平氏滅亡

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり
 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を表はす」
平氏の興亡を描いた有名な軍記物「平家物語」の冒頭部分である。
いかなる物事にも必ず最期は訪れ、総ては無に帰す。
絶大な権力で栄華を誇った平氏にも、滅びの時がやってきた。
諸国の武士は一丸となって蜂起、反抗し
斜陽の平氏軍は西へ西へと追い詰められていく。
「驕れる人も久しからず ただ春の夜の夢の如し
 猛き者も遂には滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ」
“夢に驕りし猛き者”平氏も遂には滅び、塵のように壇ノ浦へと消えていく…。


義経、検非違使に 〜 義経の宿命
一ノ谷の戦いで抜群の戦功を挙げた義経は後白河法皇に賞賛され、
検非違使の役職を与えられた。検非違使とは、京都の治安維持や訴訟・裁判を扱う職で
判官(ほうがん)とも呼ぶ。義経の事を「九郎判官(くろうほうがん)」と言うが
九郎は義経の元服名、判官は検非違使の役職に就いた事から呼ばれる通称である。
ところが、これを聞いた頼朝は激怒。頼朝の許可を得ずに後白河院から官位を受けたのは
「京都での勝手な振舞いは厳に禁止し、頼朝の命令を絶対忠実に守れ」とする言付けに背く。
義経が検非違使の職を受けたのは、頼朝ではなく後白河院の命令に従うものであり
引いては源氏軍全体の統率を乱すものとして懲罰に掛けるべき問題と受けとめられたのだ。
結果として義経は平氏追討軍から外され、西国には範頼軍だけが遣わされる事になった。
“血塗られた因縁”頼朝・義経の兄弟確執はこの時に始まる。
ただ一人たりとも自分の統率から外れる者は許さず、
全軍の絶対的統制機構を確立しようとする兄・頼朝。
自分も源氏の嫡流、戦功を挙げたのだから兄の許可を受けずとも
相当の褒賞があって当然と考えた弟・義経。
両者の反目は後に義経追討の悲劇へと繋がっていく。
それはさておき、義経ほどの軍才がない範頼は西国で苦戦。
慣れない西国で、しかも海上での戦闘が続き兵の士気は落ちる一方であった。
東国武者は馬上での戦を得意としていたため、軍船が競り合う海戦は不得手だったのだ。
一向に戦果が挙がらない範頼に業を煮やした頼朝は、止む無く義経の復帰を認めた。
しかしこれとて、戦略的に必要だからこそ義経の参陣を許可しただけの事であり
義経の事を許した訳ではなかった。平氏を滅ぼし、三種の神器を奪還しなければ
義経の帰陣も頼朝にとっては意味のない事であった。
ところが、義経は平氏追討への復帰に際し、頼朝の怒りは解けたと捉えていた。
両者の間には誤解が残ったままであり、
頼朝の真意を看抜けなかった義経には過酷な宿命が用意されていたのである。

屋島の合戦 〜 扇の的と那須与一
1185年2月17日未明、義経軍は摂津国渡部(わたなべ、大阪府大阪市)に集結していた。
平氏追討の軍勢を前に進めるためである。しかしこの日は天候不順で海は大荒れであった。
それにもかかわらず、義経軍は船を出す。逃げる平氏に追いつくには一刻の猶予も無かったのだ。
果敢に渡海した義経軍は四国は阿波国(現在の徳島県)勝浦に上陸、
北上して平氏軍が逗留する讃岐国屋島(香川県高松市)へ向かった。
2月19日、屋島で義経軍と平氏軍は激突。急襲を受けた平氏軍は一ノ谷と同じように、海上に逃げる。
屋島を占拠した源氏軍に対し、平氏軍は木の葉のように軍船で漂っていた。
夕刻、沖の平氏軍船には高々と一枚の扇が掲げられた。
源氏の武者が勇猛さを誇るなら、この的を矢で射てみよと凄んだのである。
波荒れて揺れる船に掲げられた小さな扇を射落とすのはほとんど不可能かに思われた。
しかしここで気遅れしては東国武士の名折れ、弓の名手として名高い
那須与一(なすのよいち)が単騎で浜へ勇み出た。
源氏の氏神・八幡菩薩に祈りつつ放った与一の鏑矢は真っ直ぐに突き進み
揺れる扇を射抜いて海へ落としたのだ。源氏の兵士は与一の見事な腕前を日本一と褒め称え
敵であるはずの平氏軍も船腹を叩いて称賛した。
合戦と言えどもどこか優雅さを醸し出す平安時代の逸話である。
翌20日、熊野水軍らが源氏方に味方し合戦再開。もちろん、勝利したのは源氏軍である。
敗れた平氏軍は海上をさらに西へと逃亡。
勢いに乗った義経の軍を阻める者はもはや誰もいなかった。

壇ノ浦の合戦 〜 平氏一門海の藻屑と消ゆ
逃げる平氏、追う源氏。そうした追撃も終わりを告げる時がやってきた。
1185年3月24日、長門国壇ノ浦、現在の山口県下関市の沖合が決戦の舞台である。
安徳天皇と三種の神器を抱える平氏軍は、最後の抵抗を見せるべく果敢に戦った。
一方、常勝無敗の義経軍も長き戦いにけりを付けるべく猛攻をかける。
有名な「義経八双飛び」の話はこの合戦での逸話である。
鎧兜で身を固めた義経が、次から次へと船に飛び移り敵船を蹴散らしたとされる話だが
相当な重量にもなる鎧兜を身に着けたまま実際に飛び回ったとしたら、
義経は実に超人的な体力の持ち主だったと言える。
戦いは一進一退、海上は軍船がひしめき合い勝敗の行方は読めない状況が続いた。
やがて、阿波水軍が平氏方を裏切り源氏方へ協力、
この時を境にして平氏は劣勢になり源氏軍は最後の総攻撃をかけるに至る。
戦況不利を悟った平氏、安徳天皇と共に首脳陣の逃亡を図った。
いかにも帝が乗っていそうな唐舟を囮に仕立て源氏方の注目を引きつけておき
その隙に小船数隻で九州方面へ脱出しようと目論んだのである。
当初は大きな唐船へ攻撃を集中していた源氏軍であったが、
この計略を看破、平氏軍本隊を察知してそちらへ攻撃目標を移した。
唐船が囮の船である事を看抜かれた平氏一門、もはや逃れる術はないと覚悟し
二位尼(にいのあま)こと平時子(清盛の妻)は安徳天皇を抱えたまま入水。
平氏軍の総指揮を執っていた知盛らも後に続いた。
海の藻屑と消えた安徳天皇、時に8歳の幼さであった。
わずかに生き残ったのは捕虜になった平宗盛(たいらのむねもり)のみ。
朝廷で高位高官を独占し、栄華を極めた平氏一門も数多の合戦で敗れ去り
遂に壇ノ浦で滅亡を迎えたのである。
平氏を打ち倒した頼朝が、名実共に日本の支配者となる時が訪れようとしていた。



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