鎌倉仏教

鎌倉時代は決して華やかな時代ではない。
質実剛健を旨とする東国武士の時代であり
しかも京の都は戦乱で荒れてかつての栄華は微塵もなかったため
建築・絵画・文芸などは比較的地味なものが多い。
そんな中で特筆すべき事は仏教の新展開であろう。
現在に見られる仏教宗派が確立したのは鎌倉期であり
そうした宗派の成立過程を以下に記載する。


浄土宗 〜 法然の阿弥陀仏信仰
浄土宗の開祖である法然は、1133年美作国(現在の岡山県北部)に生まれた。
法然の父は現地の荘官を務める武士であったが、周辺勢力との争いに敗れ
まだ幼い法然を遺して討死してしまった。父の菩提を弔うために出家した法然は
鎮護国家の砦とも言える大寺院、比叡山延暦寺で修行に励んだ。
しかし、当時の延暦寺は政治的デモンストレーションを繰り返す悪僧の巣窟となっており
鎮護国家どころの話ではなかった。さらに、世相は源平合戦の真っ最中にあり
仏教による国家安寧など夢のまた夢、法然の目指す弱者救済には程遠かったのである。
時は末法思想の蔓延した暗黒の時代、浄土思想(浄土教)について追求を深めた法然は
やがて一つの結論に辿り着く。即ち、個々が自力で自分を救済しようとするから
戦乱を生み、争いが絶えず、この世の有様に絶望するのである。故に、自力ではなく
偉大なる仏教の慈愛にすがり、ひたすら阿弥陀如来に助けを願う事が
皆が心を一つにして浄土に導かれる方法になる、と考えたのであった。
こうして1175年、法然42歳にして独自の宗派である浄土宗を開宗するに至った。
浄土宗の教えとは、阿弥陀如来を信仰する為にひたすら念仏を唱えれば良いというもので
貧しい一般庶民や質素剛直な武士にも浸透しやすかった。
難解な教義も、苦行や造寺も必要なかったのである。
一心不乱に「南無阿弥陀仏」の念仏を唱える事を専修念仏(せんじゅねんぶつ)と言い、
これさえすれば誰であろうと極楽浄土へ往生できるとした教えであったが
悪人でさえも念仏さえ唱えていれば救われると考える者が現れてしまい
治安維持の観点から幕府や朝廷に睨まれる事がしばしばあった。
また、念仏を唱えるのは真剣に一回念じる事が肝心、とする一念説と
ひたすらに信心を深めるには何度でも念仏を唱えるべき、とする多念説が対立し
浄土宗の中でも論争や対立が発生するようになっていた。

浄土真宗 〜 親鸞の悪人正機説
1173年に生まれた親鸞は、法然と同じように比叡山延暦寺で学び
そしてこの世の有様に疑問を抱いた僧である。自らが何をすべきかを求めた親鸞は
延暦寺を離れて1201年に京で布教する法然の門を叩き弟子入りした。
偉大な高僧である法然の教えに触れた親鸞は修行に励み、
その教義をさらに深めて一般庶民にわかり易く説く事を第一に考え続けた。
やがて1207年、朝廷に念仏禁止を命じられた法然と親鸞は流罪を申し付けられる。
先に書いた通り、犯罪人の悪行を擁護するものだという治安維持の観点からと
黒衣を着た僧が大挙してひたすら念仏を唱える姿は異様だ、という
権威主義的な思想から発布された念仏禁止令と両名への処分であった。
住み慣れた京を離れ、法然は讃岐国(香川県)へ、親鸞は越後国(新潟県)へ赴く。
しかし両者は、流刑でさえも地方で布教する機会ととらえ、それぞれの国で説法に励んだ。
老齢の法然は1211年に罪を許され帰京するが、翌1212年に死去した。
法然の訃報を聞いた親鸞は、もはや京へ戻る意味はないとして
東国での布教に専念すべく越後から関東に行脚し常陸国稲田(茨城県笠間市)へ居を移す。
この地で布教を行いながら独自の理論を打ち立て、1224年に浄土真宗を開宗した。
親鸞の浄土真宗とは、一念さえすれば誰でも浄土へ救われるとしたもの。
救われようともがく悪人こそ心の底から念仏を唱えるので
これこそ正しい信心の姿である、と定義した悪人正機説(あくにんしょうきせつ)を打ち出した。
むしろ善人は自分の行いは救われるはずと思いこみ信心を軽んじる、とさえ称した。
どんな人間でも心から一念を唱えればそれで即極楽往生が決定されるという浄土真宗は
現世では恵まれないと嘆く貧しい人や今まで信仰心の薄かった人にも受け入れられ、
信者を増加させていく。こうした浄土真宗は、室町時代に一向宗(いっこうしゅう)へと変化し
教祖の教えに盲目的に従えば即極楽往生できる、とした民衆決起の巨大な原動力へと昇華される。

