北山文化

政治・経済において強大な権力を手にした足利義満。
歴史上数多い権力者の例に同じく、彼もまた芸術を好み、これを保護した。
豪華極まる義満の生活は、当代一流の文化人としての顔を兼ねていたのだ。


北山文化 〜 武家の新時代を彩る文化
義持の時代を論ずる前に、義満によって花開いた北山(きたやま)文化を解説したい。
文学・絵画・建築・芸能など、あらゆる面で従来の鎌倉・南北朝文化を超えた新文化は
義満の北山山荘に代表されるためこの名称で呼ばれる。伝統的な公家文化を進化させ
武家文化と融合して新たな時代の文化として昇華された北山文化は
権力者として芸術を好む義満の保護によって完成されたと言っても良い。
室町御所や北山山荘の建築物・庭園はもちろんの事、
それらの建物に用いられた障壁画や、そこで催された連歌・猿楽・能などの芸能も
北山文化を代表するものであり、義満の周りには各分野の名人が集められた。
建築
寝殿造・禅宗様
北山山荘(鹿苑寺)
和様
興福寺五重塔
興福寺東金堂
庭園
北山山荘(鹿苑寺)庭園
西芳寺(苔寺)庭園
絵画
寒山図(可翁)
妙心寺退蔵院瓢鮎図(如拙)
<水墨画…如拙・周文・明兆の活躍>
文学
軍記物
義経記(作者不詳)
五山文学
義堂周信・絶海中津・春屋妙葩ら
能楽
花伝書(風姿花伝)(世阿弥元清)
申楽談義(世阿弥元能)
庶民芸能
能・狂言
<大和四座…宝生・観世・金剛・金春>
舞踊
祗園会・幸若舞・盆踊り・念仏踊り・風流踊り
歌謡
連歌・小歌・古浄瑠璃の流行
閑吟集(作者不詳)
茶道
闘茶・茶寄合
庶民説話
御伽草子…一寸法師・ものぐさ太郎・浦島太郎など
北山文化の代表例
公家や武家の文化のみならず、北山文化は庶民文化も特徴の一つである。
中でも、猿楽(さるがく)や田楽(でんがく)といった民衆の歌劇・舞踊を発展させたのが
今日にも伝わる能の演舞で、これを大成させたのが観阿弥(かんあみ)世阿弥(ぜあみ)親子である。
彼等は大和猿楽四座のうち観世座の出身で、義満の保護を受けて高い芸術性を持つ猿楽能を完成。
これが能の起源となったのだ。能は「歌い、囃し、舞う」という三要素を持つ演劇で、
登場人物の性格を表現した能面を用いる歌舞踊である事はご存知の通りである。
能以外で特記すべきは、闘茶(とうちゃ)の始まりであろう。闘茶とは、茶を飲み比べて
その生産地を当てるゲームである。言わば「利き酒」のお茶版みたいなもので、
一般に良く知られる茶道の作法とは全く異なり、大衆の遊びとして茶を飲む方法であった。
また、「一寸法師」や「浦島太郎」といった庶民の御伽噺が成立したのもこの時代。
これらの話は「御伽草子(おとぎぞうし)」としてまとめられている。

