鎌倉文化

仏教において複数の新たな宗派が興された鎌倉時代、
文化的には従来の朝廷貴族文化とは明らかに異なる傾向が見られた。
煌びやかな公家文化とは違い、東国武士が旨とした
質実剛健を基調にする豪壮な文化である。
これに鎌倉新仏教の志向が加わって
政権の中心となる鎌倉や京都には現在にまで残る重厚な寺院建築や
貴重な著作物・工芸品が多数出現するようになった。


鎌倉文化(1) 〜 武士の豪壮な気風を反映した文化
平氏政権以降、宋からの技術が伝えられ
建築物において新たな様式が確立された。
大仏様(だいぶつよう)と呼ばれる建築様式は大規模な建物に適した方法で
簡素ながら豪快な雰囲気を醸し出す。従来の日本建築とは一線を画しており
大仏様の代表例とされる東大寺南大門(なんだいもん)は
一目見ただけで他の東大寺建築遺構とは異なる風合いである。
この様式は天竺様(てんじくよう)とも言われるが、インドとは何ら関係が無い。
一方、禅宗様(ぜんしゅうよう)と呼ばれる建築様式は
鎌倉時代中期以降に用いられるようになった様式で
細い木材を精密に組み上げる素朴な工法。禅の心に通じる質素な風情から
禅宗寺院に多く採用された。よって、禅宗様の名が付けられている。
鎌倉の円覚寺舎利殿(しゃりでん)は近年の研究で室町時代の建立と判明したが
建築方法としてはこの禅宗様で建てられており、鎌倉文化の代表例と言えるだろう。
東大寺南大門東大寺南大門(奈良県奈良市)
大仏様・禅宗様が中国からの建築様式を取り入れたものであるのに対し
従来の日本建築様式を発展させたものが和様(わよう)である。
天台宗寺院で後白河法皇の発願により平清盛が創建した蓮華王院(れんげおういん)本堂は
内陣の柱間が33間あるために三十三間堂の通称で呼ばれる建物。これが和様の代表例で
1001体もの千手観音像を安置している事や通し矢の弓道行事で有名。
蓮華王院本堂(三十三間堂)蓮華王院本堂(京都府京都市東山区)
鎌倉時代は、公家の世の中から武家の世へと転換する時代である。
武士の豪壮な気風を反映した文化が鎌倉文化であり
彫刻などでは写実的で力強い姿を写し出した像が多く作られた。
有名な彫刻師である運慶(うんけい)快慶(かいけい)はこの時代の人物。
奈良の大寺院に残る巨大な塑像はその多くが彼等の手によるもので
東大寺南大門金剛力士像や僧形八幡神像、興福寺北円堂無著像・世親像など数体に及ぶ。
特に東大寺南大門金剛力士像はわずか70日の間で巨大な像を完成させており
表現の素晴らしさだけでなく、凄まじい速さでの仕事にも驚嘆させられる。
また、運慶の子である湛慶(たんけい)康弁(こうべん)康勝(こうしょう)も優れた仏師で
それぞれ蓮華王院本堂千手観音像(湛慶)、興福寺天灯鬼像・竜灯鬼像(康弁)、
六波羅蜜寺空也上人像(康勝)といった作品を残している。
絵画においても同様の傾向があり、似絵(にせえ)と言われる写実的な肖像画が描かれ
先の頁に紹介した源頼朝像など実に精緻な表現で人物の個性を存分に引き出している。
源頼朝像の作者である藤原隆信(ふじわらのたかのぶ)は、
この他にも平重盛像など数点の似絵を世に送り出した。
鎌倉仏教の勃興も絵画の作品に影響を与えている。
法然・一遍らの伝記を絵巻物に著した法然上人絵伝・一遍上人絵伝や
大寺社の由来や霊験を表現した絵巻物である北野天神縁起絵巻や石山寺縁起絵巻などがある。
当時の世相を記した絵画もある。武士の時代らしく、戦乱の様子を描いた絵巻物で
平治の乱を題材にした平治物語絵巻や元寇の奮戦を有様を著した蒙古襲来絵巻などで
特に後者は元寇の状況を知る貴重な史料にもなっている。
建築
大仏様(天竺様)
東大寺南大門
禅宗様(唐様)
円覚寺舎利殿
和様
石山寺多宝塔
蓮華王院本堂(三十三間堂)
折衷様(新和様)
観心寺金堂
彫刻
東大寺南大門金剛力士像(運慶・快慶)
東大寺僧形八幡神像(快慶)
興福寺無著像・世親像(運慶ら)
興福寺天灯鬼像・竜灯鬼像(康弁ら)
六波羅蜜寺空也上人像(康勝)
明月院上杉重房像
重源上人像
高徳院阿弥陀如来像(鎌倉大仏)
絵画
源頼朝像・平重盛像(藤原隆信)
明恵上人樹上坐禅図(伝 恵日房(成忍))
法然上人絵伝
一遍上人絵伝
春日権現験記(高階隆兼)
石山寺縁起絵巻(高階隆兼)
北野天神縁起絵巻(伝 藤原信実)
平治物語絵巻
蒙古襲来絵巻
地獄草子
餓鬼草子
書道
鷹巣帖(尊円法親王筆)
工芸
刀剣
岡崎正宗
粟田口吉光
長船長光
甲冑
明珍
焼物
加藤景正(瀬戸焼)
鎌倉文化の代表例 (1)
伏見天皇の皇子・尊円法親王(そんえんほっしんのう)は書家として名高く
当時の流行であった世尊寺流(せそんじりゅう)の書風に独自の工夫を加え
重厚で力強い新たな流派、青蓮院流(しょうれんいんりゅう)の書風を開いた。
青蓮院流は一般的で親しみやすい書風で、江戸幕府公用書の書体として使われるようになった。
親王の書として残るのが鷹巣帖(たかのすじょう)で、習字の手本として書かれた物らしい。
工芸品として挙げるべきは武士の時代らしく刀剣と甲冑であろう。
刀剣の産地は全国に展開している。これは、産鉄地の位置と共に
優秀な刀鍛冶が一族で住みついた地に密接な関係がある為だ。
有名な産地として、備前国(現在の岡山県南部)の長船(おさふね)や
京都洛東の粟田口(あわたぐち)などがあり、ここで産み出された名刀は武士に重用された。
刀と共に武士に欠かせない甲冑は、何と言っても明珍(みょうちん)であろう。
明珍は第一級の名工として高名で、やはり武士がこぞって重用した名品を生み出した人物だ。
もう一つ、「瀬戸物」として一般的な瀬戸焼が始まったのもこの時代。
道元と一緒に宋へ渡った加藤景正(かとうかげまさ)が製陶技術を習得し帰国、
尾張国(現在の愛知県西部)の瀬戸で焼物を始めたのが由来である。

