孝謙(称徳)天皇の時代(2)

道鏡を排除しようとした恵美押勝は兵乱を起こしたが
敗北して歴史の表舞台から消え去った。
勝利した孝謙上皇は称徳天皇として重祚し権力を奪回、
ますます道鏡を重用するようになる。


道鏡の時代 〜 宇佐八幡神託事件
764年9月、恵美押勝の乱を平定した孝謙上皇は、道鏡を大臣禅師(だいじんぜんじ)の位に就けた。
同時に唐風にしてあった官職名を日本式に復旧。押勝の政治的影響を払拭するためである。
同年10月には押勝と懇意であった淳仁天皇を廃帝、淡路島へと流した。
このため、淳仁天皇は「淡路廃帝」と呼ばれる。
上皇は政治の実権を握るために重祚、称徳天皇として即位した。
もはや藤原氏も他の氏族もこの女帝には逆らえず、
思いのままに政治を掌握、そして道鏡を偏重するばかりであった。
765年閏10月、道鏡は太政大臣禅師に。続けて766年には法王の位を与えられ
政界・仏教界の頂点に君臨するようになった。
これに伴い、道鏡の親類や弟子らも高い位に登り
藤原氏ら旧来の朝廷貴族はますます疎外されるようになる。
朝廷は道鏡の思うがままに動かされるようになったのである。
ちなみに、「法王(ほうおう)」とは仏教界の王という意味であり
天皇や上皇が出家する「法皇(ほうおう)」とは異なるものである。
よって、「法皇」と呼ばれる人物は多数いるが
「法王」の位に就いたのは日本史上で道鏡しかいない。
天皇が道鏡に傾倒していた769年の事、大宰府から帝に上申が行われた。
豊前国(現在の大分県)宇佐八幡宮において神のお告げがあり、
道鏡を皇位に就ければ世が収まるとされたのである。
しかし皇族でない者を皇位に就けるのはあり得ない事であり
神意を確かめるために和気清麻呂(わけのきよまろ)が宇佐へ派遣された。
宇佐から戻った清麻呂は、帝の前でもはばからず
皇族でない道鏡への譲位を否定、政界からの追放を申告する。
あまりに強烈な非難を受けた天皇は激怒し、清麻呂とその姉である
和気広虫(わけのひろむし)を大隅国(現在の鹿児島県東部)への流罪にしてしまった。
この一連の騒動を宇佐八幡神託事件と言う。
清麻呂の追放で道鏡の栄華は猶も続くかに見られたが
翌770年、称徳天皇が崩御。後ろ盾を失った道鏡はあっけなく左遷され
下野国(現在の栃木県)へと流され、772年に没する。
天皇に取り入り権勢を驕り、天皇の死で奈落の底へ落ちた僧の寂しい末路であった。

藤原氏の復権 〜 白壁王立太子
称徳帝が薨じ、道鏡が追放された事で藤原氏が復権。
流罪に処されていた和気清麻呂が都に呼び戻された。
天皇の死で空位になった皇位を誰が継ぐかが問題となったが、
藤原房前の子である藤原永手(ふじわらのながて)や、藤原宇右の2子
藤原良継(ふじわらのよしつぐ)藤原百川(ふじわらのももかわ)
施基皇子(しきおうじ)の子・白壁王(しらかべおう)を皇太子に据えようと目論んだ。
施基皇子は天智天皇の子なので、白壁王は天智天皇の孫にあたる人物だが
この時62歳の老齢であった。今まで強権の天皇に疎外されていた藤原氏にとっては
名目だけの天皇を据えて政治を自由に動かそうとしたのである。
当然、周囲からの反発が予想されたが、百川らは称徳天皇の遺詔を捏造し
こうした勢力の声を封じこめた。皇太子となった白壁王は第49代天皇の光仁天皇として即位し、
781年にはその子・山部親王(やまのべしんのう)が皇位を継承した。
第50代天皇、桓武天皇である。

