北条氏の台頭

行家や義経を抹殺したように、
頼朝のもう一人の弟である範頼も1193年に暗殺された。
このため、源氏の嫡流は頼朝とその子だけに限られた。
しかし、自分の血脈も絶えれば源氏そのものが絶えるという危険性に
頼朝は気づいていなかったようだ。
1199年、鎌倉幕府初代将軍である頼朝が死去。
2代将軍に嫡子・頼家(よりいえ)が就任したが…。


頼朝の死 〜 謎多き落馬事故
1199年、鎌倉幕府開設者の源頼朝が死去した。
相模川(神奈川県中心部を縦貫する一級河川)に架かる橋の落成式へ出席した際に落馬し、
それがもとで亡くなったと言われている。しかし、武家の棟梁たる征夷大将軍ともあろう者が
馬から落ちて死亡するなどという事は、少なからず不自然なものがあるだろう。
このため、頼朝の死には様々な憶測が飛ぶ。
義経の亡霊が祟って馬から落ちた、などという空想論的なものや
かねてから得ていた病が偶然発症して落馬した、などというものもあるが
一族や配下であろうとも冷酷に処断する厳しさが怨まれて暗殺された、とか
鎌倉幕府を我が物にしようとする一部御家人勢力に排除された、とする説が有名である。
しかし、いずれの説も想像の域を出るものではないので、確たる証拠は何もない。
ともあれ、頼朝の死によって鎌倉幕府の運営は新たな局面を迎える事になる。
将軍の位は頼朝の嫡子・頼家が継承し、それと共に有力御家人の発言権が増大していくのだ。
ちなみに、頼朝を振り落とした馬が暴れて川に飛び込んだという説話から
相模川には「馬入川(ばにゅうがわ)」という別名が付けられている。
旧相模川橋脚
旧相模川橋脚(神奈川県茅ヶ崎市)

相模川は時代の変遷を経て、現在は
鎌倉時代より西側に流路が変移している。
1923年9月1日の関東大震災で
当時の高座郡茅ヶ崎町近辺には液状化現象が発生し
地中に埋もれていた鎌倉時代の相模川橋脚痕が
地表面へ露出するようになった。
無論、現存する橋脚遺構物として最古のものである。

十三人の合議制 〜 将軍頼家との確執
2代将軍となった頼家は未だ若年で、政務を執るには未熟であった。
物心ついた時には既に幕府機構が成立していた、という頼家は
頼朝の政治的苦労など露知らず、勝手気ままに行動するのが常であり
ゆえに御家人らは経験不足の頼家が幕府の頂点に立つ事を不安に感じていた。
このため、頼家が成人し実務能力を身に着けるまでの間は
北条時政や和田義盛、大江広元ら有力御家人が合議し政治を執り行う事が決定された。
こうして1199年4月、十三人の合議制と呼ばれる幕閣会議制度がスタートする。
一方それを聞いた頼家は激昂。父・頼朝が築いた幕府を嫡子の自分が継承するのは当然と考え
この合議制度に真っ向から反発した。御家人の意見を無視し、我侭放題の政治を行うようになる。
幕府の要職にある御家人たちと、自分が中心と考える頼家との溝は大きくなるばかりであった。

梶原景時の敗死 〜 頼家幽閉さる
有力御家人の中で、頼家に媚びへつらい合議制に異議を唱える人物がいた。
侍所別当の梶原景時(かじわらかげとき)である。
景時は頼朝存命の時から将軍に取り入り、和田義盛から侍所別当の職を奪っており
今回も独善的な頼家の御機嫌を伺って栄達を図ろうとしたのである。
こうした景時の態度に他の御家人は憤慨。特に侍所別当の職を盗られた義盛の怒りは強かった。
有力御家人66人は景時訴追の連判状を作って結束し、1200年に景時を鎌倉から追放してしまった。
これには乱暴を尽くす頼家に対する恫喝の意味も含まれていた。
何から何まで御家人に逆らう頼家は、独裁を働き他の者の意見など聞こうとしなかったのだ。
ちなみに、鎌倉を落ちた景時は京へ向かったが、途中の駿河国(静岡県東部)で謀殺された。
この時に景時を討った御家人、吉香(きっか)氏は幕府から功績を認められ
安芸国(広島県)に領地を与えられた。この吉香氏が代を重ね
戦国時代の安芸毛利氏家臣・吉川(きっかわ)氏へと繋がっていく。
景時の死によって侍所別当には和田義盛が復職した。
話を元に戻そう。景時敗死後の1203年8月、頼家は病を得て出家。
それでも権力を放そうとせず御家人と対立し続けたため、
遂に頼家は北条時政らによって伊豆修善寺に幽閉された。
幕府運営の円滑化を図る時政は、翌1204年に頼家を修善寺で暗殺し
鎌倉幕府は御家人たちが完全に権力を握る時代になったのである。

