4代将軍・義持の時代

権勢を誇った義満の時代は、彼の死によって突然の幕引きを迎えた。
強大な権力者の死によって、天下が鳴動し始めるのは歴史の常。
それを理解していた義持は、父を越える執政を試みるが
果たして結果は吉と出るか、凶と出るか。


義持の政治開始 〜 先代の総てを否定
武家・公家・寺社などあらゆる世界に君臨した義満の死、その義満が寵愛した
義嗣の動向など、多難な状況の中で政権を担当する事になった足利4代将軍、義持。
政界の動揺を抑えるため、管領を退いていた斯波義将を召喚し
幕府の基礎が揺らがぬよう手を打つ事から始まった彼の政治は
父・義満を越えるべく、独自の政治色を打ち出そうとするものであった。
亡き義満に対し、朝廷から法皇の位を贈るとされたが、義持はこれを辞退。
(皇族でない義満に法皇の位を与える事は本来あり得ない事だった)
さらには1411年、明からの使者王進(おうしん)の入京を拒否し
日明貿易を取り止めてしまった。この貿易は朝貢の形態であったため、
「日本は明の家来ではない」とする毅然とした態度で国交断絶を決定したのである。
義満に遠ざけられた義将の登用、義満に対する法皇の尊称を拒絶、
義満の始めた日明貿易の中止など、義持の政治姿勢は先代・義満の総てを否定し
義持なりの方法で幕府の変革を目指したのである。

上杉禅秀の乱 〜 鎌倉の動揺と義嗣の処刑
義満の没した翌年、1409年に足利満兼の子・持氏(もちうじ)が鎌倉公方に就いたが
彼は1415年頃から関東管領・上杉氏憲(うえすぎうじのり)と不和になっていた。
関東管領の職を解かれ出家させられ、名を禅秀(ぜんしゅう)と改めた氏憲は、
持氏打倒を決意し陰謀を企てる。持氏の伯父にあたる足利満隆(みつたか)を担ぎ出し
鎌倉公方の挿げ替えを狙い、関東の武士団を味方に付けて1416年の秋に反乱を起こした。
禅秀・満隆の軍は持氏を追放し鎌倉を占拠、京の幕府では決断を迫られる。
新しい鎌倉公方を認めるか、反乱は討伐するか。難しい局面ではあったが、
禅秀に通じて義嗣も将軍職を狙う計画であるとの情報を得た義持は決断し
鎌倉奪還と義嗣の捕縛を指示した。こうして1417年1月、義持の命を受けて
駿河守護・今川範政(いまがわのりまさ)の軍勢と
越後守護・上杉房方(うえすぎふさかた)の軍勢が鎌倉へ進撃、
禅秀・満隆の両者を敗死させた。この戦いを上杉禅秀の乱という。
これにより持氏は鎌倉公方に復職し、関東管領に上杉憲基(のりもと)が就任した。

室町幕府将軍家と鎌倉公方・古河公方

室町幕府将軍家と鎌倉公方・古河公方 (赤字は女性) ―は親子関係
数字は将軍継承順  数字は鎌倉公方継承順 数字は古河公方継承順
一方、捕えられた義嗣は相国寺林光院(しょうこくじりんこういん)に幽閉されていたが
1418年1月、義持の命令によって建物に火が掛けられた。義嗣を処刑するにあたり、
寺堂ごと焼き殺したのである。それほどまでに義嗣が憎かったのであろう。
さらに1421年、義持は北山山荘の諸建築物を取り壊した。
自分を疎み続けた父・義満と弟・義嗣に所縁の建物など消し去りたかったのだ。
義持の政治とは、義満の為した事をひたすらに抹消するための行いであった。

5代将軍・義量 〜 将軍不在の空白
1419年、朝鮮兵が対馬へ来襲し攻撃をかける事件が勃発。
これを応永の外寇(おうえいのがいこう)と呼び、九州探題らの軍勢により撃退したが
義持の政治に暗雲をもたらすかのような雰囲気を漂わせた。さらに1421年頃、
全国各地は旱魃(かんばつ)や飢饉が広がり、農民が大量に浮浪化していた。
難民と化した浮浪人は飢餓を逃れるため京へ流入したが、都へ来たところで
食料がある訳でもなかった。難民で溢れる京都へ追い討ちをかけるように、
疫病が発生し多数の死者を出すに至り、都は死体で埋め尽くされてしまった。
こうした状況の中、義持は次第に政治への意欲を失い
1423年3月、将軍の職を嫡子・義量(よしかず)に譲る。
同年には鎌倉公方の持氏が幕府に叛旗を翻し、討伐の兵を向ける事件が起きたものの
この争乱は持氏の謝罪という形で決着をみた。関東の混乱を平定して安心したのか、
翌1424年5月に等持院(とうじいん、足利家の菩提寺)で出家した義持。
しかし、義量は生来病弱な身体の上に才覚乏しく、とても将軍の政務が務まるものではなかった。
技量に欠ける義量は名目だけの将軍として蔑まれ、政治は諸大名が合議して運営するようになり
結局実権は出家したはずの義持が握るようになっていく。
父と重臣が勝手に政治を動かすようになり、将軍であるはずの義量は酒色に耽る日々を重ね
とうとう1425年2月、わずか19歳の若さで病死してしまった。
息子の死に落胆した義持は、次の将軍を決める気にもなれず
当分の間は自分が将軍代行を務めるとした。が、将軍空位の異常事態は混乱を招き
鎌倉公方の持氏が将軍職の継承を狙うようになる始末。
(鎌倉公方家はどうあっても宗家に取って代わる事ばかり考えているらしい)
そうしている間に、1428年1月には肝心の義持が病に罹り重体となってしまった。

6代将軍・義教の就任 〜 くじ引きで選ばれた“還俗将軍”
余命いくばくもない義持であったが、未だ次の将軍を決められずにいた。
義量のように、諸大名を従わせられない将軍であっては幕政が成り立たないからだ。
いっそそれならば、幕臣の合議で次の将軍を決めよと遺言した義持は1月18日に死去する。
享年43歳。義満の政治をひたすら否定し、自分なりの色で幕府を塗り替えようとした20年だったが
嫡子・義量に先立たれ、思うような成果を挙げられぬままの不運な最期であった。
さて将軍選びであるが、義持側近の僧・満済(まんさい)や、有力大名の
山名時熙(やまなときひろ)、管領の畠山満家(はたけやまみついえ)らが相談した結果、
次期将軍が義持の弟4人の中からくじ引きで選ばれた。候補者とされたのはいずれも僧籍の
義円(ぎえん)義昭(ぎしょう)永隆(えいりゅう)義承(ぎしょう)
くじ引きの結果、青蓮院(しょうれんいん、京都府京都市東山区の天台宗寺院)の義円が当選。
天下の将軍をくじで選ぶとは何とも不謹慎な珍事であり、京の町衆は驚愕し
鎌倉の持氏は自分こそ次期将軍であるといきり立ったが、そうした騒ぎを他所に、
義円は還俗(げんぞく、僧籍から俗人に戻る事)し名を義宣(よしのぶ)と改めた。
さらに義教(よしのり)と改名し、1429年3月15日に即位。
強権の6代将軍・足利義教の誕生である。



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