鎌倉文化(2) 〜 学問の発展、武士の生活
鎌倉幕府の重鎮、北条実時(ほうじょうさねとき)は学問に熱心な人物で
北条一族の知恵袋とも言える知識人であった。学問を深め治世に活かそうとする彼は
書物の収集に励み、日本初の図書館と言うべき文庫を構築した。
現在の神奈川県横浜市金沢区に残る金沢文庫の発祥である。
一方、京都の朝廷でも学問振興は盛んであった。幕府成立で政治的発言力を失った朝廷は
学問の道を深めて独自の権威を築こうとしたのかもしれない。
有職故実を集成した禁秘抄(きんびしょう)を著したのが順徳天皇
和歌集としては最高傑作と言われる新古今和歌集を撰じたのが
藤原定家(ふじわらのさだいえていかとも
さらに西行(さいぎょう)の手による山家集(さんかしゅう)なども有名だ。
新古今は後鳥羽上皇の命による勅撰和歌集である。
この時代の随筆といえば、やはり徒然草(つれづれぐさ)と方丈記(ほうじょうき)。
“兼好法師”の通称で呼ばれる吉田兼好(よしだけんこう)が記した徒然草は
「徒然なる侭に、日暮し硯に向かひて…」の序文を古典の授業で必ず習うので親しみがある。
方丈記を著したのは鴨長明(かものちょうめい)。徒然草と同じく
「行く河の流れは絶えずして、しかももとの水に非ず…」の書き出しは有名。
この作品の根本にあるのは「人も社会も絶えず移ろう虚しさと儚さ」であり
戦に生きた鎌倉武士の無常観を書き記している。
学問
金沢文庫(北条実時)
神道
類聚神祇本源(渡会家行)
有職故実
禁秘抄(順徳天皇)
古典研究
万葉集注釈(仙覚)
釈日本紀(卜部兼方)
和歌
新古今和歌集(藤原定家ら)
金槐和歌集(源実朝)
山家集(西行)
随筆
徒然草(吉田兼好)
方丈記(鴨長明)
説話集
古今著聞集(橘成季)
沙石集(無住)
十訓抄(作者不詳)
宇治拾遺物語(作者不詳)
紀行文
十六夜日記(阿仏尼)
東関紀行(源親行か)
海道記(作者不詳)
史書
愚管抄(慈円)
元亨釈書(虎関師練)
今鏡・水鏡・吾妻鏡
軍記物語
平家物語(信濃前司行長か)
源平盛衰記
保元物語・平治物語
仏教著作
浄土宗
選択本願念仏集(法然)
浄土真宗
教行信証(親鸞)
歎異抄(唯円)
臨済宗
興禅護国論(栄西)
曹洞宗
正法眼蔵(道元)
日蓮宗
立正安国論(日蓮)
鎌倉文化の代表例 (2)
平安時代〜鎌倉時代へと続く歴史を記した史書が今鏡・水鏡・吾妻鏡といった作品。
その歴史の中でも保元・平治の乱や源平の合戦を題材にした物語が
保元物語・平治物語・平家物語といった軍記物である。
特に信濃前司行長(しなのぜんじゆきなが)の作といわれる平家物語は
軍記物の最高傑作として名高く、盲目の琵琶法師が弾き語る音曲として広く普及した。
源平の戦乱を越えてきた鎌倉武士ならではの文学と言えよう。
鎌倉文化における文学作品は、このように武士ゆえの独特な風合いを醸し出した物が多い。



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