源平の合戦(1)
平氏の専横に耐えかねた皇族・貴族らは
ついに反平氏包囲網を敷くべく行動を開始した。
これに呼応する全国の武士はこぞって兵を挙げる。
特に、平治の乱以降平氏の目を避けて雌伏していた源氏は
今こそ復活の時とばかりに蓄えてきた力を爆発。
その中でも最も有力な軍勢を誇ったのが源頼朝一党であった。
伊豆の流人であったはずの頼朝は
平氏打倒の旗印を掲げ、東国武士を束ねていく。
以仁王の令旨 〜 諸国の武士よ、平氏を討て!
平氏の横暴に不満を抱く者は多く、怨嗟の声は都に満ちるようになっていた。
後白河法皇の皇子、以仁王(もちひとおう)もそうした反平氏の考えを持つ一人である。
憤懣やる方ない以仁王は、1180年4月に諸国の武士へ平氏追討の令旨(りょうじ)を発した。
天皇の命令を宣旨(せんじ)と言い(上皇・法皇の命令は院旨)、
同様に皇族が発する命令が令旨である。この令旨は全国を駆け巡った。
また、5月に以仁王自身も源頼政(みなもとのよりまさ)と共に熊野で挙兵、都を目指し進撃する。
頼政は源氏の有力者で、平治の乱では出兵せず源氏方の敗北を招いた人物である。
結果的に義朝を裏切り平氏に協力した頼政は、今度は平氏を見限り以仁王に加担したのだ。
この軍勢に対し、平氏は平知盛(たいらのとももり)・重衡(しげひら)の軍を派遣。
2人とも清盛の子である。宇治川を挟んで対峙した両軍は交戦、
平氏方に与した東国武士足利忠綱(あしかがただつな)が渡河に成功し勝利を収めた。
この戦いに敗れた頼政は自害し、以仁王は逃走中に矢を射られ死亡した。
しかし、死した以仁王の残した令旨は諸国の武士を起たせ
いよいよ源平の合戦が幕を切るのである。
一方、頼政の挙兵に危機感を募らせた清盛は、
幼い安徳帝を疎開させるため同年5月に福原遷都を決行した。
頼朝の挙兵 〜 流人の棟梁、亡き父の敵討ちに起つ
以仁王の令旨は疾風のように全国へ伝わった。
平氏の権勢に従う武士も多かったが、平氏に虐げられた武士もまた多く
以仁王の令旨は諸国の武士に様々な波紋を投じたのである。
特に平治の乱以降、力を失っていた源氏にとっては
この令旨を勢力挽回のきっかけと捉える者が多かった。
1180年5月、令旨を発した以仁王自身は敗死してしまった頃に、
伊豆の豪族北条時政(ほうじょうときまさ)の保護下で流刑生活を送っていた
源頼朝の許へ、伯父の源行家(みなもとのゆきいえ)が訪れた。
行家は以仁王の令旨を頼朝に伝えるためやって来たのである。
13歳で流罪となり、伊豆へ追放された頼朝はこの時33歳。
同地で成長した彼は、監視役である時政の娘・政子(まさこ)を妻に娶り
伊豆の有力武士、北条氏の縁者となっていたのだ。
北条氏は元々平氏の血縁にあたる家柄であったため、時政は当初この結婚を認めなかったが
情熱的な政子は駆け落ちを企ててまで頼朝の妻になる事を選んだ。
ほとほと根負けした時政はとうとう結婚を認め、それ以後は頼朝の良き支援者になる。

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蛭ヶ小島跡(静岡県田方郡韮山町)
平治の乱に敗れた頼朝は伊豆国へ流罪となり
蛭ヶ小島に幽閉され、時政の監視下に置かれた。
現在は写真のように陸続きとなっているが、
当時は名前の通りの小さな孤島であった。
来る日も来る日も仏教の経典を読む毎日を続け
ここで成長した頼朝は、政子と婚姻し
逆に時政を支配下に組みこんだのである。
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亡き義朝の遺児として源氏の棟梁となるべき地位にあった頼朝は、令旨を受けて思案。
