南北朝の分裂

人望高く、武勇に優れた楠木正成の死は、天皇と尊氏の戦いに新たな状況を生んだ。
戦争の主導権は尊氏に有利なものとなり、それに伴って政治の主導権も
後醍醐天皇から尊氏へ移っていく。しかし、天皇がそれで黙っているはずがない。
2人の抗争は、朝廷の分裂という異常事態を引き起こす。


建武式目の制定 〜 尊氏の入京
湊川の合戦に勝利した足利軍は、院宣を与えた光厳上皇を推し立てて入京した。
後醍醐天皇は花山院(かざんいん、京都市上京区にあった邸宅)に軟禁され
光厳上皇の弟・豊仁親王(とよひとしんのう)に三種の神器が譲り渡された。
尊氏の手によって光明天皇が即位したのだ。
こうして政治の主導権を握った尊氏は、新たな武家の典範を制定。
1336年11月7日に発布された建武式目(けんむしきもく)は17条から成る法律であり、
尊氏が幕府を開くための第一歩となる政治基盤固めであった。
遥か遠国の鎌倉ではなく、都を本拠とするのが尊氏の方針になり
幕府作りは京都を中心にして進められていく。

南朝と北朝

南朝と北朝 ―は親子関係 数字は皇位継承順 数字は北朝皇位継承順

南北朝分裂 〜 後醍醐天皇、吉野に脱出
一方、尊氏に政権を剥奪された後醍醐天皇であるが
そうやすやすと引き下がる訳もなく、権力奪還の決意に燃えていた。
そもそも、光明天皇に渡した三種の神器は真っ赤なニセモノ。
始めから尊氏に従うつもりなどなかったのである。本物の神器を持っている以上
こちらが正統な天皇であるとし、独自の政権を打ち立てる事を模索していた。
尊氏の監視をかいくぐり、12月21日に花山院を脱出した天皇は、同月28日
吉野に到着しここを仮の御所に定めた。吉野は古くから歴代天皇が行幸した地。
壬申の乱で大海人皇子が挙兵した場所でもあり、皇室と深い繋がりを持つ。
ここに拠点を構えた後醍醐天皇は新たな朝廷政治を開始したが、これを南朝と呼ぶ。
かたや光明天皇により京の都で運営された朝廷を北朝と言い、この時代には
2人の天皇、2つの朝廷が存在し互いに対立した事になる。
南北朝の争い、即ち南朝の公家政権と北朝の武家政権の対立はこれ以後約60年に及び
全国を二分する混乱に陥れるのであった。各地の武将はそれぞれの思惑と利害によって
ある者は南朝、また別の者は北朝に組して争乱を繰り広げるのである。

