美術将軍・足利義政

将軍ともあろう者が、守護大名の1人に暗殺される。
いまだかつてない異常事態の発生に、幕府は激震した。
突然の将軍不在に動揺する幕閣は意見が分かれ混迷、
将軍の後継もままならない事態に直面する。


満祐討伐 〜 山名持豊の台頭
力の暴君・義教が突然に死した事で起きた反動は大きく、これを抑えようとする
管領の細川持之(ほそかわもちゆき)はまず次の将軍を決めて
幕府の混乱を収拾しようと考えたが、諸大名の意見は統一できず、
義教を暗殺した満祐の討伐が先決とする者も多かった。
そうこうしている間に、満祐は播磨で兵を集め、京へ攻め上がる勢いを見せる。
もはや猶予のない幕府はようやく満祐討伐の軍を出す事に決定。
1441年7月末の事であり、義教が暗殺されて早くも1ヶ月近く経っていた。
かなり出遅れた対応である。
ともあれ、赤松氏討伐の幕府軍は播磨国へと進入し満祐の軍と交戦に及び
9月に満祐の立て籠る木山(きのやま)城を総攻撃し、赤松一族を敗死させた。
この討伐軍を率いた総大将が山名持豊(やまなもちとよ)
かつて“六分の一衆”と呼ばれながら明徳の乱で力を失った山名家の総帥である。
わずか3ヶ国の領主に落ちていた山名氏の勢力は、満祐討伐の功績により
6ヶ国へと倍増、さらに8ヶ国の守護へと増加し、以前の名門ぶりを彷彿とさせた。
これ以後、幕府の中で持豊の発言力が急激に強くなっていく。
なお、満祐討伐の最中に京周辺で大規模な徳政一揆(徳政令を求める一揆)が発生。
「代始めの徳政」と称したこの一揆は政治の混乱に拍車をかけ、
やむを得ず幕府は徳政令を発布している。この一揆を嘉吉の徳政一揆と呼ぶ。

将軍の代替わり 〜 誰が就いても同じ事?
ようやく満祐討伐が終わったものの、幕府は不安定なままであった。
1年以上の将軍空位が続いた後、1442年11月17日にようやく7代将軍が決定。
亡き義教の長男・義勝(よしかつ)が9歳の幼齢で就任したのである。
ところが翌1443年7月21日、就任半年ほどしか経たないうちに義勝が病死。
将軍後継問題は振り出しに戻った。
次の将軍候補とされたのが義教の次男、義成(よしなり)である。
しかし、この時義成は8歳。義勝は9歳で将軍職を継ぎ、今度は8歳の子供が将軍候補。
当然、そんな幼子に政治が分かるはずもなく、実務は守護大名達が行うのであるから
早い話、誰が将軍になっても構わないという具合であった。
苛烈な圧政を行った(しかもくじ引きで選任された)義教はあっけなく守護大名に殺害され
その後を継ぐのは形ばかりの幼少将軍。足利将軍家の権威は目に見えて衰えていく。
1447年には幕府のお膝元とも言える山城国(現在の京都府中心部)西岡で
徳政一揆が起こる始末であった。

8代将軍・足利義政 〜 将軍の憂鬱
1449年4月29日、名を義政(よしまさ)と改めた義成が正式に将軍の位に就いた。
この時義政は14歳。ようやく社会の動きが解り始める年齢である。
幼い頃から義政は和歌・蹴鞠などの芸能に才能があり、公家衆らの評判は良く
“朝廷の応援がある”という自負と、正式に将軍位を継承した気合いで
熱心に政務を行おうとしたのであろう。しかし、若き義政の熱意は多くの壁に阻まれる。
代々足利将軍家の正妻を輩出してきた日野家出身で義政の母・日野重子(ひのしげこ)
日野氏の縁者であり公家の烏丸資任(からすますけとう)
義政の乳母・今参局(いままいりのつぼね)、将軍近侍の有馬持家(ありまもちいえ)
義政の養育係で政所執事の伊勢貞親(いせさだちか)
細川一門の当主で1452年に管領となった細川勝元(ほそかわかつもと)
それに強力な発言権を持つ守護大名・山名持豊。これら将軍側近のメンバーは
事あるごとに義政の行いに介入し、互いに主導権争いを繰り広げる始末。
特に日野重子と今参局の仲は険悪で、義政の実母と養母としての立場を一歩も譲らなかった。
いつの世でも、女性の戦いは壮絶なものである…。
このような事情から遅々として進まぬ政治に加え、1454年には三管領の一つである
畠山氏で内紛が起きた。従兄弟同士の間柄、そして義兄弟である
畠山政長(はたけやままさなが)義就(よしなり)が家督を奪い合う事態となり
その結果、政長が家督を相続し、争いに敗れた義就は京を追放された。
しかし、畠山家の内訌は後に起こる大乱の導火線に過ぎなかったのである。

