平安建都

光仁天皇の後を継いで781年に即位した桓武天皇は
乱れていた社会体制の刷新を目指し政治改革に取り組もうとした。
藤原一族の藤原種継(ふじわらのたねつぐ)
皇弟で皇太子の早良親王(さわらしんのう)など、信頼する配下を得て
桓武天皇の治世はスタートしたのだが…。


遷都の必要性 〜 急務とされた政治改革
桓武天皇が即位した時期、公地公民制は限界を迎えつつあった。
743年に墾田永年私財法が施行され土地の私有が認められたため、
公地制度は十分に機能しなくなっており、
しかも地方支配を任ぜられた国司・郡司は朝廷の官吏であるにもかかわらず
任せられた国を半ば私財化し、民を虐げ、私腹を肥やしていた。
このような状況では公地が荒れ、貧しい農民は生活が成り立たず
土地を捨てて豊かな地へ移住する事が絶えない有様だったのである。
また、この当時の朝廷は東北地方を従属させておらず
蝦夷(えみし、えぞとも)と呼ばれた東北地方の民と抗争を繰り広げていたが
公地公民制が崩れ、民衆の掌握や税収が不安定な状態では
兵士を調達する事もままならず、蝦夷の乱を平定するのは不可能であった。
無駄な役所・役人を整理統合し、民の負担を軽減し、
蝦夷を服従させる事が早急な課題とされていた桓武天皇は
政治改革の第一歩として乱れた朝廷の立て直しを図るために
新たな都への遷都を計画したのである。

長岡京 〜 怨霊の都
遷都候補地とされたのが山背国(やましろのくに、現在の京都府南部)長岡の地。
長岡は桓武天皇の母や遷都を進言した藤原種継が生まれた場所であり
内陸部にある平城京よりも交通の便に優れていた。
淀川に面したこの地は水運で難波津へと容易に移動できる上
主要な街道を整備するにも好都合であったのだ。
地方との連絡が簡便ならば、政治もやりやすく
何よりも蝦夷への出兵も都合良く行えると考えたのである。
784年、長岡京の造営開始。工事責任者は他ならぬ種継が任命され
工事中ながらその年に遷都が行われた。
しかし翌785年、何者かに種継が暗殺される事件が発生。
信頼する配下を失った天皇は激怒し首謀者を徹底的に究明、
大伴氏や佐伯氏の一族が下手人として捕らえられた。
計画を立てたのは1ヶ月前に死去していた大伴家持とされ
首謀者の大伴継人(おおとものつぐひと)らが処刑された。
継人は大伴古麻呂の子。古麻呂も橘奈良麻呂の変で処刑されており
古麻呂・継人親子は2代に渡って政変を引き起こした事になる。
この事件は藤原氏排斥を狙ったものであるが、何と捜査線上には早良親王の名も浮上。
一味とみなされた親王は乙訓(おとくに)寺に幽閉された後、
淡路への流罪が決定。配流される途中に没した。
天皇の政治改革は早くもつまづいた上、造宮使である種継を失い建都工事は遅滞。
さらには天皇の身内が次々と亡くなり、都の周辺には伝染病が蔓延する。
無実であったかもしれない早良親王を刑死させた事が
怨霊となって長岡京を呪っていると天皇は考えるようになっていた。

平安京 〜 千年の都
早良親王の霊を弔うため淡路に陵墓を整えた天皇であったが、不安は解消されなかった。
何としても怨霊から逃れたい天皇は、和気清麻呂の献策を要れ
長岡京を棄てる決心をし、新たな都を山背国葛野(かどの)郡に定めた。
793年、建都工事開始。現在の京都市となる平安京の誕生である。
翌794年、工事中の平安京に遷都。
この年から1192年の鎌倉幕府成立まで約400年を平安時代と呼ぶ。
福原京遷都や南北朝による混乱はあったものの、1869年の東京遷都まで
実に千年以上も日本の首都であり続けた都が平安京である。
平安京は船岡山の南麓に大内裏を置き、
そこから南へと朱雀大路(すざくおおじ)を設定。
朱雀大路とは都の中心となる大通りの事で、
現在の千本丸田町交差点〜鳥羽高校付近を結ぶ線
すなわちJR山陰本線丹波口駅〜二条駅間の線路がその名残である。
朱雀大路の東側が左京、西側が右京になる。
永遠の平安を祈念した都へ移った天皇は、再び政治改革へ前進し始める。
公地公民制を立て直し、国司の不正を正し、兵制を改革し蝦夷を討伐する。
桓武天皇の治世は越えねばならない登り坂の連続であった。
長岡京と平安京
長岡京と平安京
四角:長岡京
四角:平安京
それぞれ中央を縦に走る線が朱雀大路。
朱雀大路の西を右京(うきょう)
東を左京(さきょう)と呼び、
朱雀大路北端の小四角枠内が
大内裏(天皇の居所・中央政庁)である。
現在の京都御所(平安京東北端位置の∴)と
当時の平安京大内裏は別の位置にあるが
数度に渡る災害で仮御所が移転を繰り返した結果である。




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