★この時代の城郭 ――― 悪党の山城
鎌倉時代末期、悪党ら倒幕の武士が幕府軍と戦うために数々の山城を築いた。
前述の赤坂城や後記する千早城などが好例で、険しい山岳地に塀・櫓を構え
攻め上がってくる幕府の軍勢を山上から攻撃、谷底へ落すといった戦法を用いた。
山中でいくらでも調達できる巨石や材木を落とし、時には熱湯や糞尿も浴びせ掛け
城を目指す重装備の幕府軍兵士を奈落の底へ叩き込んだのだ。
実戦的な悪党の戦闘手段は、古い慣習にとらわれる幕府方の武士とは全く異なる。
鎌倉武士は大きな鎧に身を固め、騎馬を操り、戦闘開始には名乗りを挙げ一騎討ちを挑むが
悪党はそのようなルールは一切無視、軽装備の歩兵戦術で神出鬼没の奇襲攻撃を行う。
当たり前だが、重装備の騎馬兵が最も苦手とする場所が山岳地であり
後醍醐天皇が笠置山に陣を構え、楠木正成が赤坂城を本拠としたのは
幕府軍の勢いを制するのに最も効果的な方法だった。悪党の築いた山城とは
平安時代までの政庁城郭とは違う、「戦闘を主眼とした(籠城のための)城郭」だったのである。
こうした山城は、天険の要害といえる急峻な山地を選んで築かれ、防衛施設として
断崖絶壁・欝蒼とした森林・深い谷・急流の河川といった自然地形がそのまま活用された。
もちろんその他にも多種多様なトラップが仕掛けられ、寄せ来る軍勢を撃退したのである。
しかし、こうした山城は戦時の一時的な使用しかされない。
天然の要害地に築かれるが故、兵糧や資材の搬入・維持・管理は難しく
ましてやそのような場所で平時から生活するなどという事は不可能だからだ。
あくまでも戦時に戦う場所としての城郭でしかなく
平時には麓など異なる場所に居館を構えて居住していた。
よって、石垣を組んだり大規模な堀を掘削する事は行われず、
建築物も塀や櫓くらいはあったものの、それも簡易なものでしかなかったらしい。
この時代の山城は、構築物としての意味合いよりも
「立て篭もって敵と戦う場所」という意味を指しているようだ。
戦術的に考えても、一ヶ所に留まって長期戦を展開するのではなく
周辺にいくつかの城を構えて転戦、ゲリラ活動を行うというものだった。
山城でも生活するようになるのは、大規模な築城工事を行える土木技術が発達し
戦乱で常日頃から警戒しなくてはならないような時代、室町時代後期になってからである。
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