★この時代の城郭 ――― 結城城
結城合戦の主戦場となった結城城は、茨城県結城市にある平山城である。
結城氏は鎌倉時代からの名族で、代々この地に勢力を築いており
結城城も長い年月をかけて整備拡張が行われてきた。
周辺よりもわずかに隆起した台地の上に築かれた城は1年もの攻撃に耐えた堅城だが
この時代の城郭は、南北朝時代の城郭とどのように異なるのであろうか。
楠木正成が立て籠もった千早城や赤坂城は、険しい山の上に造られた城で
建造物による防衛よりも険峻な山岳地形を天然の防御施設として利用し
攻め上がる敵兵を谷底へ叩き落す、という戦術で戦っていた。
一方、台地上とは言えほぼ平坦な土地にある結城城では
敵兵を崖下に突き落とすような戦術は使えない。当然、塀や堀のような
人工的障害物を設置して敵の侵入を阻止し、弓矢などで戦う様式となるが
これは城郭としての構築物・建造物を多数備えていた事の証であり
築城技術が南北朝期よりも向上していた、という意味でもある。
そもそも、正成がゲリラ戦術として山奥の城に籠って戦い、
戦況に応じて各地を転戦、場合によっては用済みの城を自焼していたのに対し
結城合戦は1ヶ所に留まり1年も戦っていたのだから、
城としての性格も全く違うと言えよう。正成の山城は短期間、戦術的に使用し
それが故に大規模な工事を行うような城郭ではない、簡易な砦のようなものだったが
結城城は在地武将の本拠となる城館で、継戦を意図した大掛かりな建築物を構成し
籠城の為に武器や食料を貯蔵する設備まで有していた戦略的城郭である。
室町時代の城郭がすべて結城城のような構造だったという訳ではないが、
戦法の変化、築城技術の変化、政治的情勢の変化に連れて
城郭形態も南北朝→室町期への変貌を遂げていき、
やがて戦国時代への城郭へと進化していくのである。
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