大乱前夜

1464年9月、畠山政長が管領に就任。義就と家督争いを演じた、あの政長である。
一方、将軍義政には嫡子がなく、足利家の家督はどうなるのか全く見えない。
天災や貧困に苦しむ庶民を救済せぬまま、さらに政界は泥沼化していく。


義尋還俗 〜 「口約束」の将軍候補
1464年11月、浄土寺(京都府京都市左京区にあった浄土宗寺院)の僧・義尋(ぎじん)
還俗せよという義政の命令が伝えられた。義尋は義政の弟である。
事の意味を理解しかねる義尋は、兄・義政に面会。義政の口から発せられた言葉は
「嫡子の無い自分の後継者として足利家を相続してもらいたい」というものであった。
「されど、これから義政に男子が産まれた場合はどうなるのか?」という義尋の問いに
義政は「その時は産まれた子をすぐに出家させ、家督は必ず義尋に継がせる」と返答。
それならば是非も無し、と還俗した義尋は足利義視(あしかがよしみ)と改名し
義政の養子となった。義政自らの決定により、足利家の後嗣が選ばれたのである。
ところが、この選定が歴史の歯車を狂わせる第一歩となるのであった。

義尚誕生 〜 将軍家の家督争い勃発
何と、義視の予見した通り1465年11月に義政の子が誕生。生母は勿論、日野富子である。
金銭欲・権力欲の塊といえる富子が、長年待ち望んだ男の子を産んだのである。
当然、義視を押しのけて我が子を将軍後嗣に就けようと動き出した。
日野家の女性に頭の上がらない義政は、対応に苦慮する。
義視と交わした「我が子は出家させる」などという約束は富子が許さないからだ。
遅れてきた義政の男子・義尚(よしひさ)の誕生は、将軍家を揺さぶる事態を招いた。
ここに、義政の選んだ義視vs富子の産んだ義尚という家督争いが勃発する―――。

勝元vs宗全 〜 幕府二大巨頭の対立
義視の後見人となっていたのが前管領の細川勝元。幕府第一の実力者である。
しかも将軍・義政が決定した後嗣であるから、義視の立場は磐石と見える。
この巨大な岩に穴を開けたい富子は、勝元に対抗できる有力者を味方に付けた。
強大な力を持つ守護大名・山名持豊、出家した今は名を
山名宗全(やまなそうぜん)と変えていたその人である。
勝元を追い抜きたい宗全としても、この話は渡りに船であった。
将軍正室・富子の要請という大義名分を掲げ、正々堂々と勝元に喧嘩を売れるのだから。
こうして、義視vs義尚の将軍家後嗣問題は、細川氏vs山名氏という
有力守護大名の争いへと発展していく。また一歩、歴史の歯車は狂ったのだ。

畠山氏の内紛再び 〜 更なる対立の構図
しかし、受けて立つ勝元は大人であった。将軍家が二派に分かれて争うなど愚かな事。
この対立を解消すべく、義視の後見を辞したのである。
元々義視は義政のお墨付きなのだから、勝元が粘る必要などなくとも将軍後嗣は揺らがない。
宗全が売った喧嘩を、勝元はあっさりとかわしてしまったのだ。
こうなっては立つ瀬が無い宗全、新たな策を打ち出す必要があった。
そこで目を付けたのが畠山義就である。
かつて政長に破れ京を追われた彼の赦免を義政に願い出て、京都への帰参を取り計らった。
こうすると、政長と義就の対立が再び巻き起こる。
現管領の職にある政長を後援するのが勝元であったので、
宗全が義就を助ければ、またもや勝元を勝負の舞台に引きずり出せるようになるのだ。
この目論みは見事に的中し、勝元と宗全の対決が濃厚となった。
義就入京の知らせを受けた政長は、早くも戦の準備を開始する始末。
斯くして畠山氏の内紛は再発し、歴史の歯車はもう一歩狂っていく。

斯波氏の内紛 〜 ここにも対立する一族が
畠山氏に加えて、斯波氏の中でも争いが起きていた。家督の相続を巡って1466年に
斯波義廉(しばよしかど)義敏(よしとし)兄弟が騒動を起こしていたのだ。
当然、この対立にも勝元・宗全が介入する。
義廉には宗全が援助し、義敏には勝元が助力するようになった。
将軍家後嗣問題に端を発した対立は、細川・山名の巨大勢力の対立へ激化し
畠山・斯波両家の家督争いを巻き込む大規模な対立の構図が出来あがった。
これに全国の諸大名が加わり、日本は細川方・山名方の2大勢力に分裂してしまったのだ。
天下大乱への時限爆弾は、カウントダウンを開始した。

細川方・山名方 関係図

細川方・山名方 関係図 ―は親子関係 は養子関係 =は婚姻関係
青字人名は細川勝元方(東軍) 赤字人名は山名宗全方(西軍)

古河公方と堀越公方 〜 関東動乱の序曲
京都の中央政界で大きな対立を起こしていたのと同様に、東国でも大乱の芽が生まれていた。
義政が将軍に就任した1449年、幕府は足利持氏の遺児・成氏(しげうじ)
新たな鎌倉公方に就け東国の統治を預けたが、事は上手く行かなかった。
関東管領の職にあった上杉房顕(うえすぎふさあき)は実質的に鎌倉府の長であり
新公方の成氏と折り合いが悪かったのだ。成氏は成氏で、鎌倉公方家のプライドがあり
父・持氏と同様に「自分にも将軍位継承権がある」と強気の態度を崩さなかった。
(何代経っても、鎌倉公方家は足利宗家に敵対し続けるようだ)
成氏が鎌倉公方に就任して1年足らずの1450年、早くも両者は武力衝突。
上杉氏の領国・越後国の守護代(しゅごだい、守護の代理として国の統治実務を行う者)である
長尾景仲(ながおかげなか)と房顕の軍勢が成氏を攻撃したのである。
成氏も黙っていた訳ではない。1454年、今度は成氏が上杉一門の上杉憲忠(のりただ)
攻め殺してしまった。負けじと房顕は駿河守護今川家の加勢を得て翌1455年、成氏を再攻撃。
大敗を喫した成氏は鎌倉から逃亡。下総国古河へ逃れ、ここを自らの拠点にし御所を構えた。
以後、成氏とその子孫は古河公方(こがくぼう)を名乗り、東関東で生き延びていく。
また、足利宗家には従わない意向を示すべく、
「亨徳(きょうとく)」という古河公方独自の元号を制定し使用するようになる。
一方、成氏を追い出した上杉氏は一族で内部対立を起こす。
宗家と言える山内上杉氏(やまのうちうえすぎし)と、
分家筋にあたる扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし)が反目し合う様相を呈した。
幕府は成氏に代わる新たな鎌倉公方として義政の弟・政知(まさとも)
1457年に関東へ派遣し成氏を討伐しようとするが、
両上杉氏の騒動によって鎌倉へ入る事ができなかった。
止む無く政知は伊豆国堀越へ逗留、ここに御所を置いて関東の様子を覗うようになる。
これを堀越公方(ほりごえ(ほりこしとも)くぼう)と呼ぶ。
古河公方・堀越公方・両上杉家、四つ巴の抗争は関東動乱の序曲を奏で始めた。



前 頁 へ  次 頁 へ


辰巳小天守へ戻る


城 絵 図 へ 戻 る