頼朝の政権構想

独裁を続けていた平氏政権を打ち倒した源頼朝は
新たな政権を確立するべく構想を練り始めていた。
源平の争乱を戦い抜いた武士たちが望むものは
武士による武士のための新政権樹立であったが
それを実現するにはまだ取り除かねばならない障害が残されていた。
侮る事の出来ない京の朝廷権威、
民衆と領地を統治するための体制整備、
そして何よりも、暴走しかねない配下の武士たちこそ
頼朝が制御しなければならない最大の問題であった。
平氏滅亡から鎌倉幕府成立までの数年、頼朝は如何に動いたのか。


武家の支配体制確立(1) 〜 頼朝の真の敵とは
平氏を倒す原動力となったのは剛毅さを誇る東国武士たちの力である。
そんな東国武士らは、領土を得るために戦うのであり
恩賞として領土を与えてくれる者を主と仰ぐのが当然であった。
という事は、今まで奉公していた主人よりも勢力を持ち
莫大な恩賞を与えてくれる者がいれば、そちらへ鞍替えする事もあり得たのだ。
また、常日頃は朝廷の権威を軽んじ、自らの武力を信条として生きていながら
朝廷から官位を与えられるとなると掌を返すように媚びへつらう風潮があった。
頼朝が武家政権を打ち立てるに際し、
そうした考えは実に危険であると言わざるを得ないのであった。
即ち、主に対し二心を抱かず絶対的服従を誓わせ
朝廷権威に対立も屈服もしない独自の統治機構に
東国武士団を組み込む必要があったのだ。
もちろん、源氏の棟梁である頼朝を軽んじる者などがいてはならない。
全国の武士にとって「共通の敵」であった平氏が滅んだ今、
頼朝から離反したり、自身の脅威となり得る人物を粛清すべき時期に来ていたのだ。
こうして抹殺された頼朝配下の武士に、上総広常がいた。
石橋山の敗戦後、2万もの大軍を率いて源氏軍の幕下に参入した広常であったが、
それは自分の勢力を誇示し頼朝に恩を着せる行為でしかなく
しかも朝廷権威を軽視し、傍若無人な振舞いを見せる人物と受けとめられていた。
朝廷にさえ従わない者が、頼朝に従い続けるはずがない。
実際、頼朝に面会した時も馬から下りず礼もしない有様である。
このため、“頼朝を軽んじる者”の最右翼として広常は謀殺された。
頼朝の政権確立は、確固たる信念に基づき、時に冷徹な方法で行われていったのだ。

武家の支配体制確立(2) 〜 朝廷対策
高位高官を望むあまり、平氏は武士でありながら朝廷機構に組み込まれ
都の政界で様々な陰謀に翻弄されるようになってしまい滅亡した。
性急に天下を狙った木曽義仲は、朝廷権威を軽んじるあまり
後白河法皇から逆賊の汚名を着せられ、追討を受け戦死するに至った。
武士が武士のために政治を行うならば、朝廷権威に屈することなく
朝廷権威を侮ることもなく、独立した統治体制を確立しなくてはならない。
頼朝は東国武士団を束ねる機構を整えるため、朝廷との関係を重要視していた。
つまり、武力を背景として(要は脅迫で)武家政権樹立を認めさせる。
しかし朝廷権威を傷つけ無用の誤解を招くようなものであってはならない。
微妙な舵取りが要求されていたのである。
そのための鍵となるのが三種の神器であった。
源氏に追われた平氏が安徳天皇を伴い都落ちした1183年、
朝廷権力空白を埋める為に後鳥羽天皇が即位していたが
皇位の象徴である三種の神器は平氏が保持したままで、後鳥羽帝の手元にはなかった。
すなわち、平氏が壇ノ浦に没するまでの2年間は
三種の神器を持ちながら権力を失い都落ちした安徳天皇と
京の都で即位しながら皇位の証明である三種の神器を持たない後鳥羽天皇という
2人の天皇が両立していた事になる。
もし頼朝が平氏から三種の神器を奪還し、後鳥羽帝に献上できれば
朝廷に恩を着せる事ができ、朝廷の意見を封じ得るようになった筈である。
このため頼朝は、平氏追討軍を指揮する義経に三種の神器完全奪還を厳命していた。
然るに、その三種の神器はどうなったかと言えば―――。

