南北朝の動乱

「南北朝時代」というのは、便宜的な時代区分である。
読んで字の如く「朝廷が南朝と北朝に分裂していた時代」という意味で
持明院統と大覚寺統が対立を始めた鎌倉時代後期から
南北朝合一の取り決めが行われた室町時代前期まで約150年間のうち、
特に討幕運動〜南北朝諸将の戦闘が激しかった60年余りを指している。
まずこの頁では、討幕運動の動きを解説していく。


後醍醐天皇の即位 〜 倒幕に燃える尊治親王
尊治親王は後宇多天皇の第2子で、母親は身分が低かったため
庶子ともいえる微妙な立場で産まれてきた人物である。本来ならば親王の位もなく
単なる皇子として扱われてもおかしくはないのだが、幼い頃から学問を好んだため
親王位を与えられ皇位継承者の資格を得た。皇統分立期で皇位は転々と継承され
ようやく尊治親王が天皇に即位したのは1318年、30歳の時であった。
後醍醐天皇の誕生である。
兼ねてから学識があり独自の政治論を確立していた後醍醐帝は、皇統の分立を収束させ
朝廷を一つにまとめる事が重要と考えていた。それには平安時代末期から続く悪しき慣習、
院政を終わらせると共に、皇位継承に介入し独裁を敷く鎌倉幕府を排除すべきとした。
手始めに1321年、父親の後宇多上皇を政界から引退させ院政を廃止。
白河法皇・後白河法皇・後鳥羽上皇・後嵯峨上皇に代表される院政は武士と朝廷の軋轢を生み、
その結果として天皇の政治力を落とし、武士に政権を奪われる原因になったばかりか、
皇統の分立を招き諸悪の元凶となっていた。
院政の廃止によって天皇親政(しんせい、天皇が自ら政治を執る事)が復活。
平安時代中期に設置された記録所の再興を行い、朝廷による政治主導を準備した。
そして後醍醐帝の次の目標、倒幕への動きが開始されたのである。
後醍醐天皇像後醍醐天皇像

正中の変 〜 倒幕計画の失敗(1)
中国の政治書などを読破し、政治の在るべき姿を追求した後醍醐帝にとって、
武家政権は倒さねばならない最大の敵であった。本来朝廷の臣下である将軍を首班とし
軍事を取り仕切る存在の幕府が、何ゆえ政権を握り朝廷を抑圧するのか。
後醍醐帝はこうした状況が許せなかったのである。
しかし、実際に政治と軍事の権力を握っているのは幕府であり
朝廷がこれを打ち倒すのは容易でなかった。よって、綿密な倒幕計画を練らねば
この目標を叶える事はできない。後醍醐帝は親幕府的な持明院統の派閥を退け
腹心と呼べる忠実な公家数人で政権を固め、倒幕の打ち合わせを行っていた。
夜な夜な無礼講の酒宴を開き、まるで座興にうつつを抜かすような振舞いをし
周囲には倒幕の会合と気付かれぬように話を進めていたのである。
こうした酒宴に集う顔ぶれは後醍醐帝の他、中流貴族の日野資朝(ひのすけとも)
日野俊基(ひのとしもと)がいた。北条氏に不満を抱く全国の武士を挙兵させ
北条氏の打倒を行えば鎌倉幕府を打ち倒せると計画していたが、
この企みは幕府に露見してしまった。
1324年9月23日、幕府は帝の計画に賛同した武士を一斉検挙。
天皇側近の資朝・俊基らは首謀者とされ、資朝は佐渡ヶ島に流罪となり
俊基は鎌倉へ連行された。この事件を正中の変(しょうちゅうのへん)という。
後醍醐天皇の倒幕計画は無残に失敗したのである。

元弘の変 〜 倒幕計画の失敗(2)
それでも後醍醐天皇は諦めない。幕府の警戒をかいくぐりながら
内なる闘志の炎を燃やし続けていた。再び倒幕の同志を募り挙兵の計画を練ったが
あまりに短慮で過激な倒幕思想を危惧した天皇側近の吉田定房(よしださだふさ)
思い詰めて幕府へ密告した。天皇が軽挙に走り幕府と事を構えては朝廷の存続さえ危ういと
思われたためである。それほどまでに後醍醐天皇の倒幕計画は性急だったのだ。
この密告を受けた鎌倉幕府の評定所では天皇の処遇を決めかねたが
帝に罪が及ばないようにするため密告した定房の心中を考慮し、天皇の傍で
倒幕計画を練った一味のみを捕縛した。その中には釈放されて京に戻っていた
日野俊基らも含まれていた。これを元弘の変(げんこうのへん)と言う。時に1331年5月。
後醍醐天皇の倒幕計画はまたも失敗の憂き目を見た。
しかし同年8月、後醍醐天皇は遂に倒幕の兵を挙げた。このまま座して待っても
幕府は天皇を捕えたであろうし、幕府内部では得宗の北条高時、
執権の北条守時(ほうじょうもりとき)、内管領の長崎高資が三つ巴で勢力争いをしており
幕府が落ちつかない今を置いて他に挙兵の好機なしと踏んだのである。
後醍醐帝は京都を抜け出して比叡山延暦寺へ立て篭もり、幕府への対決を表明。
これを受けた幕府方、六波羅探題の軍勢を比叡山へ差し向けた。
ところが六波羅の大軍は延暦寺の僧兵に蹴散らされ、無残な敗北を味わう事になる。
しかも比叡山にいるはずの天皇は真っ赤な偽者。幕府は散々コケにされ体面を失った。

