遣唐使と鑑真和上

聖武天皇は鎮護国家構想で仏教を積極的に利用したが
その実、諸国にあふれた浮浪人は税を免れる目的で出家し
名前ばかりの僧が大量に発生した。
仏教界の乱れを正すためには、戒律を守る誓いを立てる
受戒(じゅかい)が為されるべきであったが
それを行う授戒師が日本にはいなかった。
授戒師に相応しい高僧を唐から招くため
遣唐使が派遣されることになったが、その航海は多難に満ちていた。


遣唐使 〜 唐と日本の橋渡役
聖徳太子が隋と国交を開いて遣随使が往復し
中国の王統が隋から唐へと変わった後もこの使節が遣り取りされた。
これが遣唐使である。遣唐使の主な目的は
政治・学問などの留学生を唐と往来させる事や
国交・交易の手段、それに大陸文化の吸収などであった。
日本はまだまだ中国の先進制度を学ぶ必要があったのだ。
初期の遣唐使は朝鮮半島沿いに進む北路を利用したが
8世紀の初め頃から博多〜奄美諸島〜揚州と渡る南島路や
博多から直接揚州へ進む南路を利用。その航路は広大な東シナ海であり、
迫り来る大波や嵐との遭遇など、航海は危険と隣り合わせの過酷なものであった。
それでも国家の大任を帯びた遣唐使は
第1回・630年の犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)に始まり
20回も計画され往来してきた(中止・廃止あり)。
1
630年
犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)
2
653年
吉士長丹(きしのながに)ら
3
654年
高向玄理(たかむこのくろまろ)
4
659年
坂合部石布(さかいべのいわしき)ら
5
665年
守大石(もりのおおいわ)ら
6
667年
伊吉博徳(いきのはかとこ)
7
669年
河内鯨(かわちのくじら)
8
702年
山上憶良(やまのうえのおくら)
9
717年
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)
10
733年
吉備真備(きびのまきび)ら735年に帰国
11
(746年)
石上乙麻呂(いそのかみのおとまろ)[中止]
12
752年
鑑真(がんじん)ら754年に来日
13
759年
高元度(こうげんど)
14
(761年)
仲石伴(なかのいわとも)[中止]
15
(762年)
中臣鷹主(なかとみのたかぬし)[中止]
16
777年
小野石根(おののいわね)
17
779年
布勢清直(ふせのきよなお)
18
804年
最澄(さいちょう)・空海(くうかい)・橘逸勢(たちばなのはやなり)ら
19
838年
小野篁(おののたかむら)[不服]
20
(894年)
菅原道真(すがわらのみちざね)[廃止]
主な遣唐使・関係者
733年に渡海した遣唐使船には2人の僧侶が乗りこんでいた。
栄叡(ようえい)普照(ふしょう)である。
両名には舎人親王(とねりしんのう)から重要な任務が与えられていた。
曰く、僧侶になれば税を免れる事を悪用し出家する者が絶えず
仏教界は乱れきっている。この混乱を正すには戒律を守る誓いを立てる
受戒の儀式を日本でも執り行う必要があるが、授戒を行える高僧は日本にいないため
授戒師となり得る徳の高い僧を日本へ招かねばならない、との事であった。
大任を受けた栄叡と普照は、荒れ狂う大海を渡り
危険な航海を厭わず日本へ赴いてくれる名僧を探す旅に出たのであった。

