鎌倉幕府の成立

「いい国(1192)作ろう鎌倉幕府」という暗記方法で覚えられる
1192年の鎌倉幕府開設は、誰でも知っている有名な歴史の年号である。
しかし、平氏の滅亡が1185年
奥州藤原氏の滅亡が1189年であるから
鎌倉に幕府が開かれるまでさらに3年の歳月がかかっている事になる。
頼朝がこれだけの時間をかけなければならなかった理由、
そしてこれだけの苦労を費やして開かれた鎌倉の幕府機構とは
いったいどのようなものであったのか。


後白河院と源頼朝 〜 頼朝の抑圧
全国武士の平定を終えた頼朝は、1190年に上洛し後白河法皇と会見した。
この席上、法皇は頼朝に右近衛大将(うこのえのだいしょう)の官職を与えた。
右近衛大将とは、皇居警備を職務とする右近衛府の長官である。
しかし全国武家の棟梁に立つ頼朝が、それだけの役職にしか値しないはずはない。
頼朝としては朝廷軍事の一切を取り扱う征夷大将軍の官職を望んでいたのである。
ところが後白河法皇はその希望を叶えず、格下の役職に置き留めた。
かつて白河法皇が八幡太郎義家を抑圧したように、後白河法皇も頼朝を抑圧し
武士勢力の増大を食い止めようとしたのであった。頼朝は1ヶ月間京に逗留したが
朝廷との折衝にこれ以上の進展が望めないとして、鎌倉へ帰参。
この時、右近衛大将の職も辞して不快感を露にした。
“政界の黒幕”後白河法皇は、何があろうと頼朝を征夷大将軍にはしない腹づもりであった。
こうして、頼朝の幕府開設はいたずらに時間を費やす嵌めになっていったのだ。
しかし、頼朝も無為に時を過ごした訳ではない。
既に守護・地頭は全国に展開し、政治制度としての機構は整いつつあった。
きたるべき幕府開設の時期を見据え、頼朝は制度の充実を図っていったのだ。

鎌倉幕府開設 〜 武家政権の誕生
2年後、巨星は墜ちた。後白河法皇が没したのである。
重石の取れた頼朝は名実共に天下第一の権力者となり、
1192年7月12日、遂に征夷大将軍の職を任じられた。
これによって鎌倉に幕府が開設され、武家政権が日本史上初めて成立したのだ。
1192年から鎌倉幕府滅亡の1333年までを鎌倉時代と呼ぶ。
そもそも幕府とは、武家の総大将たる征夷大将軍を首班とする軍事幕僚会議を指し
武士が政権を握る世の中にあっては、武士の軍議=武士による政治会議を意味した。
朝廷工作や東国武士統率に心血を注いだ頼朝の苦労がようやく報われたのである。
とはいえ、頼朝が将軍の位に就く以前から既に幕府体制は確立していた。
筆頭となるのは言うまでもなく征夷大将軍、頼朝であるが
それを補佐するのが執権(しっけん)の職で、北条時政が任じられた。
将軍・執権の隷下には様々な機関が設置される。以下に列記しよう。

1.侍所(さむらいどころ) 1180年設置
幕府御家人の監督、守護の任免など軍事・警察機構を統括する部門。
武家支配の中枢と言える機関である。初代別当(べっとう、長官の事)は和田義盛。
のちに北条氏が世襲するようになる。

2.公文所(くもんじょ) 1184年設置 1191年より政所(まんどころ)と改称
幕府政治の中心となる部門で、一般政務や財政を担当。
地頭の任免はこの部署で行う。初代別当は大江広元(おおえのひろもと)
広元は識者として頼朝が直々に京から呼び寄せた学者である。
侍所と同じく、のちに別当は北条氏が世襲するようになった。

3.問注所(もんちゅうじょ) 1184年設置
訴訟・裁判担当部門。初代執事(しつじ、長官の事)は三善康信(みよしやすのぶ)
しだいに訴状受理と事務専門の機関へと変化していく。

4.京都守護 1185年設置
京都内外の警備や朝廷の監視を行う。尾張国以西の政務統括を兼ねた。

5.鎮西奉行 1185年設置
九州の軍事・行政・裁判を担当。

6.守護 1185年設置
諸国の治安維持・武士統率の役職。大犯三ヶ条(たいばんさんかじょう)を任務とした。
大犯三ヶ条とは、大番催促(たいばんさいそく、鎌倉や京都を防衛する為の軍事動員)
謀叛人の検断、殺害人の検断、の3つを指す。