義政の治世 〜 思うように進まぬ政治
将軍側近の派閥争い、幕府重鎮・畠山家の内部抗争、そして何よりも将軍権威の衰え…。
1452年には若狭国(福井県西部の若狭湾沿岸地域)、1454年は山城国で徳政一揆が勃発。
何をしようにも上手く事が進まない義政の治世を皮肉るように
1455年、京の街中に落書が掲示された。
曰く、「三魔が政治を動かしている。三魔とは、御今・有馬・烏丸の三人也…。」
「ま(魔)」の付く3人、御今(今参局の事)・有馬持家・烏丸資任が政治を動かし
勝手な事をしている。この3人を政界から追放すべし、という内容である。
幕政の混乱を予想するかのようなこの落書、作者はもちろん不明である。
同年8月、義政は日野家の縁者・日野富子(ひのとみこ)を妻に迎えた。
重子と同族の富子が嫁いだ事で日野家の発言力は強くなり、今参局は不利な立場になっていく。
一方この頃、義政は自宅の増築に力を入れていた。立派な御殿を造営する事で
将軍の権威を向上させようとしたのである。1458年11月、ようやくこの屋敷は完成。
ところが義政は出来映えに満足せず、解体して室町御所へ移築するよう命じた。
義政は思うように行かない政治よりも、御所や庭園の造営に心血を注ぐようになっていく。
しかし、こうした工事は当然ながら費用がかかるばかりであり、
幕府の苦しい台所事情をますます悪化させていき、
五山寺院などからの借入金が増えていくようになるのであった。

日野富子の欲望 〜 今参局粛清と七口の関
明けた1459年正月、富子が男の子を産んだ。義政にとって初めての男子である。
ところがこの子は数日で亡くなってしまった。悲嘆に暮れる義政・富子夫婦。
こうした中、不穏な噂が囁かれるようになった。富子の不幸を望む今参局が
山伏を集めて赤子を呪い殺したというのである。尋常ならぬこの噂によって
今参局は島流しに処せられた。しかも、琵琶湖に浮かぶ沖島へ流される事になった今参局は
その途中、無理矢理に自害させられたのであった。殺害を命じたのは富子とも言われる。
「赤ん坊を呪い殺そうとした」「島流しの上に殺害する」
真偽の程は定かではないが、いずれにせよ恐ろしい人間関係を表していよう。
さて、その年の政治情勢であるが、京都に通じる総ての街道で関所が設置された。
京に出入りする者全てから通行税を徴収し、幕府財源を補填しようとしたのである。
こうした関所は9ヶ所あったが、このうち7ヶ所が「七口の関(しちこうのせき)」と呼ばれた。
(9ヶ所のうちどれが「七口」に当たるかは定かでない)
設置された関所の収益は主に室町御所や伊勢神宮の造営費に当てられたが
いくつかの関所はまるまる日野富子個人の収入となっていた。
また、七口の関の設置は朝廷・公家の権益を奪い取って為されており
幕府財政の逼迫度合い、特に富子の金銭欲は只ならぬものであった。
公家や諸大名も独自に関所を設けるようになっており、
幕府のなりふり構わぬ関所設置は民衆に大きな負担を与えていく。

義政、ますます美術に傾倒 〜 贅沢将軍と貧困民衆
1459年11月、義政は新築成った室町御所へ転居した。豪華な御所へ移った義政は
その御殿を飾る美術品の入手に情熱を注ぐようになって行く。
一方、この年以降毎年のように各地で飢饉や疫病が続出、
京の都は飢えや病に薨れた民衆の死体で埋め尽くされ、
さながら地獄絵図のような有様であった。
それでも将軍・義政は何ら政務を執らず美術に傾倒。
業を煮やした後花園天皇は、贅沢を慎み
庶民を救済すべきとする意味の漢詩を送るが、この手紙を受け取っても全く動じない。
それどころか、今度は母・重子の邸宅を改築しようと
建築・造園・美術へとますます夢中になって行く。
もはや政治に興味を無くした義政と金儲け一筋の富子夫婦は
幕府の政権基盤や財政事情にお構いなしの贅沢生活を続け
庶民の苦しみなど全く理解しようともしていなかった。
さらには将軍後嗣となるべき男子もおらず、幕府の運営は先の見えないものになっていた。



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