義経追討令 〜 頼朝vs義経、血塗られし兄弟の宿命
神懸り的な采配で壇ノ浦に平氏を滅ぼした義経といえど、三種の神器を探すのは困難を極めた。
八咫鏡を平氏軍船の中で発見、八坂瓊勾玉は梱包していた箱が海に浮いていたため回収できたが
天叢雲剣はどこを探しても見つからなかった。恐らくは海中に没したものと推測される。
鏡と勾玉を手土産にすれば十分な成果だ、と義経は考えただろうが
剣が欠ける事により朝廷へのプレゼンス効果を得られなくなるので
頼朝にとっては何の意味もない事であった。
満足な成果を挙げられない義経に対し、頼朝の怒りは頂点に達した。
そもそも後白河院から検非違使の職を受けた時に
「頼朝の指揮系統を逸脱する行為」と激しく糾弾されていた義経は
上に記したような「頼朝を軽んじる者」として認識されつつあったのだ。
そこへ「三種の神器の完全奪還ならず」の報があっては、
頼朝は弟である義経も軍の規律に照らして処罰せねばならなかった。
いやむしろ、弟なればこそ処断しておかなくてはならない。
天才的な義経の武威は「頼朝に対抗する源氏の嫡流」として
諸国の武士に崇拝されるようになってしまうからだ。
頼朝の本拠である鎌倉へ帰参しようとする義経であったが、
遂にその許しは出ず、京へ引き返さねばならなかった。兄の憎しみを受けた義経は
最後の手段として後白河院に取り入り頼朝の打倒を目指すようになった。
源氏を手玉に取ろうとする後白河法皇は1185年10月、義経に頼朝追討の宣旨を与える。
法皇は政界の黒幕として朝廷・武家の両方を御する腹であり、
しかも寵愛する義経の願いならばと一も二もなく院宣を与えたのだ。
ところがこれを受けた頼朝は逆に義経追討の許可を後白河法皇へ願い出た。
義経の裏工作を潰し、朝廷のお墨付きを貰って義経抹殺の行動に出ようとしたのである。
源氏の総領は言うまでもなく頼朝、戦となれば頼朝方に付く軍勢が多いのは明白であり
強大な軍事力を有する頼朝と敵対するのは後白河法皇にとっても命取りだった。
よって、11月に義経追討の院宣が出され、頼朝追討の院宣は撤回される。

守護・地頭設置 〜 鎌倉幕府設立への準備
義経追討令を得た頼朝は、この機会を最大限に利用した。義経追討令が出た同月、
義経のような謀反人を取締るための役職、守護(しゅご)と地頭(じとう)の設置を
朝廷に認めさせたのである。守護は治安維持・武士統率のための職式。
地頭は荘園管理や税収担当のための職式で、従来あった朝廷や貴族の土地管理に食い込んで
頼朝の武家政権が独自に任免するものであった。こうした守護・地頭を全国に配置する事で
武士による土地支配体制が整い、頼朝の命令が諸国に行き渡るようになったのだ。
守護・地頭は頼朝の配下にいる武士、すなわち御家人(ごけにん)から選ばれた。
形の上では地頭職が朝廷や貴族が旧来から行ってきた土地支配制度、
つまり国司や荘官(しょうかん、荘園管理の責任者)の役を務めるようになるので
地頭は朝廷政治と武家政権の両者に支配を受けるようになっている。
簡単に言えば、頼朝の任命した者が国司・荘官として仕事をし
国(朝廷)や貴族への年貢収納事務を管理する役職が地頭である。
しかし、武家政権の成熟が進むにつれて朝廷支配は実際の効力を失っていくので
次第に武家独自の支配体制が取られ、土地は地頭の私有地化が進むようになっていった。
現実に土地を支配している地頭が武力を背景に年貢収益を横領し
名義上の土地所有者であるはずの国や貴族への納税を怠るようになるのだった。
いずれにせよ、農民にとっては朝廷からの支配と武家政権の命令、
つまりは二重の賦役を負担させられるようになり、
従来よりも複雑で重い年貢役・公事役・夫役・兵役を強いられるようになってしまったのだった。

