足利尊氏の戦い

期待とはかけ離れた後醍醐帝の政治、新たな武家秩序を模索する足利尊氏、
両者の間で揺れる全国の武士たち…天下統一とは程遠い不安定な政情が続く中
東国で北条氏の残党が兵を挙げる。
この反乱をきっかけとして、戦乱の歯車は徐々に、そして確実に動き始めた。


中先代の乱 〜 鎌倉奪還さる!
1335年6月、北条氏の残党が後醍醐天皇を暗殺しようとする事件が発生。
これは未遂に終わったが、政情が不安である事を露呈した事件であろう。
さらに同年7月、信濃(長野県)に落ち延びていた北条時行(ほうじょうときゆき)
同地の豪族・諏訪頼重(すわよりしげ)の援助を受けて挙兵した。
時行は高時の子で、鎌倉を奪還し幕府を復興せん事を目指していたのだ。
信濃国守護・小笠原氏の軍を破った時行の軍勢は信濃全土を掌握、
一路鎌倉に向けて進軍する。一方、鎌倉を守る鎌倉将軍府の軍勢は各地で敗退。
もはや支えきれないと悟った足利直義は京へ撤退する事を決意する。
この時、囚われの身であった護良親王は直義の命令によって斬られた。
幕府再興を狙う時行と天皇に追放された親王、両者は共に
現体制に反対する思想の持主と言え、この2人が結びついては危険との判断であった。
こうして、直義らが脱出した鎌倉は時行によって占領されてしまう。
この兵乱を中先代の乱(なかせんだいのらん)と呼ぶ。

時行討伐とその後 〜 天皇と尊氏の対決はじまる
鎌倉陥落の一大事に直面し、後醍醐天皇は足利尊氏を召し出した。
武門の棟梁たる尊氏の軍勢で時行を討伐しようとしたのだ。
それならば自分を征夷大将軍に任命して欲しい、と尊氏は訴えた。
ところが天皇はその提案を拒否する。将軍位を望むならば軍を動かしてはならぬ、と。
絶対に尊氏を将軍には据えず、単なる手駒として利用するのみと考える天皇であった。
仕方なく尊氏はそのまま鎌倉へ向かう。途中、直義軍や各地の武士団を吸収し大軍を編成。
圧倒的兵力を擁する尊氏軍の前に時行軍は敗戦を重ね、遂に鎌倉は8月19日に落ちた。
時行はいずこかへ姿をくらまし、頼重は自害。
幕府再興を夢見た時行は、武門の棟梁である尊氏の前に敗れ去ったのだった。
鎌倉に進駐した尊氏は旧幕府跡に居館を築いた。尊氏の勝利宣言である。
しかし天皇は、尊氏が鎌倉に逗留する事を許さず帰京を命令する。
このまま尊氏を鎌倉に留めては、そこで新たな武家政権を開くと危惧したのである。
迷う尊氏。勅命(天皇の命令)に背く訳にはいかないが、帰京すれば
尊氏を座視できない天皇一派に命を狙われる事が明白であったからだ。
帰京を引き延ばす尊氏・直義に対し、とうとう天皇は朝敵(天皇や朝廷の敵)の扱いをし
新田義貞に足利兄弟討伐の勅許(ちょっきょ、天皇の許可)を与えた。
今まで水面下での確執が続いていた後醍醐天皇と足利尊氏であったが、
とうとうその対立は顕在化し、直接対決へと移行したのである。

尊氏、西へ 〜 足利軍の大移動
鎌倉へと進んでくる新田軍。尊氏は恭順の意を示すため大規模な軍事行動を控えたが
それでも容赦なく進軍する天皇方の動きを見て、遂に戦いを決意する。
関東の入口である箱根まで新田軍が進んできた所でこれを迎撃、
箱根竹ノ下合戦で勝利してそのまま新田軍の追撃を開始した。敗走する新田軍、追う足利軍。
もともと家格の上下や倒幕の恩賞で反目していた足利・新田の間柄であり、
足利軍の反撃は徹底的である。もはや足利軍に抗う術を持たなくなった後醍醐天皇は
尊氏の攻撃を恐れ、1336年1月10日に都を棄てて比叡山へ避難した。翌11日、足利軍は京を占領。
しかしそれもつかの間、東北で兵を蓄えていた北畠顕家が天皇に助勢すべく上洛し
1月27日に北畠顕家・新田義貞・楠木正成の連合軍が尊氏に総攻撃を仕掛けた。
強大な北畠軍という新手の登場に、さすがの尊氏も敗戦し摂津へと落ち延びる。
こうして、後醍醐天皇は再び京へ戻る事ができた。
一方、行く当てのなくなった足利軍はと言えば、後醍醐天皇に不満を持つ西国諸将を頼りつつ
海路で兵庫(現在の神戸市)・室津(姫路市付近)・鞆津(とものつ、福山市)と瀬戸内海を西へ進む。
この間に赤松則村(あかまつのりむら、入道して円心(えんしん)とも
大内弘幸(おおうちひろゆき)らが合流した。則村や弘幸は倒幕の働きをしながら
後醍醐天皇に十分な恩賞を与えられず、不満をくすぶらせていた有力武将たちで
武家のリーダーといえる尊氏に新たな時代の希望を託していた。
このように西国には尊氏を信奉する武将が多く、その軍勢を糾合する事で
尊氏は勢力挽回を図ろうとしていたのだ。しかし、拭い去れない不安もあった。
今や尊氏は後醍醐天皇に敵対する朝敵の汚名を着せられていたからである。

