★この時代の城郭 ――― 元寇防塁
元の再来に備え、鎌倉幕府が総力を挙げて博多湾に構築したのが元寇防塁である。
博多湾の海岸線を完全に封鎖するように作られた防塁は総石垣作りの防御壁で
平均の高さ2m〜3m、全長は約20kmにも及ぶ巨大な防塁。
海側に対してはほぼ垂直に近い断面、山側に対してはなだらかな斜面で構成されており、
戦国時代の城郭における土塁・石塁と同様の構造だ。外側から迫り来る敵兵を寄せつけず、
内側の兵士が移動しやすいような作りになっているのである。
また防塁の頂部は平面になっており、この上に兵士が盾を張って立ち
敵兵より高い位置から弓矢を射撃できるようになっていた。
こうした防塁の構想は鎌倉武士の居館を守る堀・土塁の構造と同じであり
これが進化して後世の城郭における石垣構造へと発展していったのだ。
しかし、戦国城郭における石垣では野面積み・切込ハギなどの工法が確立しているのに比べ
元寇防塁の石垣はただ単に石を積み重ねただけという荒々しさで作られており、
土木技術の未成熟な部分は否めない。
ともあれ、こうした防塁を博多湾全域に用意するのは大変な苦労があったであろうから
幕府の防衛準備が並々ならぬ決意によって進められた事が読み取れる。
騎馬戦術を本領とする蒙古の軍にしてみれば、日本の海岸線のように砂地へ上陸する作戦が
最も不得手であっただろうから、水際で侵攻を阻止しようとしたこの防塁は
戦術的に大正解であると言えよう。逆に考えれば、こうした防塁を築かず
文永の役と同様に蒙古軍の上陸を許してしまったならば、得意の騎馬戦術を展開され
日本全土は蹂躙の憂き目を見た事であろう。博多を守る防塁は、日本を守る城郭だったのである。

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博多湾内における元寇防塁 (赤線)
文永の役では元軍の上陸を許したため
博多市街地への侵攻を阻止できなかったが(青矢印)
弘安の役においてはこの防塁があったため
元軍を湾内に留める事ができた(橙矢印)
地図は現在のものを利用しているので
当時の海岸線とは若干異なる
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防塁跡は年月を経て風化し、損なわれてしまった箇所があるが、現在でも
今津長浜、生の松原(いきのまつばら)、百道浜(ももぢばる)には残されている。
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