建武の新政

念願の倒幕を果たした後醍醐天皇は新たな政治を開始した。
北条氏による閉塞した幕政が終わった事で
公家のみならず武士や一般民衆までが天皇の政治に期待していた。
これに対し、後醍醐天皇による治世はどのように進んでいったのか。


建武の新政 〜 建武政府機構について
1333年6月、後醍醐天皇は京都へ還幸した。
北条氏によって即位した光厳天皇は既に退き、後醍醐帝を中心とする新政府がスタート。
摂関政治・院政・武家政治と「飾り物」でしかなかった天皇が自ら政治を行う時代が来たのだ。
後醍醐天皇が理想としたのは、平安時代に行われた「寛平・延喜の治」。
摂関を置かなかった醍醐天皇が左大臣・藤原時平と右大臣・菅原道真の補佐を受け
平和で安定した親政を執り行った時代である。こうして整備された後醍醐帝の新政府機構は

1.記録所(きろくじょ) 中央官制
行政・司法の重要政務担当。

2.雑訴決断所(ざっそけつだんしょ) 中央官制
所領関係の裁判、一般訴訟の担当部署。

3.恩賞方(おんしょうがた) 中央官制
恩賞事務担当。

4.武者所(むしゃどころ) 中央官制
軍事・警察機構。主に京都警備の任務。新田義貞一族に任命。

5.鎌倉将軍府 地方官制 (鎌倉)
関東地方統括。
成良親王(なりながしんのうなりよしとも足利直義(あしかがただよし)を派遣。

6.陸奥将軍府 地方官制 (多賀城)
奥州地方統括。
義良親王(のりながしんのうのりよしとも北畠顕家(きたばたけあきいえ)を派遣。
義良親王を征東将軍(東国支配の臨時役職)に任命。

7.国司・守護 地方官制 (各国)
各国支配を任じられた国司(公家)と守護(武士)を併置。

という構成になっている。ここで登場した成良・義良親王は両者とも後醍醐天皇の子。
足利直義は高氏の弟で、常に高氏と行動を共にしてきた“足利一門の副官”と呼べる人物である。
北畠顕家は名族・北畠家の首領で、後醍醐天皇の信任篤い武将であった。こうした人材を
鎌倉幕府の要地であった鎌倉および奥州に派遣し地方統治を固めようとしたのだ。
後醍醐天皇の治世は中央政府成立と地方支配を両立せねばならない状況にあったと言える。
こうして始まった後醍醐天皇による天皇親政を、この時代の元号をとって
「建武の新政(けんむのしんせい)」という。(建武時代:1334年〜1336(1338)年)
通常、天皇が自ら政治を行う事を「親政」と言うが、建武時代のみ「新政」の字を当てる。
「新政」と表記する事例は日本史において他にない。これは、天皇による執政という意味よりも
鎌倉幕府が滅亡した後の新しい時代という意味を重んじたもので
後醍醐天皇の政治がいかに期待されていたか、という事実を物語っている。

建武新政の失敗(1) 〜 全国武士の不満
北条氏の幕府支配に反対する全国の武士は、後醍醐天皇による倒幕計画に賛同し
鎌倉幕府を打ち倒した。それは、北条氏独裁を打倒し新たな武家の秩序を求める行動だった。
念願の倒幕が叶ったからには、後醍醐天皇による恩賞の裁定を受けて
新たな領土と栄誉ある地位や権力を手にできるはず、と彼等は考えていたのだ。
ところが、後醍醐天皇の新政はこれを真っ向から否定した。
武士たちが北条氏に代わる新しい武家政権を目指していたのに対し、
後醍醐帝は武家政権そのものを打ち倒し、朝廷による全国支配を目標にしていたからだ。
天皇の政治に期待して幕府と戦った全国の武士たちは、見事に裏切られた事になる。
つまり、こうした武士に満足な恩賞は与えられなかったのだった。
正当な恩賞と呼べる待遇を受けたのは新田義貞と楠木正成くらいのものである。
鎌倉攻略の武功を認められた新田義貞は武者所の任と北陸に領土を与えられ
倒幕の先駆けとなった楠木正成は摂津・河内・和泉(現在の大阪府)に領土を得た。
一方、六波羅を落とした足利高氏には武蔵・下総・常陸(東京都・埼玉県・千葉県の一部と茨城県)と
後醍醐天皇の御名「尊治」から「尊」の字が与えられた。これにより、高氏は尊氏と改名。
当時、主君にあたる者から名前の字を拝領する事は無上の光栄とされた。
言わんや、天皇から名を貰うのは最高の栄誉である。さらに関東で大封を得た尊氏であったが
その裏には後醍醐天皇の陰謀が込められていたのだ。要するに、一字拝領でお茶を濁し
広い領土の名目で関東の隅に尊氏を追いやり、京の中央政界から締め出したのである。
京に近い摂津・河内・和泉の3ヶ国と、東国の武蔵・下総・常陸の3ヶ国では重要度が全く違う。
ましてや足利氏より家格の低い新田氏(しかも義貞は庶流の小新田氏)と比べて扱いが低くては
尊氏の面目丸つぶれである。源氏の血を引く「武家の棟梁」尊氏に権力を与えぬ策であった。
これ以外の武将に対する扱いはもっと低かった。正成と呼応し幕府に抵抗した赤松氏・大友氏は
本領の播磨(赤松氏)・豊後(大友氏)を安堵したものの新たな領土は与えられず、
その他の武士は領土を奪われる者までいた。では、幕府の遺領はどうなったかと言えば
戦功の全くない公家らが勝手に切り分け、さらには領土分配に便宜を図ってもらおうと
朝廷内には賄賂が横行。血を流して戦った武士にしてみれば、北条氏の独裁が消えても
汚いやり口の公家が専横する世の中になっただけの事であった。
あまりに不公平な待遇で、全国の武士は朝廷への不信感を増大させていった。

