嘉吉の乱

義満とは異なる政治を目指した義持の治世であったが、
その思いは空回りし、義量への政権継承も失敗し
幕府はいつしか諸大名の力で左右されるようになって行く。
こうした状況の中、新将軍に就任した義教の行動は如何に。


正長の土一揆 〜 就任早々の一揆勃発
将軍位を求める鎌倉の持氏が1428年に京都襲撃を企て、波乱の中で還俗した義教。
が、政権を揺るがす事件はこれだけに終わらなかった。同年の秋〜冬にかけ、
近畿一帯に大規模な土一揆(どいっき、つちいっきとも)が発生したのだ。
土一揆とは、百姓や馬借(ばしゃく、馬で荷を運ぶ運送業)らの貧困民衆が
時に地侍(じざむらい、主君を持たない在地の武士)らと手を結び
徳政を要求するために蜂起した民衆運動の事である。
この年の土一揆は特に大規模で、近江(現在の滋賀県)から始まった暴動が広がり
京都・奈良を中心とした畿内全域で多くの民衆が反乱を起こし、
宗教的権威をかさに着て私腹を肥やし金銭を貯め込んだ寺社や、
暴利をむさぼる酒屋・土倉などを襲撃しまくった。
今までの日本史は施政者(支配者)側の動きが社会事件として現されるものであったが、
こうした土一揆の発生は、庶民の行動が歴史的事件として登場する初めての事象であり
民衆運動の萌芽や大衆の生活レベルを体現するものとして注目に値すべきである。
一揆の勢いはとどまる所を知らず、幕府の軍勢も対応に苦慮する始末。
結局、奈良周辺では徳政が発せられ、徳政令が出なかった京都においても
一揆衆は独自に私徳政(しとくせい)を行い、ようやく年末に一揆は沈静化した。
私徳政とは、土倉などに押し入り借金の証文を勝手に処分してしまう事で、
借用証がなければ借金は帳消し、つまり徳政と同じ状態になる訳である。
この土一揆を正長(しょうちょう)の土一揆という。
翌1429年には播磨国でも土一揆が発生(播磨の土一揆)してしまった。
就任早々に巨大一揆という打撃を受けた義教は、将軍権威を強化する必要に迫られ
高圧的・独裁的な政治を行うようになっていく。

明との国交回復 〜 勘合貿易の復活
鎌倉公方・持氏は義教を「還俗将軍」と馬鹿にし将軍の意向に従わず、
各地の諸大名は着実に力をつけて幕政を脅かし、民衆は土一揆で自力救済を図る。
これでは幕府の政権基盤が揺らぐばかりである。規律強化を目指す義教は
経済力の向上を最優先の政治課題と睨み、明との国交回復を行うに至った。
幕府の重要な財源であった抽分銭を復活させると共に、国交途絶以来
再び横行するようになった倭寇を取り締まり、治安維持を図る目的である。
こうして1432年、復交を求める幕府の使節が明に派遣され、その2年後
1434年から勘合貿易が再開されるようになった。
また、義教はこの頃、新将軍の権威を広く知らしめようと全国視察も行った。
父・義満と同じように、貿易や諸国巡行で将軍権力を強めようとしたのだった。
1432年8月、遣明船の巡察を兼ねて兵庫港(現在の神戸港)へ下向、
返す刀で同年9月、駿河国(静岡県)三保松原へ赴き富士の遊覧を楽しんだ。
しかし、駿河へ向かった本当の目的は別にあった。
東国を治める鎌倉公方・持氏の動向を探ろうとしたのである。
関東と目と鼻の先にある三保まで将軍が来たのだから、
持氏から挨拶があって然るべきである。
ところが、持氏本人はおろか家来の誰一人として駿河に現れない。
これは明らかに義教を無視し、断交を宣言する行為であった。
京の義教と鎌倉の持氏、その確執は決定的なものになったのである。