7.地頭 1185年設置
国衙領・荘園の管理や納税事務役職。
下地(土地の事)管理権、検断(警察)権や年貢の徴収権を持つ。

8.奥州総奉行 1189年設置
奥州における御家人統括と幕府への訴状受理。

こうして整えられた鎌倉幕府の機構であったが、以後の政治事件や歳月の経過を受け
次第に追加や改編が行われていく。それについてはその都度、後の頁で述べていく事にしたい。

「武家政権」としての鎌倉幕府 〜 “武家統治機構”から“武家政権”への変容
なお、余談的説明になって恐縮だが「鎌倉幕府」というのは当初、あくまでも頼朝による
私的な“武家統治機構”であった。教科書的な説明ではいかにも「征夷大将軍に就任した事で、
日本の政権は朝廷から新たな統治機構へ一気に切り替わった」という感覚を持ってしまうが
この当時はまだそうしたものではなく、朝廷の統治機構の外部組織として幕府が組みあがり
その権威はせいぜい頼朝の影響が及ぶ東国だけに有効な程度、というものでしかなかった。
即ち、日本の公的な政治組織はやはり朝廷のみ、幕府というのは単に“武士団の統率組織”だと
いう事である。
遡ってみてみると、平氏政権は平清盛(平氏)が平安末期の退廃した世相の中、武力を以って
自らに都合の良い政権を樹立したものであり、形の上では(頼朝よりも早く)“武家の政権”を
作り上げた事になるが、その実、朝廷官位を平氏一門が独占する事で政権を握ったに過ぎず、
あくまでも武士が「貴族の政権を乗っ取った」形でしかなかった。よって、武士独自の政権とは
言えなかった上に、こうした“既得権益を奪われた”摂関家や院(皇族)の反発を招き、以仁王の
令旨へと繋がった訳だ。また、地方武士は自分達が開墾した土地を治めて生計を立てていたが
平氏らは“国司”あるいは“国主”として彼らを支配・統率する権を得た。しかしそれは朝廷官位を
名目的に振りかざし強権を発動する事に他ならず、地方武士から見ると「同じ武士にも関わらず
“一方的に”君臨する者」にしか見えず、これもまた平氏政権への反動へと繋がった。こうした中、
摂関家や院が「平氏に対抗し得る血筋」として見込み、地方武士が「新たな“武士の棟梁”」と恃んだ
存在が源氏、つまり頼朝だった訳である(そうでなければ伊豆に流された一罪人でしかなかった)。
頼朝は平氏を打倒する為、また、新たな時代の統治制度として配下武士団の統率機構を構築する
必要があった。こうして出来たのが幕府機構だが、これはあくまでも「頼朝が武士を統率する組織」で
しかなく(まだ)「武家政権」ではない。頼朝が将軍職を望んだのも、守護・地頭制度を導入したのも
こうした「統率機構」の後付的な権威付け(箔を付ける行為)でしかなく、幕府というものはまだ
政治性を持たぬ純然たる軍事組織でしかなかったのである。幕府が公的な統治機関として
認知されるには武士の地位が向上する必要があった為、なお数年の歳月がかかった上、
政権としての実効権能を有するようになったのは承久の乱(次々頁で解説)により朝廷権力が
封殺され、武士の統治が確定的になってからであった。

御恩と奉公 〜 封建的主従関係
前頁でも触れたが、武士の拠所となるものは領土である。
領土を保全してくれる者を主として認めて仕えるのだ。
では、鎌倉幕府機構における主従関係はどのようなものであったのか。
幕府の頂点に立つ“主”は将軍である。
“従”である御家人は、仕える理由なくして将軍を主として認める事ができない。
よって、将軍は御家人に守護や地頭の役職を与えた。
守護はその国の武士を統率する上級管理職であるし、
地頭は年貢収納権を持つ現実的な土地支配の利益を得られる役職であった。
守護・地頭に任じられる事は、幕府から領土を与えられる事を意味していたのだ。
しかも、守護・地頭の任免は幕府の専断事項であるため
朝廷や他の勢力から権利を剥奪される事はあり得ない。
頼朝が配下武将の統率を徹底し、朝廷から独立した政権を確立したのは
こういった主従関係を睨んでの事であった。
こうして、領土=御恩を与えられた御家人は幕府への忠誠を尽くすようになった。
将軍の任命によって恩を受けたからには、命を賭して幕府に仕えなくてはならない。
御家人は奉公として軍役・番役・公事役の義務を課せられた。
一朝事有らば、我先に鎌倉へ馳せ参じ幕府の為に戦う、それが幕府御家人の務めであった。
これが「御恩と奉公」と呼ばれる鎌倉幕府支配関係のあらましである。
「一所懸命」という言葉があるが、かけがえのない土地を与えられたからには
命を懸けて職務を全うする御家人の在り方から生まれた言葉である。
(「一生懸命」というのは誤って使われたまま通用するようになったもの)


