鎌倉幕府の衰退

生活を懸けて元寇の恩賞を求める御家人たち。
それに対し、幕府は有効な解決策を見出せずにいた。
政権の維持を図るため、北条氏は得宗専制体制を確立するが
結果として幕府への不満・不信を増大させていく。
鎌倉幕府は今、崩壊への序曲を奏で始めた。


霜月騒動 〜 安達泰盛の悲劇
北条時宗の執権就任に尽力し、御家人の中で有力な地位を占めていた人物として
安達泰盛(あだちやすもり)なる者がいる。泰盛は時宗の執権就任を推挙し
元寇においては御家人のリーダー的存在として周囲をまとめあげ、恩賞奉行として
幕府内の実務を取り仕切っていた。何よりも安達氏の戦力は幕府の中でも最強で
北条時頼執権期に起きた宝治合戦などでは、北条方勝利の原動力となった程である。
安達氏の援軍なくして宝治合戦における北条氏の勝利はなかったかもしれない。
泰盛は北条氏と縁戚であったため、常に得宗の協力をし「縁の下の力持ち」として
幕府の安定に貢献してきた人物だったのだ。ところが、時宗死亡の翌年である
1285年、この安達泰盛一族が他ならぬ北条氏に討ち滅ぼされてしまった。
これを霜月騒動(しもつきそうどう)と呼ぶ。霜月騒動の背景はかなり複雑だ。
元寇に対する恩賞が貰えない御家人達は、幕府の対応に苛立ちを募らせていた。
こうした御家人の不満を抑えこむには、恩賞が出せない以上
北条氏の権勢を強化して独裁体制を打ち立てるしかない。
将軍・執権といった幕府役職などではなく、得宗の意向で政治を左右できるような
「得宗専制体制」でこの難局を乗り切ろうと考えたのである。
ところが、得宗の下で実務を取り仕切る者は2大派閥に分かれていた。
御家人の重鎮である安達泰盛と、内管領(北条氏家宰)の平頼綱である。
得宗の政務を一手に掌握すれば幕府権力を牛耳る事ができると考えた頼綱は
邪魔者である泰盛の抹殺に動き、北条氏までが恩人とも言える泰盛を討つ事に同調した。
こうして、頼綱の策謀で起きたのが霜月騒動である。
従来の通説では、御家人への恩賞を巡る争いから泰盛が粛清されたと言われていた。
恩賞として与える土地を捻出するために、恩賞奉行であった泰盛の領土を奪うべく
安達一族を滅ぼした、と見られていたのである。が、近年の研究ではこの説がくつがえり
単純に北条氏が独裁体制を築く意図のみで安達氏までが消されたというのだ。
政敵であった梶原氏・畠山氏・和田氏・三浦氏ならばいざ知らず、北条氏と親しい間柄の
安達氏が排斥されたというのは注目に値する。即ち、もはや北条氏の政治が
なりふり構わなくなり、とにかく独裁で御家人を屈服させようという状態になったと言える。
北条氏の縁戚である安達氏までが粛清されたため、御家人達は戦々恐々とした事だろう。
しかし、このような横暴が御家人達に受け容れられるはずがない。
一見北条氏の権勢が強化されたように思われたこの事件は、むしろ幕府へ対する逆風を強め
独裁を敷く北条氏を見限る土壌が目に見えない所で着々と広がっていったのである。

御家人の困窮 〜 分割相続制度の矛盾
現代の民法においては、遺産相続は被相続者の配偶者が2分の1を受け取り
残りの2分の1を子供が均等配分する事が大原則となっている。
一方、1946年の日本国憲法制定以前における旧民法では、家長制度に基づいて
嫡子による単独相続を基本としていた。これは、江戸時代から続く家督制度を踏襲したもので
「家」の概念を第一とした日本伝統の相続方法であった。
では鎌倉時代に遡った場合、財産の継承はどのように行われていたのであろうか?
一家の惣領(家督)としての立場や幕府に対する奉公などは嫡子が責任を負ったが
所領の相続は子供全員による分割相続が為されていた。むしろ現代民法に近い形態である。
ここで注目したいのは「子供全員」という点である。つまり、女子にも相続権があり
親の遺領は男女問わず全員で分けられていたのだ。
「家督制度」による男性優位は、まだこの頃には成立していない事になる。
単純に考えれば平等な配分で好ましいと思えるが、それは早計である。
江戸時代以前の資産価値は領土を基本としていたが、日本国内の土地は有限の資産である。
金銭ならば利潤を得て増加する事もあり得るが、どう転んでも国土が増える事はないのだ。
そこへ分割相続制度が適用されるとなれば、親・子・孫と代を重ねるごとに
所領は細分化され、一人当たりの領土は少なくなっていく。
例え親の代に広大な所領を有していても、孫の代にもなれば生活源を確保するのも事欠くような
乏しい領土しか残らないようになっていよう。そこへ元寇の到来である。
生活費すら満足にない御家人が借財をして戦費をまかなったのは至極当然である。
しかも戦後に恩賞は出ず、手元に残るのが借金の証文だけとあれば、
もはや生活は立ち行かない。御家人が困窮するにはこうした理由があったのだ。
借金返済に奔走する御家人達、ある者は返済の期限を延ばすため商人に頭を下げ
ある者は金策ができずに所領を商人に没収されていった。
無足(むそく、土地を失う事)の御家人では幕府への奉公もおぼつかなくなる。
このような事例の反省から、日本では嫡子による単独相続が慣例化していくのである。