建武新政の失敗(2) 〜 二条河原の落書
土地を巡る武士の争いは絶えず、訴訟を扱う雑訴決断所の事務は停滞するばかりであった。
ここでも賄賂が横行し、それによって採決が行われる始末。こうした政務の悪評は
一般の民衆にまで広がっていた。北条氏の治世と何ら変わらず、庶民の生活は苦しいままで
次第に後醍醐天皇の新政には失望する者が多くなっていた。
年が代わって1334年正月、朝廷は大内裏(だいだいり、天皇の居所)の新造を計画。
天皇の威光を世に示し、新たな内裏で政治を行う事を目的とした政治改革の一環であったが
その造営費用を捻出するため、朝廷は日本初の紙幣を発行しようとした。
当時の通貨制度は貨幣による流通が当然で、日本において紙幣が発行された例はなかったのだ。
政府信用による紙幣制度は現代でこそ当たり前の事だが、この時代ではあり得ない話で
「紙切れ」に通貨としての価値を認める者など誰一人いなかった。紙幣制度を理解できない民衆は
「天皇の悪政ここに極まれり」と酷評。結局、紙幣の発行は失敗に終わり
武士だけでなく庶民までもが朝廷への不信感を増大させていくようになる。
この状況の中、京の二条河原(鴨川にかかる二条大橋付近の河原)に落書(らくしょ)が掲示された。
落書とは、政治や時事問題を批判し皮肉る文章や歌を言う。もちろん、作者は不明。
こうした落書はいつの時代にも書かれたものだが、その中でもこの二条河原の落書は
日本史上最高傑作の落書と評されるものである。内容は、建武新政の悪政を処断したもので
「この頃都に流行るもの、夜討ち・強盗・偽せ綸旨…」の書き出しから始まる。
人々の期待を裏切った後醍醐天皇の政治を誹り、世の混乱ぶりや成り上がり者の横行を指弾しており
何よりも二条河原に掲示する事が朝廷をあざ笑うかの如き所業であった。
二条には政府の役所が置かれており、その目前に落書を出すのは大胆不敵な行動だったのだ。
もはや新政に期待する者はいなくなり、武士も民衆も朝廷を見限っていた。
後醍醐天皇の側近であった万里小路藤房(までのこうじふじふさ)までが
朝廷の腐敗に嫌気がさして失踪する有様。時代は新たなリーダーを求めていた。

護良親王の配流 〜 足利尊氏、行動を開始する
朝廷への不満が高まる中、全国の武士から信頼を集めるようになったのが足利尊氏である。
清和源氏の棟梁である尊氏は、本来ならば北条氏を倒した功で征夷大将軍に任じられて当然であり
全国の武士も武門の棟梁たる尊氏に付き従う事を誉れとしていたのだ。
しかし尊氏を将軍に任じては新たな幕府が開かれる、と警戒した後醍醐天皇は
新田義貞・楠木正成を重用し征夷大将軍の職も護良親王に与えて尊氏を遠ざけた。
源氏嫡流の血を継ぎ、多くの武士に期待されながら、活躍の機会を得られぬ尊氏。
そればかりか、護良親王は尊氏の声望を恐れて兵を集め、尊氏打倒の計画を進めようとしていた。
新時代の期待を裏切られ、政界から除け者にされた上に命の危険まで感じては
動かぬわけには行かない。尊氏は護良親王の排除に向けて策を練った。
斯くして、後醍醐天皇の寵姫である阿野廉子(あのれんし)に取り入り
「護良親王が兵を集めているのは帝位を狙っているからだ」と讒言させた尊氏。
この計略にかかった天皇は1334年10月に護良親王を捕縛し鎌倉へと流した。
鎌倉には尊氏の弟・直義がおり、護良親王の命は尊氏に握られたも同然であった。
尊氏を打倒しようとした護良親王は返り討ちの憂き目をみたのである。
次代への胎動を始めた足利尊氏と朝廷政権を固めたい後醍醐天皇、両者の対決が近づいていた。
伝足利尊氏像
伝足利尊氏像
従来、尊氏の肖像として有名であった絵だが
近年の研究によって、この説は否定された。
現在では源頼朝か高師直(こうのもろなお、尊氏の執事
モデルにした肖像画ではないかと見られているが
これも確証を得るには至っていない。
ともあれ、一般的には有名な「尊氏像」の画像であるため
ここでは敢えて足利尊氏像として掲載した。



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