鎌倉幕府滅亡

数度の倒幕失敗にもめげず、なおも後醍醐天皇は幕府打倒を叫ぶ。
以前から北条氏の支配に不満を抱いていた武士はこの声を聞き、遂に決起した。
有力氏族の度重なる蜂起を受け、幕府軍は圧迫され
とうとう城塞都市・鎌倉の町が陥落する日を迎える。


後醍醐天皇、隠岐脱出 〜 反幕府運動、全国へ展開
隠岐に流されても、後醍醐天皇は倒幕を諦めなかった。流刑地からでも
全国の武将に連絡をとり倒幕計画を推進。斯くして、全国で反幕府の火が燃え上がった。
まず楠木正成が1332年12月に赤坂城を奪還。前年に姿をくらましてから約1年ぶりの再起は
わずか500の兵で城を落とす電光石火の働きである。正成軍は勢いに乗り河内・和泉へ転戦、
各地で幕府軍を撹乱する。これに連動して吉野で護良親王も挙兵した。
圧されっ放しの幕府は正成と親王の両名に賞金をかけ征伐を目論むが、
正成は金剛山(大阪・奈良府県境にある山)の千早城(ちはやじょう)に本拠を移し
ここで幕府軍を迎え撃つ。千早城は赤坂城よりも難攻不落の要害であった。
険しい山岳地に鎧兜をつけた藁人形を配置、これを囮として幕府の軍勢をおびき寄せ
城から一斉攻撃を仕掛けて潰走させた正成は、そのまま幕府軍を釘付けにして戦闘を継続。
千早城を攻めあぐねる幕府軍、何も手出しができぬ間に鎌倉幕府は滅亡してしまうのである。
それはさておき、千早城の戦況は瞬く間に全国へ広まり、今こそ幕府打倒の時期と睨んだ
各地の武将は一斉に決起した。豊後国(現在の大分県)の大友氏、播磨国(兵庫県)の赤松氏、
常陸国(茨城県)の佐竹氏、下野国(栃木県)の小山(おやま)氏らが一斉に倒幕の兵を挙げたのだ。
混乱に乗じて後醍醐帝自身も隠岐から脱出、これを伯耆国(鳥取県西部)の有力武将
名和長年(なわながとし)が受け入れた。とうとう反幕府の活動は全国へ広がり
北条氏の独裁体制であった鎌倉幕府は滅亡へと向かっていくのである。

六波羅探題の敗北 〜 足利高氏、幕府を見限る
各地の反乱に対し、幕府は闇雲に追討軍を差し向ける。こうして1333年4月、山陰地方へ
足利高氏(あしかがたかうじ)が派遣され、赤松氏・名和氏をはじめとする倒幕派を抑えようとした。
足利氏は八幡太郎義家から続く清和源氏の家柄。源氏将軍が頼朝・頼家・実朝で断絶したため
高氏は源氏本流に最も近い血縁に当たる者であった。されど北条独裁体制の下にあっては
誇り高き源氏の名門と言えども臣従せざるを得ず、一御家人の地位に甘んじていた。
鎌倉幕府開設以来100有余年、武門の棟梁にあるべき家格の足利氏は、
平氏の庶流にすぎない伊豆の豪族・北条氏の配下で忍従する日々を続けていたのだ。
高氏は先年の倒幕鎮圧においても出兵し赤坂城の攻防に参陣していたが、
戦上手で天皇と共に行動する楠木正成の軍勢を目の当たりにし、幕府の凋落を思い知っていた。
幕府軍は兵数こそ多いものの、北条氏の権威にすがり恩賞のみを目当てに動く烏合の衆で
確固たる信念を以って行動する正成軍とは天と地の差があり、それゆえ惰弱で統率が取れず
わずかな兵で立て篭もる倒幕軍を破る事ができなかったからだ。このような軍勢に加わっても
武士としての本分を全うできるものではない、と高氏は考えていた。

足利氏・新田氏系図

足利氏・新田氏系図 ―は親子関係 は養子関係
このように複雑な胸中の高氏へ命じられた山陰出兵。思案のしどころであった。
源氏の棟梁にありながら幕府に臣従せねばならない。その幕府は北条氏の私物と化し
全国の武士には怨嗟の声が満ち溢れている。信念に基づいた天皇は倒幕を命じ
時流の先を読む有力武士は続々とこれに従っている。今こそ武門の棟梁たる自分が先導し
天皇と共に行動すれば、北条氏打倒の夢は叶い新たな武家の秩序を構築できるはずだ。
意を決した高氏は、出兵先の丹波国にある篠村(しのむら)八幡宮(京都府亀岡市)へ赴き
源氏の氏神に倒幕を誓った。と同時に、名和氏の保護下にある後醍醐天皇へ使者を派遣し
帝のお墨付きを貰い軍事行動を開始する。こうして京へ突入した高氏軍は1333年5月8日、
大軍を以って六波羅探題を攻め落とした。
京都における幕府機関が消えた事に喜んだ天皇は、待機していた伯耆から
帰京をする準備を開始したのであった。

