★この時代の城郭 ――― 城塞都市鎌倉:武士の都
頼朝はなぜ鎌倉に幕府を開いたのであろうか。
朝廷の政権は京都にあり、公家の動向を把握するならば
畿内に本拠を構える方が好都合のはずである。
にも関わらず、はるか関東の小さな町に過ぎなかった鎌倉に幕府が開かれたのだ。
鎌倉は頼朝の祖先にあたる頼義の時代から源氏が本拠にし、
岩清水八幡宮を分社して鶴岡八幡宮を創建しており、
関東武士を束ねるに好都合な都市であった事が理由だが
では、そもそも頼義が鎌倉に拠を構えたのは何故なのか?
相模国(現在の神奈川県南西部)の南部に位置する鎌倉は
南を相模湾に面し、東・北・西の三方は丘陵地帯で囲まれた町であった。
即ち、南の海=水濠、三方の山=土塁、と捉え、
町全体を一つの城として構成できる立地であったのだ。
武士は常に戦を意識し、居館の構えからして戦闘を考慮して建てる職種であるから
一族の本拠地となる町そのものが城郭として利用できる鎌倉は
まさに武家政権の開設地としてうってつけの場所であった。
しかし、平安時代までの都城制都市が
周囲をさえぎるもののない大平野に計画されたり、
戦国時代〜江戸時代のような城を中心として
その周囲に町屋が形成される城下町形態の都市とは異なり、
鎌倉は城(防衛機構となる外郭地形)と町が一体不可分になっている例であり、
これは日本史上において極めて稀な都市形態であると言える。
城壁となる外延部の山岳地帯は手をつけずに残さなければならず
その内側の僅かな平野部だけを集中的に開発するというのは
都市を繁栄させるための有効敷地面積が当初から限定される事を意味するので
都城制都市や城下町ではあり得ない手法なのである。
(都城制都市も城下町も町屋をできるだけ外へ広げていくのが通例である)
「武士による武士のための計画都市」それこそが鎌倉なのだ。
山と海に囲まれた鎌倉の町は、狭隘ながら頼朝の幕府開設後に目覚しく発展し
「公家の都」京都に負けない「武士の都」として整備された。
源氏の氏神となる鶴岡八幡宮を中心にし、その参道にあたる若宮大路は
さながら京の朱雀大路を意識したかのように真っ直ぐと海まで伸びている。
その周囲には幕府政庁の建造物や有力御家人の居館はもちろんの事、
京都に対抗するべく建長寺・円覚寺などの有力寺院が建立された。
長谷には奈良東大寺大仏のような大仏も造られており、
その大半は現在においても観光都市・鎌倉の象徴として残されている。
当然、町民地も繁栄し最盛期には3万人とも6万人ともいわれる人口があったらしい。
しかし、武家政権の本拠である鎌倉の町は如何に栄えようともその本質を固く守り
いたずらな開拓や乱開発は行われなかった。戦時の防衛構想を第一としていたため
山の切り崩しや海の埋め立てなどは一切なく、外部と鎌倉の町を繋ぐのは
「切通し」と呼ばれた数少ない山岳通路に限られていたのだ。
切通しとは、山の尾根を削り人工的な谷間を作った通路で
当時の切通しは人がすれ違うのがやっとというほどの狭い通路幅に設定されていた。
こうした切通しは合計7箇所。ゆえに「鎌倉七口(かまくらしちこう)」と呼ばれる。
仮に鎌倉の町が攻撃される事態が発生したとしても
この7箇所を封鎖して防備すれば鉄壁の守りを維持できるようになっていたのだ。
鎌倉幕府滅亡時、新田義貞(にったよしさだ)の軍勢が鎌倉の町へ殺到したが
どうしても切通しを突破する事ができず、干潮の一瞬にできた干潟から
(つまりは海岸線から)軍を侵攻させざるを得なかったという話は有名である。
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