蒙古襲来(1)

強大な権力を保持した北条時頼は1263年11月22日に死去。
執権は北条長時、次に北条政村(ほうじょうまさむら)が継承していたが
得宗であった時頼の存命中とは異なり、政治の進展ははかばかしくなかった。
有力御家人や北条一門の各人をまとめあげるだけの指導力がなかったためである。
この多難な時期に大陸から蒙古の噂が日本に伝えられる。
外寇に備えるため、再び強力な指導者を必要とした鎌倉幕府は
若き宰相、北条時宗(ほうじょうときむね)を執権に据えた。
時宗は時頼の嫡子、もちろん得宗の地位にある人物である。
重責を背負った時宗の戦いが今、幕を明ける。


執権・北条時宗 〜 時頼の嫡子、幕政を担う
1251年5月15日に生まれた北条時宗は、強大な権力を誇った時頼の次男である。
時頼には1248年に生まれた長男の時輔(ときすけ)がいたが、庶子であったため
次男の時宗が嫡子とされ、幼い頃から得宗としての英才教育を受けていた。
時頼の出家と死去においてはまだ若年であったため、執権は一族の長時や
政村が襲職したが、得宗としての地位は時輔を差し置いて時宗が継承する。
とはいえ、長男である時輔を推す声も多く、時宗の立場は微妙なものでもあった。
特に反北条氏の立場にある氏族や将軍・宗尊親王は時輔を後援。
時頼の遺命した得宗の地位など認めず、北条一門が時輔と時宗の派閥に分裂し争えば
強大な北条氏の権勢に亀裂を入れることが出来ると目論んだのである。
このような情勢を鑑み、時宗は時輔を六波羅探題南方へ左遷し政治の舞台から遠ざける。
1266年7月には6代将軍・宗尊親王を廃し京都に送還、7代将軍に
惟康親王(これやすしんのう)を据えた。北条氏を衝け狙い暗躍する宗尊親王は
もはや飾り物どころか邪魔者でしかなく、煩い将軍を追放し幼少の惟康王を新将軍に据えたのだ。
若い時宗は、この時点で既に父・時頼譲りの政治力を発揮し始めたのである。
こうした状況の中、1268年1月に蒙古(モンゴル)の国書が大宰府に到着。
大宰府の長官であった武藤資能(むとうすけよし)は直ちにこの国書を鎌倉へ送った。
当時、モンゴル帝国の脅威に晒されていた南宋や、服属を余儀なくされた高麗から
様々な情報が日本にもたらされており、蒙古の恐怖は瞬く間に日本全土を駆け巡った。
国書には「日本との通交を望む」と記されていたが、
蒙古の示す「通交」とは単なる修好ではなく、服従と支配を命令する意味を含んでいた。
さらに国書は「通交が為されないならば兵力を用いる」という一文で締められていたため、
鎌倉幕府はにわかに騒然とした。この国書に従う事は、
蒙古の兵力に恐れを為したという事になるからだ。これでは武士の面目が立たない。
恐慌に陥る民衆、混乱する御家人…蒙古の恐怖は日本全国に吹き荒れた。
この事態を収拾すべく、満を持して同年3月に時宗が執権に就任する。
こうして、蒙古の外圧と幕府内の権力維持に対応する時宗の施政が開始される。