義経の逃避行 〜 勧進帳、判官贔屓、数々の英雄伝説
義経のように、自分以外の一族が源氏棟梁の地位を奪う存在になる事を恐れた頼朝は
名のある一門衆を葬るべく行動を開始した。頼朝以外に源氏は要らず、
頼朝以外に棟梁なし、としたのである。このため1186年、源行家が暗殺された。
義経にとって、今や頼朝は血を分けた兄ではなく
本気で命を狙ってくる恐ろしい敵になったのだ。
さらに上記のように守護・地頭が全国へ展開。朝廷からの追討令も出され
安住の地を失った義経は、やむを得ず逃避行を開始する。
守護の支配を受けず頼朝の脅威を回避できる土地、それは北にあった。
少年時代に身を寄せた、奥州の藤原秀衡を頼ったのである。
平氏が滅び、義仲が討たれ、朝廷が頼朝に迎合しようとも
奥州藤原氏だけは秀衡を中心に相変わらずの独立を保ち続けており
如何に頼朝であろうと東北地方だけは手が出せない状況が残されていたのだ。
1187年、京を脱出した義経は僅かな従者を連れ、日本海沿いに奥州へ出発。
歌舞伎の演目となっている「勧進帳(かんじんちょう)」の話はこの時に起きた。
僧侶に扮して加賀国安宅関(あたかのせき、石川県小松市にあった関所)を突破しようとする
義経一行は、関所役人に疑いをかけられる。何とか誤魔化して関所を抜けようとした一行は
東大寺大仏再建の勧進(寄付を求める事)の旅である、と言い逃れをし
関所役人に向かって弁慶が白紙の巻物を広げて勧進記帳の文言を読み上げる。
猶も義経らしき人物に対し追求が及ぶと「お前のせいで勧進の旅が滞る」と声を荒げ
弁慶は義経を棒で打ち据えた。心の中で泣きながら主人へ狼藉を働く弁慶と
関所突破の為に演技する部下の思いを痛いほど理解し、無言でひたすら耐える義経。
固い絆で結ばれた主従の信頼を見届けた関守は、義経と知りながら見逃した。
最大の難関を突破した一行は、命からがらに秀衡のもとへ辿り着いたのであった。
安宅関跡
安宅関跡(石川県小松市)
勧進帳を題材にした像が置かれている
左:堪えながら打たれる義経
中:心を鬼にして殴打する弁慶
右:見届ける関守
ところが義経到着の数日後、頼みとした「みちのくの王」秀衡が死去。奥州には動揺が走る。
秀衡の後継者は決まっておらず、3人の息子が後継ぎ争いを行うようなったのだ。
この事態を冷静に見届けた頼朝は、義経と奥州藤原氏を一気に殲滅しようと計画する。
兄に逆らう義経、武家支配に従わない奥州藤原氏、共に消せば頼朝の全国支配が完成するのだ。
頼朝は藤原氏の出方を探るため、秀衡の後継筆頭と目された藤原泰衡(ふじわらのやすひら)
無用の争乱を避けたいならば、かくまっている義経を差し出せと脅しをかける。
奥州藤原氏の門跡を継ぐために頼朝の協力を得られる(と、考えていた)ならばと
泰衡は義経を討ち取る決心をし、1189年閏4月に刺客を放った。
衣川の義経居館には泰衡軍が押し寄せ、壮絶な戦闘が行われる。
義経を守ろうとする弁慶は、決死の覚悟で防戦を図り
遂には立ったまま討死したと言う。これが有名な「弁慶立ち往生」の話で
まるで生きているかのように睨みつける形相の弁慶を見て
寄せ来る泰衡の兵は恐れを為して近寄れぬ有様であった。
しかし多勢に無勢、平氏討伐に抜群の戦功を挙げた義経も非業の最期を迎えた。
源平争乱の麒麟児は、炎に包まれる館の中へ消えていったのである。
九郎判官こと源義経、享年31歳の若さであった。
平氏討伐第一の活躍をしながら、全国支配の邪魔者とされて実の兄に命を狙われ、
全国総ての武士から逃げなくてはならなかった悲しき義経の運命は
日本人の「切ない弱者を助けたい」と願う美意識に高揚され
「判官贔屓(ほうがんびいき)」の言葉を生み出した。
頼朝には「戦乱を終わらせ、天下安寧の支配体制を作り出す」大儀があったにもかかわらず
“儚く散った若武者”義経を担ぐ思いがそれよりも勝るのは日本人共有の情け深さであろう。
義経を生かしたいと願う人々の心はやがて数々の義経英雄伝説を作り出す。
「衣川から脱出し、北海道へ移って蝦夷の王者になった」
「義経は大陸へ渡り、騎馬戦術を活かしてチンギス=ハーンになった」
稀有壮大なこれらの伝承に裏づけは何もないが、
不遇な英雄に夢を託す人々の願いは、様々な義経伝説を今に残し続けている。
頼朝と義経
左:源頼朝像
右:源義経像
(いずれも顔部分抜粋)

