吉野郡西吉野村)へ逃れた。
劣勢に立たされ、楠木兄弟が死し、吉野を陥とされても、南朝はしぶとく生き残りを図り
九州の征西府はそれを支援し続けたのであった。



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