永仁の徳政令 〜 得宗専制体制の悪政
御家人がこれほどまでに困窮しているにも関わらず、北条氏は得宗専制体制を敷き
自らの所領を増やす事に邁進していた。北条氏が守護を務める国は、
頼朝死後の1199年には3ヶ国であったが、霜月騒動の後は28ヶ国にも達していた。
もはや幕府の職制は形式的なものに過ぎず、得宗が実権を握って政務を動かし
重要事項の決定は北条一門と内管領の合議による寄合(よりあい)によって行われた。
執権・評定会議といった本来の幕府機構は軽んじられ、しかもそういった機構も
北条一門によって独占された状態であった。得宗直属の家来は御内人(みうちびと)と呼ばれ
幕府を支える御家人よりも権勢を誇る始末。御家人を重視した頼朝の幕府機構は形骸化し
形式的にも実質的にも総てが北条氏のものになってしまっていたのだ。
特に実務を担当する内管領の職は重要で、この地位を巡る争いも熾烈なものになっていた。
安達泰盛を嵌めて権勢を握った平頼綱も、1293年長崎氏に討たれ内管領の職を奪われた。
因果は巡るものである。この事変を平禅門の乱(へいぜんもんのらん)と言う。
調査可能国数
北条一門・得宗領国
外様領国
守護不設置国
頼朝死後(1199)
38
3
31
4
承久の乱後(1221)
45
13
28
4
宝治合戦後(1247)
46
15
26
5
霜月騒動後(1285)
56
28
23
5
元弘の変後(1331)
57
30
22
5
北条一門の所領増加状況
数字は守護を務める国の数
貧困に喘ぐ御家人の中には、次第に北条氏を見限り幕府統制から離れる者が現れた。
幕府に従わず、自由気ままに所領を守り、無頼の生活を送る武士。
そうした者を悪党(あくとう)と呼ぶ。“悪”と言っても、現代のような
「犯罪者、非道な者」という意味だけではなく(もちろんそういう意味も含むが)
「強い者、猛々しい者、剛毅な者」という事柄を示す。頼朝の兄である義平は
「悪源太」と称したが、これも「武力に長じた者」という意味の“悪”である。
こういった悪党は全国に見うけられ、時に略奪なども行ったが自分の村で独自の自治を行い、
幕府の権威をものともしない自由闊達な生活を送るようになっていた。
御家人の貧窮や無足化、悪党の横行など、武士の混乱を真の当たりにした幕府は
1297年3月、遂に徳政令(とくせいれい)を発布した。徳政とは借金を帳消しにする事で、
この徳政令によって今まで御家人が商人から借りた借金をなかった事にし、
質草として差し押さえられたり生活の為に売却してしまった土地も元の領主に返還する事が
命令された。永仁5年に出された徳政令なので、これを「永仁の徳政令」と言う。
しかし、借金を踏み倒すのが公然と認められるなどという事は社会に大変な衝撃を与えた。
経済は大混乱し、契約を反古にされた商人は今後一切武士に金を貸さないなどという状況を招き、
継続して借金をしようとしていた御家人はかえって困窮の度合いを深め、幕府の信用は地に墜ちたのだ。
結局、この徳政令は翌年3月に取り消されてしまったが、もはや北条氏の政策が
大局を見ずにその場しのぎでしか行われない事を実証してしまった。
幕府への非難はより一層深いものへと悪化していく。

当時の社会状況
国家レベルでは緊張状態にあった日本と元であるが、民間商業は早くから交易を必要とし
1292年、日本の商船が元に赴き貿易の是非を打診していた。フビライ死後の1299年には
元の国使として僧の一山一寧(いっさんいちねい)が来日し日本との和議を結ぶ。
これを受けて日元貿易が開始され、後の日明貿易に繋がっていく。
一方、北条氏得宗は北条高時(ほうじょうたかとき)に代替わりしていた。
しかし高時は政治を行う事なく遊興に耽り、幕政は停滞の一途を辿った。
得宗の専制体制が敷かれておきながら、肝心の得宗が無能ではどうにもならない。
結局、政務は内管領の長崎高資(ながさきたかすけ)が代行するようになったが
権力を振りかざして賄賂をむさぼり、幕府の信用はますます失われていくのであった。
この状況を苦々しく見ていたのが大覚寺統の尊治親王(たかはるしんのう)である。
持明院統との対立にケリをつけ皇統の混乱を収束しようと血気にはやる親王は
皇位継承に口を挟み悪政の限りを尽くす鎌倉幕府を打ち倒さねばならないと
大いなる野望に闘志を燃やしていた。
幕府機構を無視した得宗専制体制、元寇後の不況に苦しむ御家人、
永仁の徳政令による社会不安、皇統分立から始まる朝廷の動乱。
すべての糸は今、一本に紡がれて倒幕へと動き始めた。



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