永亨の乱 〜 持氏討伐
義教に反抗し、将軍の座を狙い続ける持氏とその家臣団の中にあって、
関東管領の上杉憲実(うえすぎのりざね)だけは足利宗家との関係を重んじていた。
学識に優れ、伝統・慣習に通暁し礼節を重んじる憲実は、
独立と反乱ばかり企む持氏に対し諫言を重ね
将軍家と鎌倉公方の関係を修復しようと努力していたのである。
しかし、義教への敵対心だけを募らせる持氏には「馬の耳に念仏」であり
憲実のこうした努力は水泡に帰すのみであった。
持氏の嫡子・賢王丸(けんおうまる)が元服(成人の儀)する際にも、
本来は将軍に使者を立てて儀式を執り行うのが伝統であったのに
持氏は「還俗将軍など無用である」と独断でこれを行い、
「京の将軍から加冠の儀を受けるべき」とする憲実の意見を退ける。
何を言っても聞く耳を持たぬ持氏に嫌気が差し、1438年6月に鎌倉を退去した憲実は
領国の上野国(こうずけのくに、現在の群馬県)へ戻り隠棲してしまう。
この話を聞きつけた義教が放っておくはずがない。
鎌倉府唯一の理性派である憲実不在の今こそ持氏を征伐する好機として出兵を決断、
持氏に愛想が尽き果てた憲実も意を決し、義教と共に鎌倉を攻める兵を挙げた。
こうして1439年2月、京からの幕府軍と上野からの憲実軍は連合して鎌倉を攻撃、
進退極まった持氏と義久(よしひさ、元服した賢王丸は共に自害した。
この戦いを永亨の乱(えいきょうのらん)と呼び、
関東は義教の支配下に置かれるようになった。
ちなみに、知識人の憲実は日本初の総合大学である足利学校を復興した人物としても名高い。
足利学校 學校門
足利学校 學校門(栃木県足利市)

「坂東の大学」と言われる日本初の総合大学、
足利学校の創建は諸説あり定かではないが
有識者として高名な憲実が
1439年に多数の書籍を寄進し、
施設・設備や制度を整えた事は間違いなく
「足利学校中興の人物」と言われる。
憲実の蔵書は現存し、国宝に指定されている。

結城合戦 〜 春王丸・安王丸の悲劇
幕府軍の手を逃れ、持氏の子・春王丸(はるおうまる)安王丸(やすおうまる)
鎌倉を脱出、下総国(現在の千葉県北部と茨城県の一部)へ落ち延びていた。
下総に領地を持つ結城氏朝(ゆうきうじとも)にかくまわれた2人は
父・持氏の無念を晴らすべく、佐竹氏・宇都宮氏ら関東の諸将を味方につけ再起を図った。
斯くして1440年3月、春王丸・安王丸を推し立てる結城氏朝らの軍勢と
これを追討する幕府軍との間に戦いが始まった。この戦いを結城合戦と言う。
本拠地・結城城に立て籠る結城軍は激しい抵抗活動を続け、合戦は1年以上に渡ったが
2万もの大軍で攻城する幕府軍によって1441年4月、遂に落城となった。
春王丸・安王丸兄弟は捕えられ、京へ護送される事になったが、
義教の命令は苛烈極まるもので、幼い2人を輿に乗せる事なく
関東から京まで歩かせるという厳しい処分であった。
しかもその途上、「もはや京へ連行する必要はない」として惨殺。
いくら謀叛人とはいえ、年端も行かない子供に対する行為とは思えぬ残酷さである。
持氏を憎み、将軍の力を強める事に執心する義教は、
狂気にも近い姿勢で万事に対処するようになっていた。