南朝方諸将の抵抗 〜 北畠顕家・新田義貞の戦死
京で幕府開設の準備を進めていた尊氏の下へ、凶報が届いたのは1337年12月の事。
義良親王を擁す北畠顕家が満を持して出陣、鎌倉を攻め落としたのである。
顕家は筋金入りの南朝方武将であり、武家政権の要地となる鎌倉を奪い
そのまま京の尊氏へ攻め込む勢いであった。これを阻止せんとする尊氏方であったが
各地で敗退、東海道を伊勢・伊賀(共に現在の三重県)・大和(奈良県)まで侵攻された。
顕家の軍をこれ以上放置できない尊氏は、1338年2月に足利家の家宰である高師直を出陣させ
奈良で交戦に及ぶ。高氏は源義家に仕えた高階惟章(たかしなこれあき)を祖先とする一族で
足利義康が足利の家を興した時からその家宰として侍ってきた。
足利氏と高氏は一心同体ともいえる歴史を積み重ねた経緯を持つのだ。
連勝を重ねてきたさすがの顕家も、この足利家筆頭武将との対決には敗北し
義良親王は吉野へ、顕家は河内へと逃走した。しかし3月、顕家は軍勢をたて直し
天王寺(大阪市天王寺区)で尊氏方を破った。緊迫する事態にまたも師直が参陣、
石津(堺市)で激戦を繰り広げたが、この戦いで顕家は討死してしまった。
正成に続いて顕家も失った南朝方は大きな痛手である。
一方、もう一人の南朝方有力武将である新田義貞は、領国の越前で兵を整え
府中(武生市)に集結、尊氏方討伐の計画を進めようとしていた。
義貞は足利軍との数度に渡る交戦で敗北を重ねながらも永らえ、復活をかけて大軍を編成。
尊氏に与する越前守護・斯波高経(しばたかつね)に攻撃を開始する。
高経を包囲すべく藤島(福井市藤島町)近辺の燈明寺畷(とうみょうじなわて)を進む新田軍。
ところが、これに不意打ちで尊氏方の細川孝基(ほそかわたかもと)が攻撃を仕掛けた。
突然の襲撃に混乱する新田軍。しかも場所は畷=あぜ道である。
ぬかるみに足を取られ進退窮する中、義貞の眉間を1本の矢が貫いた。時に1338年閏7月2日。
戦闘とも呼べないようなこの藤島の合戦、南朝の功労者にして
尊氏と武門の棟梁を争った義貞のあっけない最期であった。享年37歳。
正成・顕家・義貞の勇将が相次いで戦死した南朝方は、最大の危機を迎えていた。

南北朝時代の文化 〜 戦乱の時代を記した書物たち
南朝と北朝に分かれて戦乱に明け暮れるこの時代、多くの書物が記された。
戦況とそれにともなって変化する社会情勢や庶民の暮らしを綴った軍記物や
朝廷の正統を後世に伝えるために書かれた史書である。
庭園
天龍寺庭園(夢窓疎石)
文学
軍記物
太平記(作者不詳)
難太平記(今川了俊)
梅松論(作者不詳)
曽我物語(作者不詳)
連歌
菟玖波集(二条良基)
応安新式(二条良基)
和歌
新葉和歌集(宗良親王)
学問・思想
史書
神皇正統記(北畠親房)
増鏡(作者不詳)
有職故実
建武年中行事(後醍醐天皇)
職原抄(北畠親房)
南北朝文化の代表例
南北朝文化の代名詞ともいえる作品が「太平記」であろう。
小島法師(こじまほうし)ら数名によって著されたと言われる軍記物。
南北朝の動乱を、どちらの勢力にも与せず中立な立場で描き、
後醍醐天皇が即位した1318年から室町幕府安定期の1367年までという
半世紀を記録している。その内容は、戦況の変化や政治の動きだけではなく
戦闘の攻防、庶民の苦難、争乱の批判、平和の希求など多岐に渡る。
鎌倉時代までの一騎討ちや先陣の名乗りといった儀礼を重んじる戦闘は廃れ、
不意打ち・集団戦闘・民衆からの略奪・返り忠(かえりちゅう、戦況に応じて寝返る事)など
信義無用の残虐な戦闘方法が用いられたこの時代を嘆き、
戦に翻弄され生活が成り立たない庶民の苦難を悲しみ、
自らの欲望を追及し悪政と戦乱を招く施政者に憤り、
平和で秩序ある時代の到来を待ち望む人間の心情を切々と書き連ねた文学なのだ。
一方、武将が自勢力の正統性を後世に残すために記した書物が
有名な歴史書「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」である。
著者は南朝方の有力武将・北畠親房(きたばたけちかふさ)
1338年9月頃の完成とみられるこの作品は、三種の神器を保持する南朝の天皇が正統で
それに抗う北朝は逆賊として描かれた史書である。日本の代表的な歴史書の一つとされ、
何をおいても天皇を中心とする姿勢を唱えた内容は昭和初期の皇国史観形成に影響を与えた。



前 頁 へ  次 頁 へ


辰巳小天守へ戻る


城 絵 図 へ 戻 る