次代への火種

北条時頼が執権となった時期は北条氏の全盛とも言える時代であった。
幕府権力はほとんど全て時頼の掌握下にあり
北条氏に対抗した有力氏族の三浦氏一族や
宗家に反抗的であった庶流の名越北条氏らを粛清し
北条独裁体制による中央集権を確立していたのだった。
反面、そうした権力集中に対して不満を覚える者もいたし
日蓮のように公然と幕政批判を行う者も現れていた。
当然、時頼が政界を退いた後にそうした不平は顕在化し
新たな動乱の芽となって次代への変革を促していく。
さらに朝廷でも皇統が二派に分裂、対外的には蒙古の伸張著しく
鎌倉幕府は内に外に憂慮を抱えていくようになっていく。


立正安国論 〜 北条時頼と日蓮の政治観
御成敗式目の法制が整い、他氏排斥も一段落した時頼の執権時代は
北条氏の中央集権体制が最も確立した時期といえる。
しかし、表面上は臣従を装いながらも北条氏に不満を覚える氏族が残っていた上
地震や風水害、飢饉や疫病といった天災が多く発生し、
強盗の横行など治安も乱れていた。北条氏の全盛期とは言っても、
まだまだ政情は安定せず民衆の不安も根強く残っていたのである。
丁度この時代に民衆救済を追及して鎌倉で辻説法を行ったのが日蓮である。
曰く、法華経以外の誤った仏説を信じる宗派が乱立する上に
政治が間違っているからこそ世の中に安寧が訪れないのである、という意見だ。
邪教の信仰をやめ、幕府の悪政が改まらなければ
今以上の災難、国難が日本を襲うとまで言い始めた日蓮は
1260年にその考えを書物にまとめ時頼に突きつけた。
立正安国論(りっしょうあんこくろん)である。
政治に真っ向から介入する日蓮を時頼は苦々しく思っていたが
しかし政情不安は事実であり、これを何とかしようと考える気持ちは日蓮と同じであった。
逡巡する幕府より早く日蓮打倒に動いたのは念仏宗の僧侶たちであった。
他宗を国賊扱いする日蓮の言動に耐えかね、松葉ヶ谷(まつばがやつ、鎌倉市大町)にある
日蓮の庵を焼き討ちし暗殺しようと謀ったのである。間一髪で窮地を脱した日蓮は下総に逃亡。
翌年、鎌倉へと舞い戻って再び辻説法を開始したのであった。
ところが、今度は幕府が日蓮対策に動いた。日蓮の悪口は貞永式目に抵触するものであり
その言動が元で放火事件まで起きたのだから厳正に処罰しなくてはならない、としたのだ。
結果、日蓮は伊豆に流刑となり2年を過ごした。しかし罪が許されると再び鎌倉へ戻り
相変わらずの辻説法を繰り返していた。日蓮と幕府の対立はまだまだ続くのである。

