蒙古襲来(2)

文永の役をしのいだ日本であったが、蒙古の脅威は消えておらず
次なる蒙古の動静を見極めて対応を考慮する必要があった。
一方、日本遠征の前に残る敵を排除すべきと考えたフビライは
1279年に南宋やベトナム諸国を滅ぼした。
後顧の憂いをなくした元帝国は再び日本征服の軍備を開始する。
時宗の戦いは、まだ終わっていない。


北九州防備命令 〜 国書再来
1275年、元の使者として杜世忠(とせいちゅう)らが来日、
再び国書を幕府へ送りつけた。日本を服従させようとするフビライは
文永の役での撤退にも懲りず再度の通交を要求したのである。
これに対して時宗は使者らを龍ノ口で処刑、徹底抗戦の意思を示した。
蒙古と日本の再戦は避けられなくなったのである。
元の再寇に備え、幕府は北九州への防備体制を強化する命令を発した。
九州各地に領地を持つ御家人には軍事動員の準備を命じ、
1276年からは合戦の舞台となる博多湾全域を覆う防塁の構築が行われた。
文永の役では蒙古軍の上陸を許したために苦戦を強いられたので
次の襲来では上陸させずに水際で阻止するための城壁を用意したのである。
また、実行はされなかったが日本側から討って出る事も計画された。
元の支配下に組み込まれ、日本への出撃基地となっている高麗へ渡海し
敵の先手を取ろうとしたのだが、これは実現しなかった。
なお、西国の統括を強めるため1276年に長門探題(ながとたんだい)の職を設置。
この役職は長門・周防両国(現在の山口県)の守護を兼任するもので
中国探題とも呼ばれ、代々北条氏の世襲とされた。
一方、フビライは1279年にも周福(しゅうふく)欒忠(らんちゅう)らを派遣し
日本への服属要求を突きつけたが、時宗はこれも受け付けず両名を処刑した。
フビライにとって、言わば「最後通告」としての使者までが斬られた事により
元の日本再遠征が決定。この年は南宋が滅亡しており、ベトナムも屈服させたため
フビライは後顧の憂いなく日本侵攻の準備に取りかかる事が出来るようになっていたのだ。
このため、元の支配下に置かれた高麗では軍船の建造が、南宋では10万もの
兵の徴発が行われ、次なる戦いへの過酷な労役を課せられたのであった。
日本側・蒙古側の双方が来たるべき対戦に備え活動を進めていく。


★この時代の城郭 ――― 元寇防塁
元の再来に備え、鎌倉幕府が総力を挙げて博多湾に構築したのが元寇防塁である。
博多湾の海岸線を完全に封鎖するように作られた防塁は総石垣作りの防御壁で
平均の高さ2m〜3m、全長は約20kmにも及ぶ巨大な防塁。
海側に対してはほぼ垂直に近い断面、山側に対してはなだらかな斜面で構成されており、
戦国時代の城郭における土塁・石塁と同様の構造だ。外側から迫り来る敵兵を寄せつけず、
内側の兵士が移動しやすいような作りになっているのである。
また防塁の頂部は平面になっており、この上に兵士が盾を張って立ち
敵兵より高い位置から弓矢を射撃できるようになっていた。
こうした防塁の構想は鎌倉武士の居館を守る堀・土塁の構造と同じであり
これが進化して後世の城郭における石垣構造へと発展していったのだ。
しかし、戦国城郭における石垣では野面積み・切込ハギなどの工法が確立しているのに比べ
元寇防塁の石垣はただ単に石を積み重ねただけという荒々しさで作られており、
土木技術の未成熟な部分は否めない。
ともあれ、こうした防塁を博多湾全域に用意するのは大変な苦労があったであろうから
幕府の防衛準備が並々ならぬ決意によって進められた事が読み取れる。
騎馬戦術を本領とする蒙古の軍にしてみれば、日本の海岸線のように砂地へ上陸する作戦が
最も不得手であっただろうから、水際で侵攻を阻止しようとしたこの防塁は
戦術的に大正解であると言えよう。逆に考えれば、こうした防塁を築かず
文永の役と同様に蒙古軍の上陸を許してしまったならば、得意の騎馬戦術を展開され
日本全土は蹂躙の憂き目を見た事であろう。博多を守る防塁は、日本を守る城郭だったのである。
博多湾地図
博多湾内における元寇防塁 (赤線)

文永の役では元軍の上陸を許したため
博多市街地への侵攻を阻止できなかったが(青矢印)
弘安の役においてはこの防塁があったため
元軍を湾内に留める事ができた(橙矢印)

地図は現在のものを利用しているので
当時の海岸線とは若干異なる
防塁跡は年月を経て風化し、損なわれてしまった箇所があるが、現在でも
今津長浜、生の松原(いきのまつばら)、百道浜(ももぢばる)には残されている。


