平氏政権の樹立

平氏が保元・平治の乱を制した事は、大軍事力を有した源氏を排斥し
なおかつ他の有力な政敵の追い落としに成功した事を意味した。
しかも清盛の義妹・滋子(しげこ)は後白河院に、
娘の盛子(もりこ)藤原基実(ふじわらのもとざね)に嫁いでおり
皇室も摂関家も清盛の手中にあったのである。
権力を掴んだ平氏の栄華は、やがて独裁へと変わり歯車を狂わせていく。


平氏の栄達 〜 平清盛、太政大臣へ
皇室・摂関家とも縁戚となり、2つの大乱を勝ち抜いた清盛は
もはや誰も敵わない強大な権力者として朝廷に君臨していた。
清盛の威光で平氏は一族の多くが高い官位を得るようになり、
平氏一門と家人が受領を務める国は1164年の時点で10ヶ国にも昇った。
朝政を司るようになった清盛は、経済的利益を挙げるため日宋貿易に力を入れ、
福原(現在の兵庫県神戸市)付近の港である大和田泊(おおわだのとまり)を整備。
宋は当時の中国南部を支配していた正統王朝である。
清盛は遣唐使廃止以来途絶えていた日本と大陸の交易を復活させたのだ。
領国の増加、日宋貿易の利益、奥州藤原氏との交易(下記)を背景として
平氏一門は潤沢な経済的基盤を確立。そして1167年、遂に清盛は太政大臣の職に就く。
太政大臣は律令制における最高役職で、臣下としての頂点に立った事になる。
ちなみに摂政・関白は太政大臣より高位の職であり内覧権を持つが、
令外官(りょうげのかん、律令に定義の無い官職)なので律令官位ではない。
「法律に定義のある官職」の中では太政大臣が最高職制にあたるのだ。

日宋貿易 〜 背後に奥州藤原氏の存在
日宋貿易で取り扱われた品は、中国→日本への輸入品が絹織物・香料・陶磁器・書籍・銭貨、
日本→中国の輸出品が刀剣・水銀・日本扇・蒔絵それに砂金であった。
ここで注目する物は銭貨と砂金である。日本国内で貨幣を鋳造する時代が終わり、
中国の硬貨を輸入して国内流通させるようになったのだ。
これ以後、鎌倉時代・室町時代は中国の銭貨を日本国内で使用する事が通例となる。
一方、輸出品目にある砂金は、奥州において産出された金である。
当時の日本は世界有数の金産出国で、特に東北地方には莫大な埋蔵量があったと言われる。
後三年の役以後、奥羽を支配した奥州藤原氏はこの産出金を元に
独自の経済・軍事・文化基盤を発達させ、朝廷に拮抗する独立国のような状態を作り上げていた。
平泉(現在の岩手県西磐井郡平泉町)に本拠を構え壮麗な寺院を多数建立、
特に中尊寺金色堂は建物全体に金箔を押した黄金の寺堂であった。
このような「黄金文化」が花開き、絶対的な独立を堅持した奥州藤原氏は、
藤原清衡・基衡(もとひら)の後を継いだ3代目当主秀衡(ひでひら)の時代に最盛期を迎え
朝廷の権勢に屈しない強大な支配力を確立していたが
そうした「みちのくの王」奥州藤原氏にとっても、
平氏の政界進出=朝廷における軍事政権の成立は無視できないものだったのだ。
秀衡は平氏政権に接近し、その動向を探る必要があった。
一方、平氏としても奥州藤原氏を手なづけ、産出される黄金を確保したい意図があった。
ここに両者の利害関係は一致を見る。1170年、朝廷は秀衡を鎮守府将軍の役職に任命。
清盛は奥州藤原氏に名目的な支配権(鎮守府将軍の役職)を与える代わりに
奥州で産出した金を流通させ、日宋貿易や自らの財源にする事を可能としたのだ。
秀衡としても、金を与える事で朝廷の認知をもらい、
平氏政権の先行きを見極めるチャンネルが確保できたのであった。

平氏の絶頂 〜 平氏に在らねば人に非ず
清盛が太政大臣に就いた事で平氏の権勢は頂点を極め、一門は次々に高い官位を得た。
秩序なき人事で政治は平氏の独占状態になってしまったのである。
1168年、清盛は病に罹り床に伏す。この時に清盛は死を覚悟し出家したが、
奇跡的に回復し政界に復帰。同年2月、清盛の妻・時子(ときこ)の甥にあたる
憲仁親王(のりひとしんのう)が皇位に就き高倉天皇となった。
高倉天皇には清盛の娘・徳子(とくこ)が嫁ぐ。平氏は皇室との結び付きをさらに深めたのだ。
平氏はこれ以上無い栄華に酔いしれ「平氏に在らねば人に非ず」という言葉まで飛び出す始末。
こうした平氏の専横は諸人の反感を買うようになっていった。
特に官位を奪われた貴族達の怨みは大きなものだったようである。
都には平氏の悪口が満ち溢れたが、それを取り締まる監視の目は厳しく光っていた。
こうして、平氏とそれを嫌う者たちの溝はますます深まっていくのである。