★この時代の城郭 ――― 城塞都市鎌倉:武士の都
頼朝はなぜ鎌倉に幕府を開いたのであろうか。
朝廷の政権は京都にあり、公家の動向を把握するならば
畿内に本拠を構える方が好都合のはずである。
にも関わらず、はるか関東の小さな町に過ぎなかった鎌倉に幕府が開かれたのだ。
鎌倉は頼朝の祖先にあたる頼義の時代から源氏が本拠にし、
岩清水八幡宮を分社して鶴岡八幡宮を創建しており、
関東武士を束ねるに好都合な都市であった事が理由だが
では、そもそも頼義が鎌倉に拠を構えたのは何故なのか?
相模国(現在の神奈川県南西部)の南部に位置する鎌倉は
南を相模湾に面し、東・北・西の三方は丘陵地帯で囲まれた町であった。
即ち、南の海=水濠、三方の山=土塁、と捉え、
町全体を一つの城として構成できる立地であったのだ。
武士は常に戦を意識し、居館の構えからして戦闘を考慮して建てる職種であるから
一族の本拠地となる町そのものが城郭として利用できる鎌倉は
まさに武家政権の開設地としてうってつけの場所であった。
しかし、平安時代までの都城制都市が
周囲をさえぎるもののない大平野に計画されたり、
戦国時代〜江戸時代のような城を中心として
その周囲に町屋が形成される城下町形態の都市とは異なり、
鎌倉は城(防衛機構となる外郭地形)と町が一体不可分になっている例であり、
これは日本史上において極めて稀な都市形態であると言える。
城壁となる外延部の山岳地帯は手をつけずに残さなければならず
その内側の僅かな平野部だけを集中的に開発するというのは
都市を繁栄させるための有効敷地面積が当初から限定される事を意味するので
都城制都市や城下町ではあり得ない手法なのである。
(都城制都市も城下町も町屋をできるだけ外へ広げていくのが通例である)
「武士による武士のための計画都市」それこそが鎌倉なのだ。
山と海に囲まれた鎌倉の町は、狭隘ながら頼朝の幕府開設後に目覚しく発展し
「公家の都」京都に負けない「武士の都」として整備された。
源氏の氏神となる鶴岡八幡宮を中心にし、その参道にあたる若宮大路は
さながら京の朱雀大路を意識したかのように真っ直ぐと海まで伸びている。
その周囲には幕府政庁の建造物や有力御家人の居館はもちろんの事、
京都に対抗するべく建長寺・円覚寺などの有力寺院が建立された。
長谷には奈良東大寺大仏のような大仏も造られており、
その大半は現在においても観光都市・鎌倉の象徴として残されている。
当然、町民地も繁栄し最盛期には3万人とも6万人ともいわれる人口があったらしい。
しかし、武家政権の本拠である鎌倉の町は如何に栄えようともその本質を固く守り
いたずらな開拓や乱開発は行われなかった。戦時の防衛構想を第一としていたため
山の切り崩しや海の埋め立てなどは一切なく、外部と鎌倉の町を繋ぐのは
「切通し」と呼ばれた数少ない山岳通路に限られていたのだ。
切通しとは、山の尾根を削り人工的な谷間を作った通路で
当時の切通しは人がすれ違うのがやっとというほどの狭い通路幅に設定されていた。
こうした切通しは合計7箇所。ゆえに「鎌倉七口(かまくらしちこう)」と呼ばれる。
仮に鎌倉の町が攻撃される事態が発生したとしても
この7箇所を封鎖して防備すれば鉄壁の守りを維持できるようになっていたのだ。
鎌倉幕府滅亡時、新田義貞(にったよしさだ)の軍勢が鎌倉の町へ殺到したが
どうしても切通しを突破する事ができず、干潮の一瞬にできた干潟から
(つまりは海岸線から)軍を侵攻させざるを得なかったという話は有名である。




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