蒙古国書黙殺 〜 二月騒動
高圧的で脅迫を意味した蒙古の国書に従うことはできなかった。
降伏勧告とも受け取れる内容を受け入れる事は、鎌倉幕府御家人の面目を潰し
「戦わずして異国に敗れる」という意味であったためだ。時宗は蒙古の国書を黙殺。
武家政権の幕府が国書を無視したため、朝廷も同様の立場を取った。
軍事力を持たない朝廷が蒙古に対応する術などなかったからである。
しかし、日本全国が一丸となって蒙古に対抗するにはまだまだ不安定な政情であった。
上記の通り、親王将軍をはじめとする反北条勢力が暗躍していたのだ。
蒙古の襲来に対応するには、幕府の統制力を強化し
執権である時宗の命令に抗う者がいてはならない。こうして起きた事件が二月騒動である。
1272年2月、北条得宗家に反抗的な庶流・名越北条氏の
北条時章(ほうじょうときあきら)教時(のりとき)兄弟を抹殺、
同時に兄の時輔も六波羅探題北方の北条義宗(ほうじょうよしむね)に命じて暗殺した。
時輔の存在は時宗に反対する勢力の求心力となるからである。時輔、享年25歳。
この間にも蒙古からの使節は度々日本へ訪れ、通交を要求していた。
しかし、幕府はいずれも返答をせず黙殺、日本と蒙古の交戦は決定的になっていく。
蒙古の脅威は幕府内の権力統制の必要性と
それに伴う反得宗勢力の粛清を正当化していたのである。

龍ノ口騒動 〜 北条時宗と日蓮の関係
もう一つ、幕府を揺るがせていたのが日蓮の存在である。父・時頼の時代から幕政を批判し
政治に介入した日蓮に対し、時宗は当初静観の立場を取っていたが
蒙古襲来を前にそうもいかないような事態になっていた。立正安国論で記載した通り、
「国難がやって来る」とした日蓮の予言が的中したからである。
他宗を邪教呼ばわりし、政治を悪政と非難する日蓮の発言力がこれによって増大する事を
恐れた時宗は、遂に日蓮の捕縛を配下に指示した。日蓮の言動を信じる者が増えては
蒙古襲来に備える幕府の統制に齟齬を来たすからだ。内管領(うちかんれい、得宗の家宰)の
平頼綱(たいらのよりつな)はこの命令を受けて日蓮処罰に動いた。
ところが頼綱は時宗の捕縛命令を勝手に拡大解釈し、日蓮を捕らえるだけでなく
龍ノ口(たつのくち、現在の神奈川県藤沢市片瀬にあった鎌倉幕府の刑場)で斬首しようとした。
この知らせを聞いた時宗は頼綱の行動を制止した。如何に日蓮が幕政を批判する者であっても
斬首するほどの罪状ではないし、日蓮宗を信じる武士が幕府に反抗する危険性を憂慮したためだ。
短慮な頼綱の暴挙は寸前に阻止され、日蓮は佐渡への流罪が言い渡された。
危ういところで命を永らえた日蓮は、その後1274年に罪を許され
甲斐身延(山梨県南巨摩郡身延町)へ移動、身延山久遠寺を開き日蓮宗の本山とした。
久遠寺は現在、桜の名所となっている。
こうして布教を続けた彼は故郷の安房へ戻る旅の途上、1282年に武蔵国で没した。
身延山久遠寺山門身延山久遠寺山門(山梨県南巨摩郡身延町)

