源平の合戦(2)

石橋を叩いて渡るような頼朝に対し、
理屈より行動あるべしと動いたのが木曽義仲である。
山深い信州で育った彼は、戦闘など日常茶飯事の事で
天才的な直感と猛々しい武力で強大な軍事力を培ってきたのだ。
京の都に一番乗りし、天下に号令する大志を抱き
義仲は今、平氏打倒の軍勢を前へ進めていく。
果たして京の都に待つものは生か、死か。


義仲の挙兵 〜 倶利伽羅峠の火牛攻め
木曽義仲は義朝の弟・義賢(よしかた)の子で、頼朝の従兄弟にあたる。
義賢は一族内の争いで悪源太義平に討たれており、まだ乳飲み子だった義仲は
信濃(長野県)木曽へと落ち延びていたのだった。頼朝のように都を追われた身であったが
山深い信州で荒々しく育ち、「木曽の義仲ここに在り」とばかりに名を響かせた。
以仁王の令旨を受け、勢力回復の好機到来と1180年9月に旗揚げした義仲の軍勢は
信濃を北上しつつ兵力を増強、越後(新潟県)・越中(富山県)へと進軍していった。
北陸を領国として占め、ここを義仲軍に荒らされては壊滅する危機に瀕する平氏は
存亡を賭けた追討軍を編成し迎撃にあたった。1183年5月、平氏の大軍は義仲軍を押し戻し
越中・加賀(石川県南部)の国境で攻めぎあうようになる。
本拠の木曽で指示を出していた義仲は、ここが平氏との一大決戦と睨み自ら出陣。
砺波山(富山・石川県境の山)山腹の倶利伽羅峠(くりからとうげ)に布陣する平氏軍に向け
夜間、松明を角に縛り付けた暴れ牛の大群を山上から放ち、
牛ごと平氏の軍勢を奈落の谷底へ叩き落した。
勝つ為には手段を選ばない、残虐非道とも言える攻撃を仕掛け
倶利伽羅峠の合戦に勝利した義仲は、そのまま京へ軍を進めた。
着実に事を進めようとする頼朝とは違い、平氏のように京の都を占拠すれば
自分の下に天下が転がり込むと考えたのである。
一方、追討の大軍を全滅させられた上、領国のほとんどを義仲に奪われた平氏は
もはや反抗の術がなかった。1183年7月、京の都を放棄して
安徳天皇と三種の神器(さんしゅのじんぎ)を伴い西国へ落ちて行くのである。
この時、逃げる平氏は用済みの都へ火を放ったため、洛中は焼け野原になってしまった。
また、難を逃れるために後白河法皇は延暦寺へ逃げ込んだ。
完全な権力空白地帯となった京の都は、容易く義仲のものになったのだ。

三種の神器 〜 皇位の象徴
話は逸れるが、三種の神器とは代々皇室に伝えられた宝物で、
それを持つ者が天皇の位にある事を示す「皇位の象徴」である。
伊勢神宮に奉納された八咫鏡(やたのかがみ)、
熱田神宮に奉納された天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)、
出雲の宝玉である八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)の神器を複本した物なので
この3つの宝物を三種の神器と呼ぶが、常時厳重に梱包されており
所有者の天皇でさえ実物を見る事は許されない代物である。
ちなみに、天叢雲剣は通り名の草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ぶ方が有名。
八咫鏡には遠岐斯鏡(おきしかがみ)という別名もある。
神器の継承はもちろん現在においても続いており、
皇室典範に皇位継承時の規定として明記されている。

義仲追討令 〜 「田舎武士」の末路
平氏に叛旗を翻す者の中で、京の都へ一番乗りを果たしたのが義仲であった。
しかし勢い込んで入京した義仲軍は、焼け落ちた都を復興するどころか
民家に押し入り食料や財物を略奪する始末。性急な行軍は兵糧の調達に事欠き
平氏を追い出した自惚れから暴虐の限りを尽くしたのである。
義仲自身も京の貴族を侮り、無礼極まりない態度で振舞ったのであった。
実力を持たぬ貴族など、武士の足元にひれ伏すに違いないと考えていたのだ。
恐れを知らぬ「田舎武士」が都へ出た悲劇(喜劇?)である。
この義仲の考えは甘かった。
武力こそ無いとは言え、貴族の力はその権威と名声に宿るものであったのだ。
平氏以上の横暴さに堪りかね、後白河法皇は頼朝に義仲追討の命令を発した。
政界の黒幕・後白河院の指示は的を得ており、平氏でも義仲でもない
“分別と実力ある第三者”を上手く活用するものであった。
京の公家を敵に回したため、義仲は自身が逆賊として扱われる嵌めになったのである。
一方「都へ軍を進める大義名分」を得た頼朝は、満を持して軍勢を進発させた。
遠征軍の総大将は頼朝の弟である範頼(のりより)と義経。
義仲の二の舞にならぬよう、京都での勝手な振舞いは厳に禁止し
頼朝の命令を絶対忠実に守るようきつく言いつけた上での出陣である。
無論、義仲軍とは違い兵糧も十分に確保してあった。
頼朝軍の上京を知った義仲は、平氏追撃を中断し範頼・義経の迎撃に向かう。