鑑真 〜 不屈の情熱
波間の果てに辿り着いた唐で2人は受戒した。
唐の大都市・洛陽(らくよう)の寺で留学生活を送りながら
日本へ来てくれる高僧を探す日々は9年にも及んだが
受戒に必要な10人の僧はなかなか見つからなかった。
742年のある日、唐での世話人である道航(どうこう)の紹介で
鑑真(がんじん)和上に引き合わせてもらった両名は
和上の高弟を日本へ派遣してもらう事を請願した。
しかし、多難な航海を恐れて弟子は渡航をためらうばかり。
それならばと鑑真自らが日本へ渡る事を承諾したのである。
鑑真はこの時55歳、授戒を行える高僧「戒和上(かいわじょう)」として
多くの者に尊敬されていた人物であり、
日本への渡航もひとえに正しい仏法を広める信念から出た決心であった。
唐の法では許可のない海外渡航は禁じられていたため
鑑真一行は密航してでも日本へ渡る事を誓い、密かに船を用意したが
743年、栄叡や普照は海賊と疑われて捕らえられ船は没収されてしまう。
まもなく無実と判った両名は釈放されたものの、第1回目の渡航計画は失敗に終わった。
その年の暮れ、再度の渡航を計画し出港したが
嵐に遭遇し船は大破。第2回目の渡航も失敗である。
猶も壊れた船を修理して船出したのだが
やはり激しい風雨に見舞われて遭難、救助されたものの
中国本土へ連れ戻されてしまった。第3回目の失敗である。
鑑真和上像鑑真和上像(唐招提寺収蔵)
たびたびの失敗で役人の監視が厳しくなったため、
鑑真一行は大陸を南下し福州(現在の福建省福州)からの出港を計画。
ところがその途上の禅林寺(現在の浙江省臨海付近)で役人に捕まってしまう。
鑑真の弟子が危険な航海を止めさせるために密告したためであった。
第4回目の渡航計画もこれで失敗に終わる。
しかしこれだけ不成功が続いても鑑真は渡航の挑戦を諦めない。
しばらくは役人の監視に耐える日々が続き、ようやくほとぼりも冷めてきた
748年、第5回目の渡航に出発したが、揚州を出港した船は嵐に流され
日本とは正反対の海南島へ辿り着いてしまった。またもや失敗である。
海南島には1年ほど滞在、大陸を縦断し揚州へ戻る事になったが
この途上、栄叡は病に倒れ帰らぬ人となってしまった。
旅に疲れた普照も鑑真と別れ明州で静養するのである。
752年、新たに来唐した遣唐使節団に明州で対面した普照は
遣唐大使・藤原清河(ふじわらのきよかわ)
遣唐副使・大伴古麻呂(おおとものこまろ)・吉備真備に
鑑真の出国を唐皇帝に働きかけるよう請願した。これを受けて清河らは
首都長安へ赴いたが、この要望は受け入れられなかった。
やむを得ず再び密航を決意した鑑真、753年10月に出港する帰りの遣唐使船に乗船する。
一方、別の船に乗った普照には鑑真の同行が知らされず、
落胆の帰国となってしまった。4隻の船で出港した帰国船団は無事沖縄へと到着、
ここではじめて普照は鑑真の渡航成功を知ったのである。
再会を喜ぶ2人であったが、すでに鑑真は齢を重ね失明してしまっていた。
国を捨て、命を投げ出し、視力を失っても
不屈の情熱は鑑真を日本へ辿り着かせたのである。
九州・瀬戸内海を抜けた鑑真は754年2月、難波津に入港。
奈良へ歓待され同年4月には聖武上皇・光明皇后・孝謙天皇に戒を授けた。
鑑真の日本における生活は約10年に及び、763年に死去。
この間、多くの人に戒律を授け日本仏教の育成に尽くすと共に
唐招提寺(とうしょうだいじ)の創建、医学・建築・工芸の技術指導にも当たった。
5度の失敗にも諦めなかった鑑真和上の功績は多岐に渡っており
日本の文化発展に大きな影響を与えたのである。
唐招提寺金堂唐招提寺金堂(奈良県奈良市)

阿倍仲麻呂 〜 悲劇の歌人
苦難の末に日本へ辿り着いた鑑真のような例もあれば
唐へ渡ったまま二度と日本へ帰れなかった者もいたのが遣唐使である。
阿倍仲麻呂は、717年に留学生として唐へ渡ったが
当時の唐皇帝・玄宗(げんそう)に気に入られたため
現地の役人に任官され、唐に留め置かれた。
30年以上を経てようやく日本へ帰る事を許され、鑑真と同じ753年の帰国船で沖縄へと到着。
さらに日本本土を目指して船旅を続けたが、
仲麻呂の乗った船だけが他の船とはぐれ遭難してしまい
何と遠くベトナムにまで流されてしまった。
仲麻呂はとりあえず唐に帰り着いたものの、日本への帰国は叶わず770年に現地で没した。
唐滞在の時代に詠んだ歌だけが日本へと伝えられ
仲麻呂の望郷の念を現代にまで響かせている。
天(あま)の原 ふりさけ見れば 春日(かすが)なる
 三笠の山に いでし月かも    阿倍仲麻呂

[意味] 天空を眺めれば月が上がってくる。あの月も、かつて日本で見た
  春日の三笠山(平城京の東にある山)から登る月と同じなのであろうか…。



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