文永の役(1) 〜 博多湾の攻防
1271年、モンゴル帝国は旧来の中国慣習に習い国号を元に改めた。
もちろん、その皇帝はフビライ=ハンである。
蒙古の使節は合計5回来日したが、鎌倉幕府からは何の返答も返さなかった。
ここに至り、フビライは日本への侵攻を決意する。斯くして1273年、日本遠征の命令が下った。
この間も南宋や東南アジア各国では激戦が繰り広げられており、服属させた高麗でも
ゲリラ的抵抗が続いていたものの、日本も支配下に置こうとするフビライの執念は
そうした戦闘にも関わらず実行に移されたのである。翌1274年、高麗を出発した元の大船団が
10月に対馬・壱岐を蹂躙、現地の住民を大量虐殺し九州へ迫った。
元軍は平戸・松浦の日本水軍を破った後、九州の心臓部と言える博多湾へ侵攻する。
一方、鎌倉幕府は九州に領地を持つ御家人に防衛体制を固めさせていた。
日本制圧を狙うフビライ同様、それを防ごうとする時宗の決意も並々ならぬもので
既に1271年からこうした防衛命令を発していたのだ。博多湾には御家人が元軍を待ち構えていた。
が、日本軍は予想外の苦戦を強いられる。というか、これまで外寇を経験した事がなかった故に
失敗に失敗を重ねるのである。当時の国内における合戦の場合、まず鏑矢(音響用の弓矢)を放ち
開戦の合図とする。然る後、先陣を駆ける武者が名乗りを挙げ一騎討ちを行い…となるが
当然、こんな儀礼は元軍に通用するはずがない。集団戦闘が総てである大陸の軍勢は
儀礼に則り合戦を始めようとする日本軍に対し、お構いなしで総攻撃を開始した。
下船した元軍の兵士は大軍で上陸、先駆けの名乗りを挙げようとした
肥後(熊本県)の御家人・竹崎季長(たけざきすえなが)が声を発する前に
弓の一斉射撃を行い、そのまま威力前進を展開。日本軍は完全に出遅れた上に
元軍の弓矢には毒が塗ってあった為、次々と死者を増やしていったのだ。
更には「てつはう」と呼ばれる火器も登場。「てつはう」と聞くと鉄砲の事か?と誤解しそうだが
そうではなく、手榴弾に似た炮烙(ほうらく)兵器である。火薬を詰めた球弾を投げつけ
それが破裂する事で音響・煙幕による威嚇効果や破片による殺傷効果を狙った武器であり
こうした元軍の新兵器・大陸戦術に日本軍は為す術もなく敗退した。

文永の役(2) 〜 元軍、忽然と消ゆ
元軍の上陸を許したため博多の町は放棄され、日本軍は大宰府まで撤退を余儀なくされた。
その夜、風雨に見舞われた大宰府では軍議が開かれた。元軍のこれ以上の侵攻を防がねば
博多のみならず大宰府、さらには九州全土が陥落する。御家人の決意は固かった。
ところが翌日、博多の状態を確認すべく偵察を行った兵士が見たものは
軍船が消えて静かな博多湾の海だけであった。あの大軍が忽然と姿を消したのである。
果たして元軍はどうなったのか?21世紀の現在においてもその理由は判然としない。
いくつか考えられている理由を列挙してみよう。

1.暴風雨による撤退
元軍上陸の夜、九州地方は暴風雨に見舞われた。この風雨で船団に何らかの障害が発生し
軍勢が九州から撤退したとする説。日本を守る神風が吹いたと言われ、一般的に有名だが
破損船の残骸すらなく消え去るのも不自然であろう。

2.日本軍の健闘
元軍は圧倒的な勢いで上陸、博多を占拠し市街地を焼き払った。故に日本劣勢と見られがちだが
実は果敢な抵抗が功を奏し、元軍を敗退させたとする説。実際、元軍の副司令官が負傷している。
が、日本が終始圧され気味だった戦況からすれば、納得できるものではない。

3.元軍の戦意喪失
慣れない海路を渡った元軍は、実は食糧不足や船酔い・疫病に悩まされて戦意がなかったとする説。
騎馬戦術を得意とする元の兵士ならばありそうな話だが、
いくら何でもたった1日で撤退というのも妙であり、推測に過ぎない。

4.予定通りの撤収
元軍の来襲は当初より威嚇程度の攻撃に留めるもので、博多を壊滅させ撤収するのが
予定通りの行軍であったという説。一部の歴史学者に根強い説ではあるが、
それにしては派遣軍の規模が大きすぎるし、対馬・壱岐での殺戮戦や他国での戦況を考慮すると
肯定できない矛盾点が多い。

一般には1か2の説が妥当と考えられている。が、本当の所は何が真実なのか判らない。
いずれにせよ元軍は1日で姿を消し、日本は侵略を免れた。しかし、日本の戦術が
大陸の戦術に通用しないなど、問題点は多く露見したのである。
この戦いを当時の元号から文永の役(ぶんえいのえき)と呼ぶ。



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