幕府権力の混沌 〜 将軍、執権、そして得宗
では、この当時の幕府内部における権力構造とはどのようなものであったのか。
何度も書いた通り、幕府の首班となるのは将軍である。
実朝の死後に摂関家から迎えた4代将軍・九条頼経とその子である5代将軍・頼嗣は
摂家将軍と呼ばれ幕府の頂点に祭り上げられたが、
実質的権力は何も無くこうした状況に不満を募らせていた。
頼経も頼嗣も権力を手にすべく様々な画策をしたが北条氏に阻止され、遂に抹殺された。
1252年、時頼の工作により摂家将軍に替わって6代将軍に迎えられたのは
後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王(むねたかしんのう)である。
皇室より将軍を迎えたため、宗尊親王以降の将軍を親王将軍と呼ぶ。
とはいえ、将軍職が摂関家から皇室に移っただけの事で
親王将軍も傀儡に変わりはなかった。いずれにせよ、将軍は「飾り物」でしかなく
幕府の実権は執権の手にあり幕政が運営されていたのである。
当然、宗尊親王は不満を募らせる。後嵯峨天皇の長子である親王は
本来ならば皇位継承権があるはずなのに幕府の圧力で(皇位から見れば格下の)将軍にさせられ
しかも実権がない飾り物でしかなかったのだから当たり前であろう。
然るに、宗尊親王も摂家将軍の2人と同様に権力掌握を謀り水面下の工作を行い
将軍と執権の間には目に見えない確執が繰り広げられていった。
さて、話を北条氏に移そう。執権職とは将軍を補佐する鎌倉幕府の役職名であり
代々北条氏が世襲するようになっていた。当然、将軍が飾り物である以上
実質的な幕府No1となる要職であり、故に幕政を北条氏が取り仕切る構造になっていた。
しかし、北条一族のなかで氏長者の立場にある人物を得宗(とくそう)と呼んだが
必ずしも得宗が執権であるとは限らなかった。得宗が出家したり幼少だったりした場合
執権に得宗以外の一門衆が代理的に就任する事がままあったのだ。
(出家しようと幼少だろうと、得宗は氏長者なのだから変えようがない)
得宗が執権ならば、得宗の意向=執権の政治となるから特に問題はないが
得宗以外の者が執権に就いた場合、必ずしもそうはならず、
時に得宗(北条氏の頂点)と執権(幕府の頂点)の意見が噛み合わない、という事にもなり得た。
1256年に時頼は出家し執権職を北条長時(ほうじょうながとき)に譲ったが
独自の政治色を打ち出そうとする長時と得宗としての立場がある時頼は反発する事があり
幕府の政治体制は将軍・執権・得宗という三つ巴の対立を浮き彫りにしていった。
こうした不協和音は元寇以後に顕在化していく。元寇により幕府が弱体化していったからだ。
独裁を堅持しようとする北条氏は、こうした問題を解消すべく得宗による専制体制を進めていく。
「幕府の要職」である執権は「一氏族である北条氏家督」にすぎない得宗の配下とされ
幕府職制は極めて形式的なものに貶められていったのだ。
しかし、こうした変化は幕府体制への不信・不満を呼び込む事に繋がり
次第に倒幕の機運が高まっていくようになる。詳しくは後記する事にする。

皇統分立! 〜 2つの天皇家
時頼に続いて執権を襲職した長時の時代には朝廷でも火種が発生する。
宗尊親王の父である第88代天皇・後嵯峨天皇は後深草天皇へ譲位、院政を開始した。
その13年後の1259年、上皇の意向でわずか17歳の後深草帝は退位させられ
弟の恒仁親王(つねひとしんのう)に皇位が移った。亀山天皇である。
ところが、意に反して帝位を奪われた後深草上皇はこれを承服できず
亀山天皇に対抗するため幕府へ助力を頼んだ。
以後、後深草上皇の系統と亀山天皇の系統は互いに皇位を争うようになり、
幕府の仲介によって両系統が交互に皇位を継ぐ事が取り決められた。
後深草天皇の系統を持明院統(じみょういんとう)、
亀山天皇の系統を大覚寺統(だいかくじとう)と呼び、これが南北朝対立の発端となる。
持明院統が後の北朝、大覚寺統が後の南朝である。
皇統の分裂は朝廷内に深い混乱を招いた上、皇位に関して幕府が介入する事で
朝廷と幕府の間に新たな不和を引き起こす事にもなってしまった。
皇位継承に関して幕府が口出しするのは朝廷にとって面白い筈はないし
幕府にとっても朝廷の混乱に深入りする事は危険極まりない事だったのだ。
朝廷内の分裂、朝廷と幕府の対立は時を経て討幕運動の機運へと進んでいく。

