承久の乱

事件は突然起こるものである。3代将軍・実朝が暗殺されたのだ。
源氏の嫡流は遂に絶えることになってしまった。
将軍なくして幕府の存続はあり得ず、政治は迷走を始めた。
御家人を統率して幕府政治を掌握しようと図る北条氏と
一気に幕府潰しを目論み暗躍する後鳥羽上皇。
その影に、尼将軍・北条政子が動き出す。


実朝暗殺 〜 源氏嫡流の断絶
1219年1月28日、実朝の右大臣拝賀儀式が行われた。
この日の鎌倉は雪の積もる静かな日で、夜は闇に閉ざされていた。
源氏の氏神・鶴岡八幡宮に参拝した実朝は、守役の仲章と2人で
参道の階段を降りる途中、木陰に隠れていた何者かに闇討ちされた。
突然の出来事に反撃も為らぬまま実朝は絶命、仲章も共に殺害されてしまった。
犯人は頼家の遺児・公暁(くぎょう)である。
公暁は実朝が父である頼家を陥れて将軍職を奪った上、
修善寺に幽閉・暗殺したものと逆恨みしていたのだった。
ところが事件の直後、公暁も何者かに殺される。
全ては源氏の血脈を断ち幕府政治を簒奪しようとする
一部御家人らの謀事だったのだ。こうして源氏は滅亡、
幕府は御家人らの合議によってのみ運営されるようになってしまった。
鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)

鶴岡八幡は武家の守護神として
東国武士の篤い信仰を受けてきた大神社。
鎌倉市街地を平安京に見たてると
大内裏(天皇居所)に相当する位置に鎮座する。
それだけこの神社が重要で神聖なものだと言えるだろう。
実朝が暗殺されたのは楼門下の階段で
丁度この写真の撮影位置にあたる。

摂家将軍の擁立 〜 後鳥羽上皇の思惑
先にも書いた通り、幕府とは将軍を首班とする幕僚会議機構である。
然るに、首班となる将軍がいなくては幕府として成り立たない。
源氏嫡流が途絶えた今、早急に新将軍を擁立しなくてはならなかったが
御家人中心の政治体制が確立している以上、将軍になるのは誰でも良く
「飾り物として権威だけある人物」が望まれた。体裁を整えようとした北条氏は
京の朝廷へ使いを送り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えたいと申し出た。
幕府に真っ向から反対する上皇はこの提案を即刻拒絶。
仮の将軍ならば、と摂関家からわずか2歳の三寅(みとら)を送り出した。
同時に、密かに西国武士へ声をかけて幕府潰しの軍勢を集め始めた。
手なづけようとしていた実朝が死しては、今まで幕府に目を瞑ってきた意味が消えてしまい
新たな方策として幕府そのものを解体しようと試みたのだ。
しかし、精強な東国武士を束ねる鎌倉幕府は一朝一夕で倒せる相手ではない。
今まで通り表面上は平静を装いつつ三寅を仮将軍に立てて時間を稼ぎながら
裏では倒幕準備を真剣に計画し実行へ移そうとしていたのだった。
一方、右も左もわからない幼児を迎えた鎌倉幕府、
頼朝の未亡人・北条政子が三寅の代理を務める事になり
「尼将軍(あましょうぐん)」と呼ばれるようになっていた。
なお、将軍を摂関家から迎えたので、これを摂家将軍(せっけしょうぐん)と言う。

承久の乱 〜 尼将軍政子の演説
1221年、遂に後鳥羽上皇・藤原秀康(ふじわらのひでやす)らは倒幕の兵を挙げた。
これを受けた幕府では御家人を緊急召集、鎌倉へ集合させる。
「御恩と奉公」とよばれる封建的主従関係がある以上、
幕府の一大事において御家人達は我先に鎌倉へ懸けつけた。
「いざ鎌倉」とは武士たちが主(鎌倉幕府)の為に何を置いても尽くす心構えを表す言葉だが、
今回の事件はまさに「いざ鎌倉」という事態の発生であった。
参集した御家人たちを前に、尼将軍政子が演説をするのはこの時である。
朝廷は幕府を討伐すると兵を挙げた。それを大事と思う者は朝廷方へつけ。
されど、武士が安心して土地を治め政治を行えるように苦労したのは頼朝であり
その頼朝が心血注いで築き上げた幕府を残すべきと思う者はここに残れ。
武士の安泰を第一に考えた頼朝の恩は海よりも深く、山よりも高いはずであり
頼朝の恩に報いようとするならば一致団結して倒幕軍を打ち倒せ、という内容であった。
この演説に感極まった御家人たちは全力を上げて倒幕軍を迎撃、
東海道・東山道・北陸道の三方面から軍勢を進めて京を制圧し上皇方を打ち負かした。
この事変を当時の元号から承久の乱(じょうきゅうのらん)と言う。