臨済宗 〜 栄西の禅宗
禅宗の中でも有名な臨済宗を開いたのが栄西(えいさい)
1141年に生まれ、保元・平治の乱や源平争乱といった世の荒廃を目の当たりにしながら
独自の宗教観を育んでいった名僧である。禅によって自らを問い質し、
世の移り変わりに惑わされる事なく無我の境地に至る事が肝要とし
1191年、50歳の時に臨済宗を開宗した。禅は悟りを開くためのもの、
坐禅を組みながら師から与えられる公案(こうあん)という問いに答え
その一つ一つを解決していった末に悟りを開く、とした自己研鑚の仏教である。
同じく禅宗である曹洞宗の開祖・道元(どうげん)にも大きな影響を与えると共に
鎌倉武士の自己修行における一環として禅宗は好まれ、時の執権北条時頼も帰依した。
このため、臨済宗には鎌倉幕府からの保護が与えられるようになった。
臨済宗の総本山は京都の建仁寺だが、栄西の後継者として有名な無学祖元(むがくそげん)
蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)は、鎌倉において教義を広めた。
また、京都天龍寺の創建者である夢窓疎石(むそうそせき)も臨済宗の僧侶。
当然、嵐山の観光名所として有名な天龍寺は臨済宗の寺である。

曹洞宗 〜 道元の只管打坐理論
さて、臨済宗とならぶ鎌倉時代の禅宗として高名なのが曹洞宗である。
開祖は道元、1200年に貴族の子として生まれた人物で、幼くして両親を失った体験から
世の無常を感じて比叡山延暦寺へ登り修行した。しかし、僧兵が集う延暦寺に失望し
栄西の門を叩いて禅宗の研究に取り組むようになったのだ。
1223年、道元は宋へ渡海。中国における禅宗の研究に没頭し明州各地の寺院を訪ねまわった。
天童山(てんどうさん)において坐禅・問答の修行を繰り返した道元は、
禅宗の真実とは名利を求めずひたすら坐禅に打ち込む事にあるという答えに到達。
1227年に帰国し、はじめ建仁寺に身を寄せたが幕府保護に甘える他の僧侶と袂を分かち
洛中を離れて深草(現在の京都市伏見区)へ草堂を建築。これが興聖寺(こうしょうじ)で、
この寺を拠点として京都の公家や六波羅探題の武士に布教活動を展開した。
曹洞宗の開宗である。道元の求めた禅宗は、坐禅そのものを重んずる修法であり
坐禅によって自らと宇宙を一体とし、悟りの境地に到達する事を教義とした。
この理論を只管打坐(しかんだざ)と言い、その孤高の精神は
京都の公家や武士に広い信者を得るに至った。あまりにも大きな支持を得た曹洞宗に対し
旧来の延暦寺派らの僧は危機感を募らせ、悪僧たちによって興聖寺は打ち壊されてしまう。
しかしこうした圧力に屈しない道元は、六波羅の武士であった
波多野義重(はたのよししげ)に勧められ
越前国志比庄(じびのしょう、現在の福井県吉田郡永平寺町)に本拠を移し
大仏寺(だいぶつじ)を建立、曹洞宗の大本山として布教活動を再開した。
この大仏寺が現在の永平寺(えいへいじ)である。
道元は幕府・朝廷の庇護に甘んじる事を嫌い、非権力を貫いた。
権力を肯定する事は、身分の上下や貴賎・貧富の差を認める事になり
仏法の教えに反すると考えたためであった。