多々良浜の合戦 〜 光厳上皇の院宣
いかに尊氏が源氏嫡流、そして全国武士のリーダーとは言っても、
さすがに朝敵とあっては全国の武士も味方する事に躊躇する。
この状況を打破するには朝敵の汚名を消さねばならなかった。
そこで尊氏は、後醍醐天皇の復権により退位させられた光厳上皇へ使いを送った。
上皇は後醍醐天皇への譲位を認めておらず、後醍醐天皇の勢力を除こうとしていたのだ。
後醍醐天皇に敵視された尊氏は、後醍醐天皇を敵視する光厳上皇にとって
共通の敵を持つ“同士”と言える。尊氏はこうした状況を利用した。
義貞が後醍醐天皇の勅許を得て尊氏を討伐するのであれば、
尊氏は光厳上皇の院宣を得てそれを返り討ちにしようとしたのである。
尊氏の求めに応じた上皇は、新田軍討伐の院宣を発した。
こうして尊氏は朝敵の汚名を消し、さらには院宣を大義名分にして
続々と味方を増やす事に成功する。鞆津から竃関(かまがせき、山口県熊毛郡上関町)、
赤間関(あかまがせき、下関市)と船を進めた足利軍は芦屋(福岡県遠賀郡芦屋町)に上陸。
九州で軍備を整え、来る反攻の時に備えた。しかし、そんな足利軍の前に強敵が立ちはだかる。
後醍醐天皇に味方する現地の将・菊池武敏(きくちたけとし)の軍勢である。
3月2日、足利軍は菊池軍と多々良浜(たたらはま、福岡市北部の海岸)で激突、
苦戦の末にこれを打ち破る。これで勢いに乗った足利軍、いよいよ京の都へ向かうのであった。

湊川の合戦 〜 楠木正成死す!
足利軍反攻の報に朝廷は動揺する。九州から強大な軍勢を率いて京へ攻め上がる尊氏に対し
朝廷の軍議は紛糾した。朝廷の主力軍といえる新田義貞の軍勢は、播磨国(現在の兵庫県南部)の
白幡城(しらはたじょう、兵庫県赤穂郡上郡町にあった赤松氏の城)において赤松軍と交戦中で
とても足利軍を迎撃できる状態になかった。折しも北畠顕家は自国に引き上げていた時で、
残る楠木正成が最後の頼みと言えた。形勢不利を悟った正成は、後醍醐天皇を比叡山に避難させ
新田軍にその護衛を命じるべき、と提案。尊氏を京に誘き寄せ、比叡山の義貞と
河内(楠木正成の領地)の正成で挟み撃ちにしようとする作戦である。天皇方の戦力からすれば、
この作戦は最上の策であり、正成の判断は正しい。さすがに歴戦の名将である。
ところが、天皇側近の公家・坊門清忠(ぼうもんのきよただ)はこれに反対する。
帝が数回に渡り京を逃げ出すのは体面が悪いと言うのだ。
結局、天皇は清忠の意見に従い、正成に尊氏との直接対決を命じる。
戦の何たるかを理解せぬ公家と天皇は体裁にこだわり判断を狂わせた。
これでは正成に死ねと言っているようなものである。
こうして、無謀な出陣と解かっていながら正成は戦地に赴く。
それが帝の命令であるならば従わぬ訳にはいかないからだ。
1336年5月25日、楠木正成率いる700騎と新田義貞の軍勢1万騎は足利尊氏・直義の大軍と激突。
舞台は摂津国湊川(みなとがわ、神戸市の中央を流れる川)河口付近である。
船団を率いる尊氏は海から上陸、陸路からは直義の軍勢が攻撃する状況で
新田軍は早々に圧され、正成の軍が孤軍奮闘する。天皇の命令通り、死ぬ覚悟であった。
逆に尊氏は、正成に降伏を勧告するつもりであった。敵とは言え、当代随一の名将であり
殺すには惜しい男であったのだ。正成を追い詰めぬよう、じりじりと時間を稼ぐ尊氏。
それでも正成は戦い続ける。最後に残ったのはわずか70騎程度、もはや誰の目にも
敗北は明白であったが、降伏を良しとしない正成の潔さに、尊氏も意を決した。
降伏が叶わぬなら、せめて正々堂々と最期を看取ってやる、それが武士道である。
足利軍の総攻撃の前に天下の勇将・楠木正成は戦死し、湊川の合戦は終わった。
正成という大黒柱を失った事は、後醍醐天皇方にとって大変な損失であった。
一方、尊氏はこれからの戦闘で主導権を握るきっかけとなる。
互いに一歩も譲らない天皇vs尊氏の戦いは、正成の死からますます深い泥沼に陥っていく。



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