戦後処理 〜 六波羅探題の設置と新補地頭
乱後、鎌倉幕府は朝廷に対して厳しい処断を下した。
朝廷政治を牛耳っていた後鳥羽上皇を隠岐に流罪とし
土御門上皇を土佐(現在の高知県)へ、順徳上皇も佐渡へ流刑とした。
また、朝廷の監視を強化するため従来の京都守護に代わり
六波羅探題(ろくはらたんだい)の職制を設置した。六波羅とは京都にある地名で
ここに幕府の出先機関を設置した事がこの名の由来である。
義時の嫡子・泰時(やすとき)と、義時の弟・時房(ときふさ)が任命され
京都の朝廷と西国武士に厳しい監視の目を光らせるようになった。
その西国だが、倒幕軍に加勢した公家や武士の土地はことごとく幕府に没収され
そうしてできた新たな幕府領土を東国武士に恩賞として与えた。
後鳥羽上皇の倒幕は、皮肉にも幕府体制の強化へと転じてしまったのである。
承久の乱後、新たに地頭職に任命された者を新補地頭(しんぽじとう)と言う。
(旧来の地頭は本補地頭(ほんぽじとう)と呼ぶようになる)
新補地頭には従来とは異なる課税率が適用され、潤沢な収入を得られるようになった。
この新税率に関する法を新補率法(しんぽりっぽう)と言う。
さらに、承久の乱に敗れた事で朝廷の政治力は皆無になり、武士の専断が著しく進む。
地頭は新補率法どころか自分の好きなように土地支配を行なうようになって
土地は地頭の私有地化し、完全に武士の世の中へと変わっていくのだった。

五摂家の成立と摂家将軍の不満
1224年に北条義時が亡くなり、泰時が執権に就いた。同時に連署(れんしょ)の役が作られ
これには時房が任じられた。連署とは執権の後見役で、北条一門の中から選ばれた。
つまり、事実上幕府の頂点に立つ執権とその補佐役である連署は共に北条氏が占め
幕府機構は北条一門によって運営されるようになったのである。
翌1225年には執権・連署の諮問機関として評定衆(ひょうじょうしゅう)を設置。
評定衆の合議を執権が採決する、という評定会議機構が整った。
では将軍は?と言えば、1226年に三寅が元服し九条頼経(くじょうよりつね)となり
正式に4代将軍の位に就いたが、所詮は飾り物で実権は全くなかったのだ。
ところで、先に三寅は「摂関家から迎えた」と記した。摂関家=藤原家なのだから
頼経の苗字は藤原とするべきである。確かに、それでも間違いではない。
が、平安末期から鎌倉時代初頭にかけて藤原氏は5派に分立。
近衛(このえ)・鷹司(たかつかさ)・九条・二条・一条の5家である。
このため、以降の時代では藤原ではなくそれぞれの氏を名乗る事になるのだ。
1252年に五摂家(ごせっけ)の分立が確定、そのうち頼経は
九条家の血筋にあたるため九条頼経と呼ばれるようになった。
当然、頼経の子で5代将軍となる頼嗣(よりつぐ)も同様である。
5代将軍頼嗣の即位には複雑な経緯がある。自らが傀儡である事を悟った頼経が
度々に渡り北条氏に反抗し将軍権威の奪還を目論んだために
逆に北条氏からその地位を剥奪され、頼嗣へと譲位させられたのである。
が、頼嗣もまた物心つき政治に関与するようになると
父・頼経と同様に反北条氏の念を募らせるようになるのだった。
こうした摂家将軍と執権北条氏との確執は、さらに難解な権力闘争を惹起するようになり
後に摂家将軍を廃し、親王将軍の擁立へと動いていく。

御成敗式目の制定 〜 武家典範の基礎
北条氏による幕政機構が整ったとはいえ、政治運営はそれほど簡単なものではなかった。
このため、幕府の基本法となる新たな法律制定が必要となり
1232年に御成敗式目(ごせいばいしきもく)が泰時によって作成・制定された。
貞永式目(じょうえいしきもく)とも呼ばれるこの新法は
日本史上初めての「武士による武士のための法律」である。
内容は守護・地頭らの職務規定から生活規範に至るまで細目に渡っており
従来の朝廷律令にも劣らぬ見事な出来映えであった。
式目作成にあたり、泰時は公家の法制もきちんと学習していたのである。
朝廷に対立も服従もしないという考えを貫いた泰時は頼朝と同じ政治姿勢で立法に対処しており
当の御成敗式目の中にも「何に拠らず頼朝公以来のしきたりを遵守すべし」という条文がある。
武士の基本法となる御成敗式目は以後の武家政治に強い影響を与えており
鎌倉幕府滅亡後も室町幕府の法制や戦国大名の分国法に趣旨を残し続けている。
大典を制定した泰時は1242年に死去。執権は経時(つねとき)
次いで時頼(ときより)に引き継がれ北条氏の権力基盤はますます固いものになっていく。
1246年、時頼の執権就任の年に名越光時(なごえみつとき)が謀反、
これには1244年に将軍職を退いていた九条頼経も加担していたが
北条氏はこの反乱を難なく鎮圧し磐石の政治体制を見せつけた。
翌1247年には北条氏に次ぐ幕府実力者であった三浦泰村(みうらやすむら)も討伐、
宝治合戦(ほうじがっせん)と呼ばれるこの戦いに敗れた三浦一族は滅亡した。
1249年に引付衆(ひきつけしゅう)という新たな訴訟機関を制定した北条時頼の執権政治は
鉄壁の固さと強大な権力を誇って邁進していく事になる。

北条氏系図

北条氏系図 (赤字は女性) ―は親子関係 数字は執権継承順 下線は得宗



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