時宗 〜 一遍の踊念仏
他の宗派とは一線を画するのが一遍を開祖とする時宗(じしゅう)である。
一遍は1239年、伊予国(愛媛県)の武士の家に生まれた。
幼い頃に母と死に別れ仏門に入り、はじめは比叡山で修行に励んでいたが
法然や親鸞と同様に延暦寺の悪僧とは決別、やがて浄土教を学び
1274年に独自の宗派である時宗を開いた。庶民を救済するために諸国を渡り歩き
(これを遊行(ゆぎょう)と言う)その道程は九州・四国から奥州にまで及んでおり
ほぼ全国を一周している。この旅で一遍は阿弥陀仏の救いを約束する
念仏札(ねんぶつふだ)という紙片を人々に配り時宗を広めていった。
時はちょうど蒙古襲来(後頁参照)で日本中が震撼する真っ只中、
恐怖におののく民衆を救うために開いた新たな宗派が時宗であった。
その教義とは、信心の有無や浄・不浄に関わらず全ての人が救われるとするもので
こうなるともう何でもあり、という感じの宗派である。
(↑こう書くと非常に罰当たりな感じだが…)
日本古来の神道における信仰心を仏教と融合させた手法で布教活動を行っており、
特に「踊念仏(おどりねんぶつ)」という方法は他の宗派とは全く違うものである。
踊念仏とは、皆が鐘を打ち鳴らしながら足を踏み鳴らして念仏を唱えるもので
さながら熱狂ライブのような興奮で信者の迷いを断ち切るかの如くであった。
物珍しさも手伝って時宗の宗徒は増加していったが、開祖の一遍自身は
形式的な仏説を嫌う傾向にあったため、教義などを記した書物は現存しない。
これは、一遍が死の直前に自身の著作を全て焼き捨てたためだ。
なお、時宗の総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(しょうじょうこうじ)。
一遍の生涯から採られた通称の遊行寺の方が有名で、所在地の町名にもなっている。

日蓮宗 〜 日蓮、他宗を徹底批判
1222年に生まれた日蓮が開いた宗派、それが日蓮宗(法華宗)である。
安房国小湊(現在の千葉県安房郡天津小湊町)の漁師の子であった日蓮は16歳で出家、
18歳の時に鎌倉へ行き念仏を学び、21歳の時には比叡山延暦寺へ赴いた。
なおも仏法の真理を求めるために諸国を巡り、やがて故郷の小湊へ帰り着く。
そして1253年、日蓮32歳にして新たな宗派を興すに至った。これが日蓮宗である。
日蓮宗の教えは、法華経の教えこそが仏教の真実で、題目(だいもく)と呼ばれる
「南無妙法蓮華経」の文言を唱える事が救いの道であると説いた。
法然・親鸞が念仏さえ唱えれば良い、としたのと同じく
日蓮宗は法華経さえ信じれば救われる、という非常にわかり易い教えである。
その一方、法華経以外の経典を信ずる事は誤った仏法であるとし、
「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」と他宗を徹底的に批判した。
法華経を信ずるあまりに過激な教えを説く日蓮は他の僧や地頭に嫌われ小湊を追われる。
それならば政権の膝下で宗派を広め、世を正そうと考え鎌倉へ乗り込んだ。
念仏や禅、旧来の宗派という誤った教えを民衆が信じる事や
悪政を施く幕府の政治こそが災害や飢饉といった天変地異を呼びこんでおり
日蓮宗の考えに従わなければ更なる災いが起こる、と唱える日蓮は
その熱心な言動で鎌倉庶民の注目を浴びたが、一方で幕府から疎まれる存在にもなる。
時の執権・北条時頼は禅宗を信仰しており、しかも攻撃的な日蓮の仏説は
御成敗式目にある「悪口の禁止」に抵触するものでもあった。
何より、幕府政治を批判し法華経を信じなければ国に災厄が及ぶとする意見は
人心を惑わし幕府に反抗する重罪人と見なされるもので、日蓮と幕府の対立は
日に日に深く重いものへと悪化していったのである。



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