五山の制 〜 京都五山と鎌倉五山
鎌倉末期から室町時代にかけて、武士階級に篤く信仰されたのが禅宗、特に臨済宗である。
こうした禅宗寺院を保護し、序列を整備するために用いられたのが五山制度であった。
鎌倉時代の末に中国から取り入れられたこの制度は、その当初鎌倉の寺に適用され
南北朝期には京都と鎌倉の寺を織り交ぜて再編、さらに室町幕府によって度々変更されたが
義満の時代、1386年に京都の五山と鎌倉の五山がそれぞれ各付けされ、決定となった。
五山の下に十刹(じゅっさつ)、その下に官寺諸山寺院が階層化され
その総てを統括する役が僧録(そうろく)であった。初代僧録は春屋妙葩(しゅうんおくみょうは)で、
官寺住持の任免事務や官銭(かんせん)の管理事務などを行った。
官銭とは、住持の辞令に対して受領者が礼金として出す金の事で、
住持の最終任免権を持つ室町幕府がその金を徴収した。
無論、官銭が幕府の重要な財源である事は言うまでもない。
なお、幕府の手厚い保護を受けた五山の諸寺は経済力を充実させていったため
やがては将軍家や守護大名が借金を申し込むようになっていった。
官銭の収納、借金の貸付など、五山は幕府・諸大名の経済に大きく関わるようになっていく。
五山の位
京都五山
鎌倉五山
五山之上
南禅寺
第一
天龍寺
建長寺
第二
相国寺
円覚寺
第三
建仁寺
寿福寺
第四
東福寺
浄智寺
第五
万寿寺
浄妙寺
五山格付
武士の信仰を受け、幕府・大名の経済に深く関わった五山派の僧侶は、
政治の舞台でも登場する事があった。応永の乱において、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)
義満の使者として大内義弘に会見したし、明との外交を行ったのはほとんどが五山派の僧である。
文化の世界でも五山派僧侶は活躍。中国との交流によって先進学問を吸収していた彼等は
水墨画などの絵画、書院造(しょいんづくり)などの建築様式、枯山水に代表される禅宗庭園、
「五山版(ござんばん)」と呼ばれる印刷物、宋学(そうがく)といった学問等を駆使し
北山文化の向上に貢献していた。特に漢詩・漢文の創作は顕著で、夢窓疎石の弟子であった
絶海中津・義堂周信(ぎどうしゅうしん)らの作品は「五山文学」と呼ばれる
ひとつのジャンルを構成するようになっていった。

室町幕府の財源 〜 「弱い幕府」の台所事情
南北朝動乱からなし崩しに成立した「弱い幕府」、室町幕府は
財源基盤においても強固な体制を築いた訳ではなかった。
北朝(幕府)への求心力を維持するため、諸大名に様々な権限を与えていたので
幕府の台所事情は決して裕福なものとは言えなかったのだ。
では、幕府の財源とはいったいどのようなものであったのだろうか。

1.幕府直轄地からの収入
・年貢(ねんぐ)
・公事(くじ)
・夫役(ぶやく)
幕府御料所から納入される年貢米などの収益、勤労従事などの労務。
奉公衆(ほうこうしゅう)が管理した。

2.守護・地頭への役務
・臨時役
・公用銭 など

3.庶民に対する課金
・段銭(たんせん)
天皇即位や将軍宣下の際に課せられた臨時の賦課金。
・棟別銭(むなべつせん)
朝廷・社寺の造営や修復費用を臨時に課す金。
・徳政分一銭(とくせいぶいちせん)
徳政令を発した時、債務者または債権者が納める金銭。

4.商工業者からの納入金
・酒屋役(さかややく)
・土倉役(どそうやく、倉役とも)
酒屋や貸金業者に保護と特権を与えている代償。

5.五山禅寺からの収入
・五山官銭
各寺の住持就任に対する謝礼金。
・五山献上銭 など
五山寺院からの献上金。

6.貿易利潤収入
・抽分銭(明朝頒賜物や明朝頒賜銅銭など)

7.関所・津(つ、港の事)からの収入
・関銭(せきせん)
・津料(つりょう)
関所通行料、港湾入港料金。

注目したい点をいくつか列記しよう。
徳政部一銭とは、民衆が徳政を要求しこれを幕府が認めた際に払われる金だが
これが幕府財源として定義されているという事は、
徳政令自体が「当然ありうるもの」として想定されている事を意味する。
室町幕府の権力が強固でないのがここでも証明されている。
また、徳政が発せられる原因ともなる酒屋・土倉(どそう)などの高利貸業者に対して
保護・特権を与えるというのも、ある意味矛盾した考え方であろう。
徳政の発令を助長しているとも受け取れる。
ちなみに土倉とは、質屋のような業者で、質草として大量に預った品を保管するために
大きな倉を構えていた事からこの名が付けられたもの。当時は酒屋も同様に
酒を売った金を元手に高利貸しを併業していたため、土倉と並ぶ貸金業者であった。
こうした金融業者に特権を与える事の代償として室町幕府は収入を得ていた。
もう一つ、関銭は関所の通行料として徴収する金銭であったが、
ここから解るように当時の関所は「通行料の徴収所」として機能していた。
江戸時代の関所は「大名統制や治安維持の為に置かれた検問所」で、
これが現代人にとっては馴染み深い印象になっているが
室町時代の関所は全く違う意味で設けられていたのである。
幕府の財政が悪化する度に関所は増設され、関料の増収を図っていた。



前 頁 へ  次 頁 へ


辰巳小天守へ戻る


城 絵 図 へ 戻 る