皇統分立

皇統分立  ―は親子関係 数字は皇位継承順 数字は将軍継承順

蒙古帝国 〜 外交危機の到来
さて、この頃の世界情勢に目を向けてみよう。現在のモンゴル国近辺においては
騎馬民族が部族ごとに割拠する状況が続いていたが、こうした部族対立を平定し
統一国家組織を作り上げた英雄が13世紀に登場する。かの有名なチンギス=ハーンである。
あるいは成吉思汗(ジンギスカン)の名のほうが知られているかもしれない。
幼名を鉄木真(テムジン)といった彼は、モンゴル族を束ねる首長の子として生まれたが
幼い頃に父が亡くなり、辛酸を舐めつつ一族を精強な騎馬軍団に育て上げ他の部族を圧倒、
1206年にモンゴル初の帝王(ハーン、汗)として即位した。モンゴル帝国の誕生である。
チンギス=ハーンの覇業はモンゴル内部に留まらず、首都カラコルムから遠征を繰り返し
中央アジアを併呑、さらに中国方面へと軍を進めた。1227年にチンギス=ハーンは没するが
モンゴル帝国の勢いは衰える事なく伸張、跡を継いだオゴタイ=ハンにより
1234年に金(当時の北部中国を支配した王朝)を滅ぼした。
西方へも侵略を続け、1240年代にはロシアの大半を占領しモスクワ・キエフなどを手中に収め
最前線は現在のドイツ・ポーランド国境付近にまで及んだ。
中央アジアへの領土拡大も激しく、1250年代にペルシャ湾岸へまで到達。
1253年には大理国(だいりこく、現在の中華人民共和国雲南省近辺にあった国)も滅ぼす。
一連の領土拡大政策は太祖であるチンギス=ハーンの遺命であり、最も重要な狙いは
中国全土を服属させるために四界から軍を繰り出すための大包囲作戦だった。
1259年にはフビライ=ハンが高麗(現在の朝鮮半島における王朝)を衛星国化させた。
翌1260年、そのフビライが皇帝に即位。この頃のモンゴル帝国はロシア沿海州から欧州中部、
南にはペルシャ湾岸・トルコにまで到達し、空前絶後の大帝国に発展していた。
無論、世界史上最大の版図を擁す大帝国である。
あまりに巨大な領土はオゴタイ=ハン国・チャガタイ=ハン国・キプチャク=ハン国・イル=ハン国
それに中国地域における元(げん)帝国の5つに分割統治されるようになっていた。
モンゴル帝国の版図
1260年当時のモンゴル帝国領土地図。
上記の5ヶ国が主領土で高麗・吐蕃(とばん)・大理は属国。
1206年のチンギス=ハーン即位から
わずか半世紀あまりでこれだけの拡大を成し遂げた。
最西端の侵攻が1241年のワールシュタット戦で
欧州中央部にまで進出した事になる。
フビライの即位時、最もその脅威を受けていたのが
南宋・大越(だいえつ)・パガン王国・チャムパーで
これらの国々は程なくモンゴル帝国の軍門に降った。
これだけ大規模な軍事動員を為して領土拡張を国策とするモンゴル帝国は
その反面、政治・経済・宗教的には寛容であり、占領地域における政治体制や
宗教・文化などを弾圧する事はほとんどなく、経済交流も多いに奨励した。
このため、ユーラシア大陸のほぼ全域が一元的に統一された事になり
アジアからヨーロッパまでが一大交易圏として捉えられ、東西文化が盛んに交わった。
いわば「グローバリズム」の先駆となる時代であったのだ。
マルコ=ポーロがヴェネツィアから元の首都である大都(現在の北京)にまで旅したのが
丁度この時代。1275年に大都へ到着した彼はフビライの寵愛を受け元の政治顧問として活躍し
帰国後にその体験を口伝、これを基に記されたのが「東方見聞録」である。
ちなみに、この書物で日本がヨーロッパに紹介され、“黄金の国”とされたが
マルコ=ポーロ自身は来日した事がなく、元において聞き及んだ日本の噂が誤解されて
東方見聞録に記載されたものと思われる。また、重商主義を進めた元では
政府信用による紙幣制度が通用しており(当時の欧州は貨幣のみで紙幣は存在しなかった)
「紙が通貨として使用される」事に驚愕したマルコ=ポーロが
東洋の国の驚くべき経済体制を誇張して“黄金の国”の記述になったのかもしれない。
さて、全アジア制覇を狙うフビライは南宋攻略と並行して東南アジアへも軍を進める。
現在のミャンマー(ビルマ)やベトナム周域の諸国に対し侵攻、パガン王国(緬)
大越国(だいえつこく、ベトナム北部)・チャムパー(占城)といった国々が標的となった。
政治や経済には寛容だが、軍事・外交においては徹底的な攻撃的野心を露にしたのが
モンゴル帝国であり、侵攻を受けたこれらの国々においては激烈な戦闘が続けられた。
モンゴル帝国のアジア制覇の一環として、遂に日本へ対しても「通交」を要求。
大陸との交流でモンゴルの覇業を伝え聞いていた日本の民衆は
「とうとう蒙古(モンゴル)が日本へやって来る」と恐慌を来たした。
幕府機構・朝廷対策・民衆救済と多難な国事を抱える鎌倉幕府は
外交においても重大な岐路に立たされるようになったのである。



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