自分は流刑の罪人である上、周りは平氏に従う武士の山木兼隆(やまきかねたか)や
伊東祐親(いとうすけちか)、大庭景親(おおばかげちか)らの軍勢が囲んでいる。
しかし、時政や父・義朝の遺臣である三浦氏・千葉氏・上総氏らを糾合すれば
平氏打倒の兵を挙げ、父の敵を討つ事も夢ではない。決断した頼朝は8月に挙兵、
手始めに山木兼隆を攻撃した。山木方の勇将・堤信遠(つつみのぶとお)の館を落とし
次いで兼隆の居館も攻め落とした。余勢を駆った頼朝は、そのまま大庭景親攻略を狙い
土肥(現在の静岡県田方郡土肥町)に進撃しようとした。
ところが雨に進路を塞がれ、支援に来るはずの三浦氏の軍も到着しない。
石橋山(神奈川県小田原市)で立ち往生した頼朝に先手を打って攻撃を仕掛けたのは
景親と伊東祐親の軍勢であった。この石橋山の合戦で頼朝軍はあっけなく敗北、
討死を覚悟しながら山中を逃げ惑い、やっとの事で海へと脱出した。
相模湾の海上でようやく三浦軍と合流した頼朝は、兵力増強を目指し
安房国(千葉県南端部)へ上陸。この途上、三浦軍を率いる勇将・
和田義盛(わだよしもり)は頼朝への絶対的忠誠を誓い、
平家打倒の暁には侍所(さむらいどころ、武士の統率・管理を行う役所)の
長官に据えるよう願い出る。兵を挙げたばかりの頼朝が武家の頂点に君臨するなど、
この時はまだ誰も想像し得ぬ事の筈だが、義盛の願いは程なく叶うのだった。
富士川の合戦 〜 頼朝鎌倉に根を張り、平氏軍戦わずして敗れる
房総半島で雌伏する頼朝は、父の遺臣たちへ書状を発し参集を促した。
平氏や貴族に虐げられていた東国武士は、源氏の棟梁が直々に声をかけた事に感激し
こぞって頼朝の幕下に入る。中でも上総広常(かずさひろつね)は
自身の勢力を見せつけるかのように2万もの大軍を連れて参陣したという。
石橋山で惨敗した頼朝は、瞬く間に兵力を盛り返したのだ。
しかも配下となった武士には領土を保証し、結束を固いものにした。
関東の武士を戦わずして平定した頼朝は、父・義朝が根拠地としていた鎌倉へ入る。
一方、福原で政務を執る清盛には各地から反乱の報がもたらされていた。
以仁王の令旨により、甲斐源氏・木曽源氏・近江源氏・南都の僧兵集団や
四国の河野(こうの)氏・九州の菊池氏らが次々と平氏に対して挙兵したのだ。
そこへ頼朝が房総半島で兵を整えたとの知らせが入り、清盛の怒りは頂点に達した。
すぐさま東国へ追討軍を派遣するよう命じたが、各地でこれだけ反乱が起きては
動員できる兵力は限られ、精一杯かき集めてもわずか6000程度。
しかも追討軍の指揮官は清盛の孫・維盛(これもり)であった。
維盛は亡き重盛の嫡子だが、剛毅な父とは似ても似つかぬ文弱な将で
自ずと平氏軍の士気は低下する一方である。
片や源氏は甲斐源氏も合流し屈強な東国武士団の精兵が数万規模に膨れ上がっていた。
9月に都を進発した平氏軍が到着するより早く、平氏に与していた大庭景親・伊東祐親
駿河(静岡県東部)の橘遠茂(たちばなのとおしげ)らは攻め滅ぼされており
源氏軍の士気は最高潮に達していた。10月、両軍は富士川の両岸に対峙。
周辺住民は戦から逃れるために山へ分け入り、海に船を出して避難した。
夜になるとそうした民衆は炬火を焚いて野宿する。この灯火を見た平氏軍は
山中も海上も源氏軍が取り囲んでいると錯覚、動揺が走った。
そこへ甲斐源氏の軍勢が夜襲を掛けようと近づくと、
羽根を休めていた水鳥がいっせいに羽ばたいて飛び立った。
鳥の羽音を聞いた平氏軍、それだけで源氏軍が攻撃してきたと誤認し