北条氏の他氏排斥 〜 執権権力の集中
幕政は有力御家人らの合議制で進められるようになっていたが、
そうした御家人の中でも源氏と縁戚である北条氏は特に抜きん出た存在で、
将軍補佐の職として設置された執権の座にあった。さらには他の有力氏族を次々に討ち
次第に幕府の全権力を集中させるようになっていくのである。
1200年の梶原景時敗死に続き、1203年には比企能員(ひきよしかず)を謀殺。
同年には将軍頼家も幽閉している。さらに1205年、源平合戦の功労者である
畠山重忠(はたけやましげただ)とも争い、敗死させた。
梶原氏・比企氏・畠山氏らはいずれも頼朝の信頼が篤く、北条氏と並ぶ強大な御家人であったが
それらを討ち滅ぼした事で北条氏の権力独占が進んでいった。
こうしたあまりに露骨な時政の政治姿勢は諸人の反感を買い失脚したが、
跡を継いだ子の義時(よしとき)によって北条氏の勢力はさらに増大していく。
既に義時は執権・政所別当の職を兼ねており、次に狙うのは和田義盛の侍所別当職であった。
これに危機感を募らせる義盛は北条氏と対立。遂に1213年、義盛は北条氏打倒の兵を挙げた。
しかし、頼みとした三浦義村(みうらよしむら)は義盛を裏切り義時に味方し
義盛の息子・義直(よしなお)も討死。希望を断たれた義盛は突撃を敢行し戦死した。
和田合戦と呼ばれるこの戦いを制した義時は、念願の侍所別当の地位も手にした。
北条氏は鎌倉幕府第一の実力者に伸し上がったのである。

3代将軍実朝 〜 実権なき将軍
鎌倉を追放された頼家に代わり、1203年に3代将軍を襲職したのが
源実朝(みなもとのさねとも)である。実朝は頼家の弟で、源氏の棟梁にありながら
武芸よりも学問や芸術に傾倒するきらいがあった。そうした実朝の学問師範となったのが
後鳥羽上皇から遣わされた源仲章(みなもとのなかあきら)である。
(ちなみに、実朝の名付け親は後鳥羽上皇)
仲章は同時に幕府の内部情報を後鳥羽上皇に伝える密命も担っていた。
上皇は朝廷の復権を模索し、密かに幕府への反感を持っていたのだった。
しかし、表面上は平静を装い鎌倉の動向を見守っていたのだ。
さてその実朝だが、将軍とは名ばかりで実権は北条氏をはじめとする御家人に握られていた。
自ら政治を見ようと試みても御家人の合議による施政は強く、実効的な政務は行えないし
いっそ鎌倉を離れ華やかな宋(当時の中国大陸正統王朝)へ渡ろうと大舟を建造しても
設計の失敗で海には浮かばず、何一つ満足に成功しない哀れな将軍であった。
そうした実朝の唯一とも言える順調な進展、それは朝廷官位の昇進である。
実朝は朝廷権威を利用して御家人勢力を押さえようと考え、
後鳥羽上皇は将軍・実朝を手なづけて幕府を押さえようとしたのだ。
1211年1月に非参議、1216年6月に権中納言、1218年1月に権大納言、
さらに1218年10月に内大臣、1218年12月には右大臣にまで出世した。
これは不気味なまでの昇進スピードであり、逆に波乱を呼ぶ雰囲気まで漂っていた。

鎌倉幕府将軍関係図

鎌倉幕府将軍関係図 (赤字は女性) ―は親子関係 =は婚姻関係 数字は将軍継承順



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