大仏建立

度重なる心労から聖武天皇は行幸を繰り返し
政治の混乱はさらに続くばかりであった。
民心の安寧と国家の安泰を望む天皇は
仏教の力にすがってそれを為そうとした。
奈良のシンボルとも言える東大寺・盧舎那大仏の建立事業。


鎮護国家構想 〜 成り行き任せの遷都
大宰府で藤原広嗣の乱が起きている最中の740年、
聖武天皇は突如行幸(ぎょうこう)へと出かけた。
行幸とは、天皇が旅行などで内裏を離れて出かける事である。
絶え間ない天災や政争に悩まされ、平城京での暮らしに厭きていたのかもしれない。
この行幸には光明皇后や橘諸兄、藤原仲麻呂らも同行。
奈良を出て伊勢(現在の三重県)から美濃(岐阜県南部)、近江(滋賀県)を経た一行は
2ヶ月をかけて最後の滞在地である山背(やましろ、京都府)へ辿り着いた。
(「山背」…後の時代では「山城」と表記される)
しかし天皇はもう平城京へ帰らないと宣言、ここが新都になってしまった。
741年、恭仁京(くにきょう)と名付けられた都の造営が開始されたが
翌742年には離宮として近江に紫香楽宮(しがらきのみや)も造営し
役夫として駆り出された農民の負担と政治の混乱はますます深まっていった。
一方で天皇は民心の安寧と国家の安泰を願い鎮護国家(ちんごこっか)構想を打ち出した。
仏教の力で国を護り鎮めようという構想である。
これに基づいて各国に国分寺と国分尼寺が建てられる事となった。
さらに唐に倣って巨大な仏像の建立も計画、
紫香楽宮で大仏造りの工事が開始されたのである。
ところが天皇の遷都は繰り返され、744年に難波宮、さらに紫香楽宮へと移転。
当然、大仏造りは中止になった。
結局745年に平城京へ帰る事となり、大仏も奈良で再び造られる運びとなった。

行基 〜 大いなる慈愛
紫香楽宮における大仏建立が計画された際、
建築技術者として国中公麻呂(くになかのきみまろ)が召し出された。
公麻呂は渡来人の孫で、建築物とも言える巨大な大仏造りに関する知識を持っていた。
しかし、優れた技術者がいたとしても
天災・飢饉や都の造営で疲弊している民を動員するには
人々に信頼される指導者が必要であった。
そこで、公麻呂と共に召し出されたのが行基(ぎょうき)という僧である。
行基は貧しい民の為、平易に仏法を説き
橋の改修や道路工事、河川の堤防を築くといった社会事業を率先して行っていた。
一般の僧が寺に篭ったままであったのに対し
行基は積極的に町へ出て民衆に解りやすく仏教の教えを広めたのである。
困窮に喘ぐ民衆の救い主として絶大な支持を受けていたが
朝廷の役人にはみだりに民衆を集めて煽動する者として処罰された事さえあった。
そうした経緯があったにも関わらず、天皇による大仏造りの招聘を快諾。
仏法のためにあらゆる努力を惜しまない行基の慈愛が全てを受け入れたのである。
公麻呂・行基に率いられた大仏造りの事業は紫香楽宮で開始され
遷都の混乱後に奈良・東大寺で引き続き行われた。
東大寺は各国に作られた国分寺の総本山にあたる大寺で、
大仏を奉るには格好の場所であった。この巨大事業には7年の歳月がかかり、
752年4月9日に開眼供養会(かいげんくようえ)が盛大に行われた。
開眼供養会とは仏像に目を入れて仏の魂を迎える儀式。
これで宇宙全体を照らす神々しい仏・盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)は完成した。
開眼に先立つ749年、陸奥国(現在の東北地方)で砂金が発見されており
それを用いて大仏を黄金に塗る事ができた。砂金発見を機に聖武天皇は退位、
娘の安倍内親王(あべないしんのう)が即位した。孝謙天皇である。
開眼供養会には聖武上皇・光明皇太后・孝謙天皇らが筆を取ったが
そこに行基の姿はなかった。大仏完成前、749年に亡くなっていたのである。
人々の思いを込めた奈良の大仏は仏法の慈悲で日本を照らしたが
現在まで残っているのは台座部分だけである。
仏教の都である奈良は政治の覇権を狙う者に攻撃される事が度々あり
大仏は2度に渡り焼かれ、建て直されたのである。
現代に残る大仏は江戸時代に再建されたもので
世界最大の木造建築物である大仏殿も創建当初の3分の2の大きさでしかない。
現在の東大寺大仏殿現在の東大寺大仏殿(奈良県奈良市)




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