孝謙(称徳)天皇の時代(1)

聖武上皇の死後、孝謙天皇が政治の表舞台に立つ。
この女帝の下、政権はめまぐるしく変遷する。
藤原仲麻呂改め恵美押勝(えみのおしかつ)、そして道鏡(どうきょう)
プライド高き女帝と男達の争いにより奈良時代は変化を迎える。


東大寺正倉院 〜 聖武上皇の死
749年、聖武天皇が譲位し孝謙天皇が即位した際、
紫微中台(しびちゅうだい)という役所が作られた。
権力の座を離れた聖武帝に代わり、光明皇太后を輔弼する部署である。
この長官に任じられたのが藤原仲麻呂。
仲麻呂は大納言も兼ねており、光明皇太后・孝謙天皇の信任も篤かった。
従来、橘諸兄が握っていた権力は仲麻呂へ移っていったのである。
756年、聖武上皇が没すると遺された光明皇太后は悲嘆に暮れてしまう。
これを見た仲麻呂は上皇の供養のため、遺品を東大寺に納める事を提案する。
皇太后にとって思い出深い品々を封印する事で
亡き上皇の面影を薄れさせる目的であった。
このために建てられたのが正倉院(しょうそういん)である。
上皇の遺品である宝物を収納するための倉庫で、
校倉造(あぜくらづくり)と呼ばれる特別な工法で造られている。
校倉造は角材を斜めに組み合わせて壁面を構成するもので
湿度が高いときは外気を遮断、低いときは外気を取り入れる事ができる。
高床式の建物と相俟って、収蔵品を湿度による腐食から守るようになっており
現在に至るまで数千点に及ぶ宝物を保全してきた(今は新宝庫に収納)。
同年に橘諸兄が政界を引退、翌757年に死去したため
光明皇太后の側近となった仲麻呂は確実に政権を掌握したのであった。

恵美押勝の乱 〜 皇太后の死、そして孝謙天皇との確執
橘諸兄の死によって、仲麻呂の政権はいよいよ動き出した。
孝謙天皇には子供がなく、聖武帝の遺言によって皇太子は
道祖王(ふなどのおう)に決まっていたが、これを仲麻呂と懇意の
大炊王(おおいのおう)に挿げ替える。
道祖王は日ごろの素行が悪く、評判が良くなかった事につけ込んだのである。
仲麻呂の息子の未亡人と再婚したのが大炊王であったため、
次の天皇が仲麻呂にとって義理の息子(かなり無理矢理だが)になる事を狙ったのだ。
さらに仲麻呂は祖父である藤原不比等が撰修した養老律令を施行。
藤原氏の作った律令が、藤原氏によって施行されたのである。
これにより仲麻呂の権威はさらに大きくなった。
一方、この事態を不満に思う勢力も増えていく。
橘諸兄の息子・橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)
壬申の乱において大海人皇子の勇躍を助けた大伴吹負の末裔で
遣唐使として唐の知識を学んだ大伴古麻呂らである。
彼等は仲麻呂政権の打倒を目指し、密かに挙兵の準備を進めたが
この計画は仲麻呂の知る所となり、逆に捕らえられ処刑されてしまった。
奈良麻呂一派が掃討された政変を橘奈良麻呂の変と呼ぶ。
政敵を一掃した翌758年、大炊王が即位し淳仁天皇となる。
仲麻呂は自らの名前を恵美押勝と改め、その名は天皇から与えられた事とされた。
押勝は恩賜の姓名を名乗る事でますます権威を増大させたのである。
同時に、官職名も唐風に改めた。
例えば、右大臣は大保(たいほ)、太政大臣は太師(たいし)といった具合である。
押勝はその太師の役職に760年就任。もはや押勝に抗える者は無いかに見えた。
ところがその年、押勝の後ろ盾となっていた光明皇太后が死去。
押勝の権勢に陰りが見え始める。さらに翌761年、
病気療養のため仮宮である保良宮(ほらのみや)へ行幸中であった孝謙上皇に、
看病禅師(かんびょうぜんじ)として僧の道鏡が同行。
病癒えた上皇は道鏡を側近に置くようになった。
「上皇が怪僧を侍らせている」との報を聞きつけた押勝は天皇と図って
道鏡の左遷を上皇に上申。ところがこれに激怒した上皇は
天皇も押勝も政治から遠ざけ、道鏡を重用するようになってしまった。
763年、道鏡は少僧都(しょうそうず)の役職に就任。
これを黙って見過ごせない押勝は、遂に道鏡排除を求めて兵を集め始めた。
一方上皇は押勝の動向を察知し、押勝討伐の命令を下す。
押勝と上皇は完全対決の構図となり、ここに兵乱が勃発した。
恵美押勝の乱である。
押勝は自分の領国であった近江や息子のいる越前で兵を整えようとしたが
これらの国は既に上皇方に押さえられていた。琵琶湖周辺を流転した押勝軍は、
三尾埼(みおのさき)付近(現在の滋賀県高島郡高島町)で上皇軍に囲まれ決戦に及んだが
衆寡敵せず敗北。押勝は戦死し、押勝が新天皇に祭り上げようとした
塩焼王(しおやきのおう)ら、反乱の中心人物は捕らえられて処刑されたのであった。
権勢並ぶもの無かった恵美押勝こと藤原仲麻呂は、こうして歴史から消えていったのである。




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