弘安の役 〜 神風再び
1281年6月、ついに元軍は日本攻撃のため渡海を開始した。
朝鮮半島の合浦(がっぽ、現在の馬山)を進発した軍は東路軍(とうろぐん)と呼ばれ
高麗兵を中心としたその戦力は4万人。前回と同じく対馬・壱岐を蹂躙し北九州へと進んできた。
当然、戦いの舞台は博多湾である。ところが、待ち受ける日本軍陣地は文永の役と異なり
3m近い高さの防塁で固められていた。上陸を目論む元軍兵士は前進を阻まれ海上へ退避する。
その夜、日本軍は奇襲攻撃をかけて海上の軍船を襲った。よもや日本側から夜襲が来るとは
思っていなかった元の兵士は狼狽し、大きな被害を受けるのであった。
このため、東路軍は一時撤退を余儀なくされ壱岐に引き返す。
7月、中国南部の寧波(ニンポー)を出港した江南軍(こうなんぐん)が合流。
江南軍の主力は征服された南宋の民であった。高麗も南宋も元に服属させられた国であり
蒙古の支配に反乱しようとする勢力を削ぐために日本遠征の賦役を課せられたのだ。
江南軍は約10万人。東路軍・江南軍あわせて14万の兵力に増強された元軍は
4000艘の軍船を以って再び博多湾に押し寄せた。激戦は数日続いたものの
服従させられてやむを得ず遠征した高麗・南宋の兵は士気が低く
しかも日本軍陣地は強固な防塁で囲まれていたため、元軍は上陸できずにいた。
戦況に変化が現れるのが7月30日の夜。文永の役の晩と同じく、日本に台風が到来したのだ。
激しい暴風雨は元の軍船を呑み込み、沈没・損壊するものが続出する。
翌朝、戦闘力を失った元軍の残存兵へ日本軍が襲いかかりこれを壊滅させた。
日本はまたもや神風に守られたのである。この戦いを弘安の役(こうあんのえき)と言い
文永・弘安の役を合わせて元寇(げんこう)と呼ぶ。
元寇関連地図






元寇関連地図

青矢印は文永の役
橙矢印は弘安の役における元軍侵攻路

文永の役では博多上陸後の元軍の動向が不明

弘安の役ではまず高麗からの東路軍が
対馬・壱岐・北九州沿岸へ侵攻し
さらに南宋からの江南軍が壱岐で合流、
日本軍と数日間に渡り激戦を続けたが
台風による被害を受けて
東路軍・江南軍共に朝鮮半島へと撤退した

蒙古帝国その後 〜 フビライの死
2回の侵攻を行っても日本を征服できなかったモンゴル帝国であるが、
フビライは諦めた訳ではなかった。1282年、またもや高麗に造船・徴用命令が出され
1283年から元帝国本土でも日本侵攻の再準備が開始されている。
ところが、この1283年は旧南宋の福建・広東で住民が反乱。前年の1282年には
ベトナムで元に対する抵抗活動が活発化しており、日本再遠征の準備は遅滞した。
占領地の確実な服従が必要とされた元は、南宋やベトナムへの鎮圧軍を派兵し
1284年に占城を制圧、1287年にはパガン王国を滅ぼした。
しかし元への抵抗活動は尾を引き南宋の反乱は全土へ拡大、ベトナムの反乱も巨大化し
元軍は25万もの兵を失った。しかも1292年〜1294年に行われたジャワ遠征は完全に失敗。
精強なモンゴルの騎兵も慣れない異国の地では本来の機動力を発揮できなかったのだろう。
こうした最中、1294年にフビライが死去。遂に日本遠征は中止され、
蒙古の脅威が3度博多湾に訪れる事はなかった。
フビライの死後、モンゴル帝国の覇業には陰りが見え始め、これ以後の領土拡大は
為し得なかった。1328年には元帝室に内紛が起こり政権が南北に分裂。
1350年代からは中国国内でも元に対する反乱が勃発、遂に1368年に元朝は滅亡した。
元に替わって正統王朝となったのが朱元璋(しゅげんしょう)の建てた明(みん)で
モンゴル族は約1世紀半の中国支配を終えてモンゴル高原へと引き上げていった。

鎌倉幕府その後 〜 北条時宗の死
では、鎌倉幕府は元寇の後どうなったのか。弘安の役で元を撃退し一息ついていた
1284年に執権・北条時宗が急死したのである。あまりにも若い時宗の死は、
まるで元寇の対処を終えた事がこの世で為すべき事の終わりと言わんばかりである。
執権職は時宗の子・貞時(さだとき)に継承されたが、
この頃から御家人の不満が大きな問題となって現れてくる。恩賞に関する論功である。
前に述べた通り、幕府と御家人は「御恩と奉公」と呼ばれる関係で成り立っており
御家人の奉公に対して幕府は恩賞を与えなくてはならなかった。もし戦があったならば
幕府の命令で戦った御家人に対して、それ相応の領土を配分する事になっていたのである。
承久の乱のように国内における戦闘ならば、幕府に抗って敗れた者の領地を
恩賞として与える事ができるが、今回のような外寇ではそうはいかない。
外国から攻めてきた敵を撃退したとしても恩賞として与える領地はどこにも発生しないからである。
よって、元軍を撃退しても幕府には恩賞に当てる領土がなく、御家人に対する債務が
増大する一方だったのだ。そもそもこの問題は文永の役の時点で発生していたが、
弘安の役まで重なってしまい、非常に重大な課題を幕府に突きつけた。
戦をするのに莫大な費用がかかるのは当然だが、戦後は恩賞が出るはずと予想し
貧しい御家人達は戦費を調達するために商人から多大な借金をしており、
恩賞の未払いはこうした御家人の生活を苦しめ、不満と不信を爆発させたのである。
こうした中、蒙古の3度目の襲来を恐れた幕府は北九州に恒常的警戒体制を敷くべく
1293年に鎮西奉行を改め、鎮西探題(ちんぜいたんだい)の職を新設した。
しかしそれは御家人の負担を増やし、幕府と御家人の経済基盤を崩壊させていくのだった。



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