戦闘もせず我先に逃げ出す始末である。結局、戦いらしい戦いもないまま
平氏の軍勢は潰走、都へと逃げ帰ってしまった。
平氏の凋落 〜 清盛遂に死すが頼朝事を急がず
富士川合戦の翌日、奥州から源義経(みなもとのよしつね)が頼朝の許へ到着する。
幼名を牛若丸、長じて遮那王(しゃなおう)と称した義経は、父・義朝亡き後
比叡山延暦寺に預けられており、平氏が政権を握ってからは難を逃れるため
奥州藤原氏に身を寄せかくまわれていた。藤原秀衡としても、平氏政権に対抗するために
源氏の縁者を味方に付ける事はやぶさかでなかったのだ。
幼少の牛若丸が平氏の独裁政権下で抹殺されず生き長らえたのは
義経の母・常盤御前(ときわごぜん)が夫・義朝の死後
清盛の愛妾になったからだ、と見る説もある。しかし、京の五条大橋で狼藉を働いていた
武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)をたしなめ配下にするなど
延暦寺時代からその精強さに声が高かった義経ならば
清盛の情けにすがらずとも生きる術を心得ていたであろう。
実際、奥州でたくましく成長し兄・頼朝と共に平氏打倒の目標へ突き進むべく参陣した義経は
天才的とも言える軍略家として卓越した戦闘力を身につけていたのだった。
心強い味方を得た頼朝であったが、勝手に自滅する平氏軍を深追いするような事はせず
東国の支配体制を確立するため、鎌倉で地固めに腰を据えた。
この年、西国では飢饉が始まっており、戦乱で荒れ果てた京へ乗り込むよりも
東国で兵士や兵糧の確保を行う事が先決と考えたのである。
石橋山の敗戦によって、頼朝は多くの事を学んでいたのだ。
11月、頼朝軍は配下武将の統率を強化するため侍所の役所を設置。
無論、別当(べっとう、長官の事)には相模湾での約束通りに和田義盛を任命。
頼朝の平氏打倒プランは堅実さと組織力を最重要としたものであった。

源氏系図 (赤字は女性) ―は親子関係 =は婚姻関係
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兵站なくして兵士なし、という戦争の絶対的セオリーを堅く守った頼朝に対し
平氏は慌てふためき性急に事を急ぐばかりであった。
富士川の惨敗により人々は「平氏にかつての実力なし」と悟り、
貴族や民衆は平氏の政治体制を見限るようになっていたが
清盛はこうした意見を封じるために福原から京へ都を戻した。
「帝や政権は未だ平氏の手中にあり、遷都を行うは実力があるからこそ」と見せつける為である。
しかし貴族同然で遊興に耽り、ぬるま湯に浸かっていた平氏軍に精強さが無いのは事実であった。
清盛は続発する反乱を手当たり次第に鎮圧しようとするが大した効果は得られない。
近江や摂津の源氏に対し派兵しても大苦戦を強いられ、
多数の僧兵を抱える南都寺院には焼き討ちを行い屈服させようとしたが
これによって東大寺・興福寺などの大寺院は尽く灰燼に帰してしまった。
聖武天皇らが情熱を注いで造った大仏も、無残に焼け落ちたのである。
仏の罰が当たったのか、翌1181年には清盛が熱病を発し危篤に陥る。
「葬儀は不要、頼朝の首を必ず墓前に」との遺言を残し、遂に清盛は逝った。
平氏は一門の大黒柱を失ったのである。
清盛の死を聞いても、頼朝は動かなかった。もっと時間をかけて平氏の弱体化を狙ったのだ。
一方、清盛の死で喜び勇んだ源氏の武者もいる。木曽源氏の源義仲(みなもとのよしなか)である。
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