★この時代の城郭 ――― 結城城
結城合戦の主戦場となった結城城は、茨城県結城市にある平山城である。
結城氏は鎌倉時代からの名族で、代々この地に勢力を築いており
結城城も長い年月をかけて整備拡張が行われてきた。
周辺よりもわずかに隆起した台地の上に築かれた城は1年もの攻撃に耐えた堅城だが
この時代の城郭は、南北朝時代の城郭とどのように異なるのであろうか。
楠木正成が立て籠もった千早城や赤坂城は、険しい山の上に造られた城で
建造物による防衛よりも険峻な山岳地形を天然の防御施設として利用し
攻め上がる敵兵を谷底へ叩き落す、という戦術で戦っていた。
一方、台地上とは言えほぼ平坦な土地にある結城城では
敵兵を崖下に突き落とすような戦術は使えない。当然、塀や堀のような
人工的障害物を設置して敵の侵入を阻止し、弓矢などで戦う様式となるが
これは城郭としての構築物・建造物を多数備えていた事の証であり
築城技術が南北朝期よりも向上していた、という意味でもある。
そもそも、正成がゲリラ戦術として山奥の城に籠って戦い、
戦況に応じて各地を転戦、場合によっては用済みの城を自焼していたのに対し
結城合戦は1ヶ所に留まり1年も戦っていたのだから、
城としての性格も全く違うと言えよう。正成の山城は短期間、戦術的に使用し
それが故に大規模な工事を行うような城郭ではない、簡易な砦のようなものだったが
結城城は在地武将の本拠となる城館で、継戦を意図した大掛かりな建築物を構成し
籠城の為に武器や食料を貯蔵する設備まで有していた戦略的城郭である。
室町時代の城郭がすべて結城城のような構造だったという訳ではないが、
戦法の変化、築城技術の変化、政治的情勢の変化に連れて
城郭形態も南北朝→室町期への変貌を遂げていき、
やがて戦国時代への城郭へと進化していくのである。

強権で固めようとする義教の姿勢はエスカレートしていき、
反抗的な者や罪人に対して容赦なく弾圧を加えた。
それが将軍権力の維持に繋がると考えたのであろう。あまりに厳しい処遇に抗議し、
比叡山延暦寺の僧達は根本中堂(延暦寺中枢の寺堂)に火をかけ焼身自殺を図り、
その直後に延暦寺炎上の噂をした庶民を捕えて殺害する有様。
気に入らない守護大名を殺し領地を召し上げ、朝廷に対しても高圧的態度で接した。
恐怖政治で全てを従わせようとする義教であったが、
それは逆に周囲の反発を招き、孤立するだけになる事に気付いていなかった。

嘉吉の乱 〜 将軍義教、暗殺さる!
義教によって有力大名が次々と殺される中、危機感を募らせる人物がいた。
播磨国(兵庫県南部)の守護大名、赤松満祐(あかまつみつすけ)である。
彼は義持の時代、1427年に強大な勢力を危険視され幕府の追討を受けた事があり
今また義教の標的にされようとしていたのだ。義持の時は降伏する事で許されたが
強暴な義教に攻められては必ず討ち殺されるのが目に見えていた。
黙って殺されるくらいならば、いっその事…。
重大な決心をした満祐は、結城合戦の勝利を祝う宴と称して義教を自宅に招き寄せた。
傲慢不遜になっていた義教は、恐れを抱いた満祐が降参するものと思い込んだに違いない。
疑いもなく赤松邸へ赴いた義教であったが、満祐の姿はどこにも無かった。
それでも能や酒宴に興じる義教。明らかに油断である。
その刹那、満祐の命を受けていた嫡子・赤松教康(あかまつのりやす)が指示し
義教に満祐配下の兵士たちが斬りかかった。将軍一行は斬殺。
強権を誇った6代将軍・義教のあっけない最期であった。これを嘉吉の乱(かきつのらん)と言う。
将軍を殺した以上、もはや京に用は無い満祐・教康親子は屋敷に火を掛け逃亡、
領国の播磨へ戻ってしまった。これは幕府の大失態であり、
将軍権威が地に墜ちた事を意味する。時に1441年6月24日の政変であった。



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