★この時代の城郭 ――― 稲村ヶ崎:「鎌倉城」に“蟻の一穴”
先にも述べたように、鎌倉は町全体が城郭となる「城塞都市」であった。
西・北・東の三方が山(=城壁)で囲まれ、南を海(=濠)に面していたため
周囲と隔絶した地形の中に都市を構成していたのだ。外部との往来は、山を削った
「切通し」と呼ばれる狭い通路に限られていたため、こうした切通しを封鎖すれば
絶対的な防衛が可能であった。武門の棟梁たる源氏の本拠地は、天然の要害といえる
防衛上の要地を利用して設計されていたのだ。事実、幕府打倒を目指す新田軍は
鎌倉の天然地形に行く手を阻まれ、少ない兵力で守る切通しを突破する事もできなかった。
頼朝以来の武家政権中枢・鎌倉は、狙い通りの防衛力を発揮したのだ。
ところが、この鉄壁の守りにも盲点があった。それが稲村ヶ崎である。

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当時の鎌倉地形概略図
1:1185年〜1225年の幕府所在地(大倉幕府)
2:1226年〜1333年の幕府所在地(若宮幕府)
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上の地図は鎌倉防衛構想を示したものである。見ての通り、鎌倉の町は山に囲まれており
その稜線を繋ぐ線(地図上の赤線)が絶対防衛ラインであった。
この線は現在においても大船地区を除く鎌倉市の境界線となっており、
鎌倉時代から現代までその意味合いは変わっていないと言える。
鎌倉を出入りする道とこの線が重なる位置に設けられたのが切通しで、
城塞都市・鎌倉を守る城門の役目を担っていたのだ。騎馬戦術が基本であった当時、
欝蒼とした森から成り、急峻な斜面が連なる山岳地を軍が進撃する事はあり得ず
また、狭い通路でしかない切通しを騎馬兵が進軍する事もほぼ不可能である。
新田軍も当初、西部の3ヶ所にあたる極楽寺(ごくらくじ)・大仏・化粧坂(けわいざか)の
切通しに殺到しこれを突破しようと試みたが、やはり守りは堅く遂に破る事はできなかった。
攻めあぐねた新田軍、戦線が膠着するのは不利とみて迂回路を探す。
ここで注目されたのが稲村ヶ崎(地図左下端)である。
鎌倉の山は海まで張り出しており、絶壁には寸分の隙もないと思われていたが
海の潮が引く一瞬だけ稲村ヶ崎の海岸には砂浜が現れるのだ。
干潮の一時、新田の騎馬軍はこの砂浜へ進み、鎌倉市街地へ突入した。
城壁で囲まれた「鎌倉城」に蟻の一穴が開いていたのである。
よもや稲村ヶ崎から軍が現れると想定しなかった幕府軍は不意を衝かれ総崩れとなり
幕府の諸施設はほとんど破壊された。鎌倉幕府の滅亡である。
どんなに堅牢な城郭でも蟻の一穴で崩壊するという格言の通り、
武士の都・鎌倉も稲村ヶ崎というわずかな砂浜から攻略されてしまったのだった。
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