後醍醐天皇、隠岐流罪 〜 倒幕計画の失敗(3)
本物の天皇は笠置山(かさぎやま、京都府相楽郡笠置町)に在った。
8月27日に笠置寺(笠置山にある寺)へ遷幸した後醍醐帝、全山を城塞化しつつ
北条氏へ不満を抱く武士らへ檄を飛ばした。これに同調し馳せ参じたのが
河内国(現在の大阪府内陸部)の悪党、楠木正成(くすのきまさしげ)である。
正成は領国河内で挙兵、笠置に篭る天皇と連動し陽動作戦を展開すべく行動を開始。
この間にも笠置山へは大和・河内・伊賀・伊勢などの国から援軍が参集していた。
天皇方は笠置と河内の二段構えで幕府軍を翻弄しようとしたのだ。
こうした動きに対し、体制を立て直した幕府方の攻勢が始まった。
幕府軍は大軍を以って笠置の砦を攻撃、激戦は20日以上続いたが
次第に劣勢となった天皇方は遂に敗戦してしまう。9月29日夜、天皇は笠置を脱出し
正成軍に合流しようと逃亡を図ったが、山中をさ迷った挙句幕府軍に捕えられた。
一方、9月11日に河内で挙兵した正成は赤坂城(大阪府南河内郡千早赤阪村)に籠城。
ここには後醍醐天皇の皇子・護良親王(もりながしんのうもりよしともが合流し
幕府軍を釘付けにして奮戦した。幕府軍は遂に赤坂城を攻め落とす事はできなかったが
笠置での敗戦を受け、無駄に戦力を消耗せぬよう10月21日に正成は城を自焼させ全軍撤収。
引き際を心得た正成の的確な判断である。その後、約1年間に渡り正成は姿をくらました。
結局、後醍醐天皇は幕府に三種の神器を没収されて持明院統の光厳天皇が即位。
1332年3月、後醍醐天皇は隠岐へ流罪となってしまった。

★この時代の城郭 ――― 悪党の山城
鎌倉時代末期、悪党ら倒幕の武士が幕府軍と戦うために数々の山城を築いた。
前述の赤坂城や後記する千早城などが好例で、険しい山岳地に塀・櫓を構え
攻め上がってくる幕府の軍勢を山上から攻撃、谷底へ落すといった戦法を用いた。
山中でいくらでも調達できる巨石や材木を落とし、時には熱湯や糞尿も浴びせ掛け
城を目指す重装備の幕府軍兵士を奈落の底へ叩き込んだのだ。
実戦的な悪党の戦闘手段は、古い慣習にとらわれる幕府方の武士とは全く異なる。
鎌倉武士は大きな鎧に身を固め、騎馬を操り、戦闘開始には名乗りを挙げ一騎討ちを挑むが
悪党はそのようなルールは一切無視、軽装備の歩兵戦術で神出鬼没の奇襲攻撃を行う。
当たり前だが、重装備の騎馬兵が最も苦手とする場所が山岳地であり
後醍醐天皇が笠置山に陣を構え、楠木正成が赤坂城を本拠としたのは
幕府軍の勢いを制するのに最も効果的な方法だった。悪党の築いた山城とは
平安時代までの政庁城郭とは違う、「戦闘を主眼とした(籠城のための)城郭」だったのである。
こうした山城は、天険の要害といえる急峻な山地を選んで築かれ、防衛施設として
断崖絶壁・欝蒼とした森林・深い谷・急流の河川といった自然地形がそのまま活用された。
もちろんその他にも多種多様なトラップが仕掛けられ、寄せ来る軍勢を撃退したのである。
しかし、こうした山城は戦時の一時的な使用しかされない。
天然の要害地に築かれるが故、兵糧や資材の搬入・維持・管理は難しく
ましてやそのような場所で平時から生活するなどという事は不可能だからだ。
あくまでも戦時に戦う場所としての城郭でしかなく
平時には麓など異なる場所に居館を構えて居住していた。
よって、石垣を組んだり大規模な堀を掘削する事は行われず、
建築物も塀や櫓くらいはあったものの、それも簡易なものでしかなかったらしい。
この時代の山城は、構築物としての意味合いよりも
「立て篭もって敵と戦う場所」という意味を指しているようだ。
戦術的に考えても、一ヶ所に留まって長期戦を展開するのではなく
周辺にいくつかの城を構えて転戦、ゲリラ活動を行うというものだった。
山城でも生活するようになるのは、大規模な築城工事を行える土木技術が発達し
戦乱で常日頃から警戒しなくてはならないような時代、室町時代後期になってからである。





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