鎌倉幕府滅亡 〜 新田義貞、鎌倉へ侵攻
高氏が京都で六波羅を落とした頃、関東でも有力武将が幕府に叛旗を翻した。
足利氏と同じく清和源氏の流れを組む新田氏の将、新田義貞である。
足利氏の祖・義康と兄弟の義重から始まる新田氏は、代々に渡り上野国(現在の群馬県)に
勢力を築いていた家柄である。義重以降、小新田氏や得川(とくがわ)氏、
世良田(せらだ)氏、山名氏などの分家を輩出した新田一族は、
北関東において足利氏・佐竹氏らと並び剛勇を誇っていたのだ。
ちなみに、山名氏は室町幕府の体制下で四職(ししき)の家格を与えられ(詳しくは後記)
世良田の家を継承した三河(愛知県東部)の豪族・松平氏は後の徳川将軍家となる。
小新田氏の血を引く義貞は、北条氏の鎌倉幕府が凋落するに及んで
後醍醐天皇への忠誠を誓い、本拠地の上州で倒幕の兵を挙げて進軍を開始した。
六波羅が落ちた5月8日に生品神社(群馬県新田郡新田町)で戦勝祈願した新田軍はたった150騎。
しかし関東平野を南下する途上、北条氏に不満を覚える武士は続々と義貞の下に馳せ参じ
小手指原(こてさしがはら、埼玉県所沢市)付近で幕府軍と交戦しこれを打ち破った頃には
2000騎になっていた。さらに分倍河原(ぶばいがわら、東京都府中市)でも幕府軍と
激戦を繰り広げたが、この戦いで幕府方だった三浦氏の軍勢が新田方へ寝返ったため勝利を得て
5000騎を上回る軍勢に成長し、遂に鎌倉まで軍を進めた。
稲村ヶ崎から鎌倉中心部へ兵を突入させた新田軍は幕府守備兵を倒し鎌倉の町を制圧。
得宗・北条高時はじめ幕府首脳は尽く自刃、ここに鎌倉幕府は滅亡したのである。
時に1333年5月22日、源頼朝の開幕以来141年後、義貞の挙兵からわずか14日後の事であった。

★この時代の城郭 ――― 稲村ヶ崎:「鎌倉城」に“蟻の一穴”
先にも述べたように、鎌倉は町全体が城郭となる「城塞都市」であった。
西・北・東の三方が山(=城壁)で囲まれ、南を海(=濠)に面していたため
周囲と隔絶した地形の中に都市を構成していたのだ。外部との往来は、山を削った
「切通し」と呼ばれる狭い通路に限られていたため、こうした切通しを封鎖すれば
絶対的な防衛が可能であった。武門の棟梁たる源氏の本拠地は、天然の要害といえる
防衛上の要地を利用して設計されていたのだ。事実、幕府打倒を目指す新田軍は
鎌倉の天然地形に行く手を阻まれ、少ない兵力で守る切通しを突破する事もできなかった。
頼朝以来の武家政権中枢・鎌倉は、狙い通りの防衛力を発揮したのだ。
ところが、この鉄壁の守りにも盲点があった。それが稲村ヶ崎である。
鎌倉防衛地図
当時の鎌倉地形概略図
1:1185年〜1225年の幕府所在地(大倉幕府)
2:1226年〜1333年の幕府所在地(若宮幕府)
上の地図は鎌倉防衛構想を示したものである。見ての通り、鎌倉の町は山に囲まれており
その稜線を繋ぐ線(地図上の赤線)が絶対防衛ラインであった。
この線は現在においても大船地区を除く鎌倉市の境界線となっており、
鎌倉時代から現代までその意味合いは変わっていないと言える。
鎌倉を出入りする道とこの線が重なる位置に設けられたのが切通しで、
城塞都市・鎌倉を守る城門の役目を担っていたのだ。騎馬戦術が基本であった当時、
欝蒼とした森から成り、急峻な斜面が連なる山岳地を軍が進撃する事はあり得ず
また、狭い通路でしかない切通しを騎馬兵が進軍する事もほぼ不可能である。
新田軍も当初、西部の3ヶ所にあたる極楽寺(ごくらくじ)・大仏・化粧坂(けわいざか)の
切通しに殺到しこれを突破しようと試みたが、やはり守りは堅く遂に破る事はできなかった。
攻めあぐねた新田軍、戦線が膠着するのは不利とみて迂回路を探す。
ここで注目されたのが稲村ヶ崎(地図左下端)である。
鎌倉の山は海まで張り出しており、絶壁には寸分の隙もないと思われていたが
海の潮が引く一瞬だけ稲村ヶ崎の海岸には砂浜が現れるのだ。
干潮の一時、新田の騎馬軍はこの砂浜へ進み、鎌倉市街地へ突入した。
城壁で囲まれた「鎌倉城」に蟻の一穴が開いていたのである。
よもや稲村ヶ崎から軍が現れると想定しなかった幕府軍は不意を衝かれ総崩れとなり
幕府の諸施設はほとんど破壊された。鎌倉幕府の滅亡である。
どんなに堅牢な城郭でも蟻の一穴で崩壊するという格言の通り、
武士の都・鎌倉も稲村ヶ崎というわずかな砂浜から攻略されてしまったのだった。





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