奥州藤原氏滅亡 〜 頼朝の奥州遠征
最大の脅威となる義経を亡き者にした頼朝、最後の仕上げは奥州藤原氏の討伐であった。
東国武士による全国支配体制を完成させるには、独立勢力を保持する奥州といえども
例外なく服従させ、頼朝の支配地に組み入れなくてはならなかったのだ。
しかし、奥州藤原氏は代々に渡り朝廷から鎮守府将軍の職を与えられており
実質的放任とは言え、名目上は朝廷の臣下にある存在である。
武家の独断で奥州へ討伐軍を派遣する、
それは朝廷の官位制度を無視する事に繋がる危険が伴ったのだ。
頼朝の御家人らは逡巡する。朝廷の命令なくして奥州討伐が行えるのか?
ここで声を発したのが東国武士の見本とも言える大庭景義(おおばかげよし)であった。
景義は富士川合戦の直前に倒された大庭景親の兄。大庭兄弟は元々源氏配下の武将で
保元の乱では兄弟揃って義朝に従い崇徳上皇方の攻撃軍に加わっていた。
平治の乱で源氏が衰退すると、弟・景親は平氏へなびき頼朝に敵対したが
兄・景義は剛直なまでに源氏に尽くし、頼朝の旗揚げに協力していたのだった。
今回の奥州派兵にあたり、景義は「戦は将軍の命で動くもの、帝の命令ではない」と発言。
この一言が他の御家人にも火をつけた。頼朝軍は全軍一致で奥州を目指す。
頼朝としても、政界を牛耳る後白河法皇の顔色をいちいち覗っていては
奥州討伐どころか政権樹立も為し得ないと決心していた。
武家の統率は、朝廷とは無関係に行う事が肝要だったのである。
頼朝が自ら大軍を率いて奥州へ向かった事に、泰衡はうろたえた。
義経を討てば頼朝に奥州支配の公認をもらえると思っていたのだが、
事態は全く逆へと動いたのだから無理もない。が、頼朝はそんな甘い男ではなかった。
義経と奥州藤原氏、目の上のこぶを順番に一つずつ消していくだけの事である。
秀衡という大黒柱を失った奥州軍にかつての強さはなく、
頼朝の外交戦術を看抜けなかった泰衡を見限り寝返っていく者が続出。
義経の信頼を裏切った泰衡は、同じように味方兵に裏切られ討たれたのであった。
奥州藤原氏の滅亡により、保元の乱から続く長き戦乱の時代は終わりを告げ
ここに頼朝の全国支配体制が完成した。



前 頁 へ  次 頁 へ


辰巳小天守へ戻る


城 絵 図 へ 戻 る