宇治川の合戦 〜 佐々木高綱と梶原景季の先陣争い
1184年1月、両軍は宇治川を挟み激突。
この時、義経軍の先頭を切って突撃したのが梶原景季(かじわらかげすえ)
それに続くのが佐々木高綱(ささきたかつな)であった。
先陣の功を得ようと急ぐ両名、遅れを取った高綱は景季の腹帯が伸びていると指摘する。
気に留めて馬を降りようとした景季の脇をすり抜け、高綱が先頭に踊り出た。
高綱の言葉に惑わされ、景季は出し抜かれてしまったのである。
一方、待ち受ける義仲軍には秘策があった。宇治川の水底に大綱を張り
突入してくる敵兵を騎馬ごと絡め倒そうと罠を張っていたのだ。
これに気づいた景季、先陣を奪われたにもかかわらず
先を行く高綱に注意を促した。景季の助言により、高綱は罠の大綱を太刀で切断。
見事敵軍一番乗りを果たし、先陣の功を手にしたのである。
後続の軍勢も一気に渡河し、義仲軍を蹴散らした。
自分の手柄は逃しても、戦に勝つため協力を惜しまなかった景季の潔さが呼び込んだ勝利である。
敗軍の将となった義仲は戦線を離脱し近江へ逃亡。既に残る味方兵は無きに等しく
今井兼平(いまいかねひら)ら数名の近習が寄り添うだけであった。
義仲の妻、美貌の女将として名高い巴御前(ともえごぜん)も一行の中にいたが
全滅必至という状況の中、せめて女性だけでも助けたいと願う義仲は
巴を部隊から外し落ち延びさせた。この直後、近江国粟津(滋賀県大津市)で戦死。
京の都へ入る時機を見誤り、不運な最期を遂げた義仲であったが
「死出の旅路におなごを巻き添えにできぬ」としたその心は
勇猛さから朝日将軍と謳われ、愚直なまでに男道を貫いた武将ならではのものであった。

一ノ谷の合戦 〜 鵯越の逆落し
義仲に代わり、範頼・義経が京を制圧。専横を極めた平氏軍、暴虐をはたらいた義仲軍とは違い
頼朝指揮下の軍勢は極めて紳士的であった。兵糧は東国から持参し、兵の乱暴はきつく戒めており
平穏な生活を取り戻した都の民はこぞって義経らを歓迎した。
特に後白河法皇の信任は篤く、義経らに平氏追討と三種の神器の奪回を命令。
これを受けた頼朝軍は早速平氏の追撃に向かうのであった。
一方、当の平氏は一時西国まで逃亡したものの、義仲対頼朝の情勢を見て
旧都福原まで兵を戻していた。京の都の動乱を睨み、また、あわよくば後白河院に取り入り
敵勢力との和議を図ろうと模索していたのである。和議が叶えばすぐにでも入京する腹であった。
ところが、のんきに福原で静観の構えを取っていた平氏軍に義経軍が接近したのである。
福原京の背後は一ノ谷と呼ばれる急峻な崖で、この絶壁上に義経の騎馬兵は集結。
この崖を下れば平氏軍に反撃の機会を与えず襲いかかる事ができた。
しかし鵯越(ひよどりごえ)と呼ばれる絶壁を下るのは至難の技。
地元の猟師に崖を下りる方法を質問するが、「鹿は通うが馬は無理」との答えであった。
が、この返答を聞いた義経は即座に決断。「鹿が行くなら馬も行ける」と一目散に飛び込んだ。
総大将自らが崖に突入するのを見て、後続の騎馬もこれに追随する。
兵馬の訓練を絶やさなかった東国武士は怖いもの知らずであり、
平氏討伐のため果敢に攻撃を仕掛けた。
よもや背後の崖から騎馬軍が突入してくるとは思っていなかった平氏、
完全な奇襲攻撃を食らい海上へ逃亡。福原京を放棄し、軍船で放浪する嵌めになり
またもや西国へと落ち延びる事になってしまった。時に1184年2月の事である。
一ノ谷の合戦で敗れた平氏、京の都へ帰参する望みは完全に断たれたのである。

青葉の笛 〜 敦盛悲話
この一ノ谷の合戦で有名な悲話が「青葉の笛」の話である。
鵯越から突入した源氏軍に敵わず逃亡する平氏は、我先に軍船に乗ろうと浜へ走る。
逃すまいと追撃する源氏の将に熊谷直実(くまがいなおざね)の姿があった。
勇猛果敢な東国武士の典型と言える直実、逃げる平氏軍の中に大将とおぼしき人物を発見し
「大将たる者が敵に後ろを見せ逃げるのか」と一喝。
この声を聞いたその者は、逃げるのを止め直実に一騎討ちを挑んだ。
馬上で太刀を交わし、落馬した後に組討をする両者。が、剛毅な直実は遂に敵将を組み伏せた。
首を撥ねる前にせめて敵将の顔を、と覗き込んだ直実は愕然とする。
捕らえた敵将はまだ年端も行かぬ若武者で、自分の子と同じ年頃のあどけなさを残していた。
まるで我が子を手にかけるような思いに駆られ、躊躇する直実。
一方、組み伏せられた若き大将は叫ぶ。「何をしておる、早く討て!」
落ちぶれし平氏といえど、武士としての最期をまっとうする覚悟であった。
悲しさに引き裂かれながらも、直実は敵将の首を討ち取った。
若武者の名は平敦盛(たいらのあつもり)。腰に差していた青葉の笛に記されていた名で、
その笛の音の美しさには誰もが聞き惚れたと言われる人物である。
敵将を討ち取ったものの、自責の念にとらわれた直実は
平氏滅亡後、敦盛の供養に一生を捧げたと言う。




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