天平文化 〜 国際交流華やかなりしグローバル文化
奈良時代は、遣唐使の往来によって中国大陸から様々な事物が日本へ持ちこまれた。
唐の影響を受けた仏教芸術や、東大寺正倉院に納められたインド・ペルシア伝来の宝物など
飛鳥文化以上にグローバルな文化交流が行われた結果が集約されている。
建築
東大寺法華堂(三月堂)・正倉院・転害門
唐招提寺金堂・講堂
法隆寺伝法堂・夢殿
彫刻
東大寺法華堂不空羂索観音像
東大寺法華堂日光・月光菩薩像
東大寺法華堂執金剛神像
東大寺戒壇院四天王像
唐招提寺鑑真像
唐招提寺金堂盧舎那仏像
興福寺八部衆像
興福寺十大弟子像
新薬師寺十二神将像
絵画
東大寺正倉院鳥毛立女屏風
薬師寺吉祥天像
過去現在絵因果経
工芸
東大寺正倉院御物
東大寺大仏殿八角灯籠
天平文化の代表例
聖武天皇の発案による鎮護国家構想は仏教建築や工芸品を数多く産み出したが
こうした構築物はほとんどが唐の寺院や仏像に影響を受けている。
また、唐招提寺は鑑真の創建による寺なので
建築物や収蔵品がいずれも奈良時代の遺構である事は言うまでもない。
東大寺転害門(てがいもん)東大寺転害門(奈良県奈良市)
東大寺正倉院に納められた宝物が聖武天皇の遺品である事は先頁に記載した通りだが
ペルシアや中国から伝来したガラス工芸品や楽器など、
その内容はアジア全域を又にかけた国際色豊かな物である。
同じく東大寺の大仏殿前に安置されている八角灯籠は銅製の大灯籠で
大仏創建当時のもの。八角の火袋には唐獅子や菩薩像の浮彫りが施されている。
東大寺大仏殿八角灯籠東大寺大仏殿八角灯籠(奈良県奈良市)
天平文化のもう一つの側面には、修史事業と日本文学の萌芽がある。
建築や工芸などが世界的な広がりを持つのに対して
文芸においては日本独自の特色が花開いている。
まず修史事業についてであるが、天武天皇により国史編纂が指示され
稗田阿礼に歴史の暗記、川島皇子らに国書の編集が命じられたが
奈良時代においてこれらを総合的に歴史書として記載する作業が行われた。
稗田阿礼が暗記した旧辞を太安麻呂(おおのやすまろ)が文字に起こし
712年に完成した書物が古事記(こじき)である。
一方、舎人親王によって720年に完成した歴史書が日本書紀。
日本書紀以降に作られた6種類の歴史書を六国史(りっこくし)と呼ぶ。
六国史(読み方)
成立
編集者
日本書紀(にほんしょき)
720年
舎人親王
続日本紀(しょくにほんき)
797年
藤原継縄
日本後紀(にほんこうき)
840年
藤原緒嗣
続日本後紀(しょくにほんこうき)
869年
藤原良房
日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)
879年
藤原基経
日本三代実録(にほんさんだいじつろく)
901年
藤原時平
六国史一覧
文学で有名なものは、何と言っても万葉集(まんようしゅう)であろう。
奈良時代後期までの歌を集めた日本最古の歌集で、詠み人は有名な歌人のみならず
防人・農民など広範囲に及んでおり、約4500首もの歌が収録されている。
白鳳文化の項で紹介した柿本人麻呂や額田王、
奈良時代の歌人では山上憶良(やまのうえのおくら)山部赤人(やまべのあかひと)
大伴旅人(おおとものたびと)大伴家持(おおとものやかもち)などが代表例。
平仮名が発達していない時代の歌集なので、漢字の発音を組み合わせて仮名読みする
独特の方法、万葉仮名(まんようがな)が用いられている。
常知らぬ 道の長手(ながて)を くれくれと
 如何にか行かむ 糧米(かりて)は無しに    山上憶良

[農民の困窮を詠んだ歌]
田児の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ
 不尽(ふじ)の高嶺(たかね)に 雪は降りける    山部赤人

[意味] 田子の浦に出て見れば、富士山には真っ白な雪が降り積もっている。
[旅情や自然の美しさを賛美した歌]
験(しるし)なき 物を思はずは 一坏(ひとつき)の
 濁れる酒を 飲むべくあるらし    大伴旅人

[日常生活から出た感情を詠んだ歌]
うらうらに 照れる春日(はるひ)に 雲雀(ひばり)あがり
 心悲しくも 独りしおもへば    大伴家持

[意味] うららかな春の陽光にヒバリが飛び立つ。
独り物思いに耽ると、悲しい心が押さえられない。
唐衣(からころむ) 裾に取りつき 泣く子らを
 置きてぞ来ぬや 母(おも)なしにして    防人

可良己呂武 須宗尓等里都伎 奈苦古良乎
 意伎弖曽伎怒也 意母奈之尓志弖    《万葉仮名表記》

[意味] 服の裾に取りすがって泣く子供らを残し、防人としてやって来た。
  子供達には母親がいないというのに…。
[防人の労苦を詠んだ歌]



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