鹿ヶ谷の陰謀 〜 後白河院と平氏の対立
1169年、後白河上皇も出家し後白河法皇となる。
1176年には後白河院の妃であった建春門院(けんしゅんもんいん)滋子が死去。
このため、平氏と法皇の関係は薄くなり
次第に後白河院も平氏に対して反感を募らせるようになっていた。
翌1177年6月、院の近臣であった僧・俊寛(しゅんかん)の鹿ヶ谷(しかがたに)別荘に
法皇や西光(さいこう)、大納言藤原成親(ふじわらのなりちか)らが集い酒宴を開いた。
この席上、成親ら院の側近は法皇に対し平氏への不満を開け広げに上申、
平氏ばかりが力を付けてきた事態を危惧した法皇も同心する。
宴もたけなわ、ほろ酔い気分の法皇が立ちあがると瓶子(へいじ、磁器の酒壷)が倒れた。
これを見た一同は「へいし(平氏)が倒れた」と大笑い。さらに西光が「その首も落とせ」と
瓶子の注ぎ口を叩き割った。酒の上での戯言であったが、後日この話が清盛に密告され大事件となる。
法皇の命を受けて延暦寺僧兵の制圧準備をしていた平氏軍は、
この報を受け比叡山行きを中止しそのまま俊寛・西光・成親の捕縛を行った。
「平氏が取り立てた恩を忘れ平氏打倒を企てるとは何事か」と詰問する清盛に対し、
西光は「清盛こそ後白河院に重用された恩を忘れ、法皇に逆らっているではないか」と反論。
この言葉に激怒した清盛はその場で西光を斬り捨てた。俊寛・成親は流罪となる。
「鹿ヶ谷の陰謀」と呼ばれるこの事件で、清盛と後白河院の軋轢は深まった。

平氏の専横 〜 安徳天皇の誕生と福原京遷都
高倉天皇へ嫁いだ建礼門院(けんれいもんいん)徳子が1178年に男子を出産。
清盛は皇子の外戚となり、かつての摂関家藤原氏と同様の地位に立った。
ところが、良い事ばかりは続かない。1179年6月に摂関家へ嫁入りした盛子が死去し
同年7月には清盛の嫡子・重盛までもが亡くなった。貴族化する平氏の中にあって、
ただ一人武士らしい猛々しさを残していた重盛の死は一門にとって痛恨事であった。
これを利用し平氏の勢力を削ごうとしたのが後白河院である。
盛子名義の荘園や重盛が国司に任じられていた越前国(現在の福井県)を没収。
さらに再度比叡山を攻撃せよと平氏に命じたのである。
強訴を繰り返す延暦寺僧徒と、専横甚だしい平氏軍が戦えば
両者とも弱体化していくと踏んだ命令である。見え透いた後白河院の計略に、とうとう清盛は決起。
11月、兵を率いて比叡山ではなく後白河院の御所を制圧、法皇を鳥羽御所へ移送した。
これによって法皇は幽閉状態に置かれ、清盛の独裁政治が行われるようになったのである。
高位の官位はほとんど平氏一門が独占。その領国は31ヶ国にも昇った。
さらに1180年、高倉天皇は徳子の産んだ言仁親王(ことひとしんのう)に譲位した。
安徳天皇の即位である。天皇の外祖父になった清盛は、幼帝を案じ福原遷都を計画。
平安京は強訴を繰り返す比叡山や南都の僧兵に囲まれており、
しかも平氏の独裁に反対する武士らまでが不穏な動きを見せていたためである。
福原には清盛の別荘があり、天皇を手元に囲い自分の思うままに
政治を行う事ができるようにする狙いでの福原遷都であった。

平安末期文化 〜 末法思想と浄土教流行
1052年は日本における末法(まっぽう)初年といわれる年である。
釈迦の入滅より2000年後からを末法の世と言い、仏教の教えが廃れ、世は乱れ、
天災・戦乱が絶えずに天裂け地割れる暗黒の時代と信じられていた。
不安や絶望に襲われた人々は阿弥陀如来の加護にすがり浄土へ往生する事をひたすら願った。
こうした思想から生まれた仏教の教義が浄土教である。
平安末期、浄土教は爆発的に流行し阿弥陀如来を祭る寺堂が多く創建された。
また、有力氏族は一族の守り神となる「氏神(うじがみ)」を篤く信仰。
安芸国(現在の広島県)宮島の厳島神社や京都洛南の岩清水八幡宮、平泉の中尊寺は
それぞれ平氏・源氏・奥州藤原氏の氏神となる寺社であった。
こうした文化は地方拡散の傾向が強い。都が争乱の時期にある中、
地方武士や受領達が自分の領地で勢力を蓄え、大規模な寺社建立を行った為である。
清盛が領国にし本拠とした安芸国、奥州藤原氏の平泉、豪族岩城氏が勢力を張った磐城国、
それに九州の国東半島などが顕著な例といえる。
中尊寺金色堂
中尊寺金色堂(岩手県西磐井郡平泉町)

建物全体に金箔を押した黄金の寺堂は
1000年近く経つ現代も健在。
堂の中には仏像だけでなく
奥州藤原氏当主3代の遺体も安置されている。
風雨や災害から貴重な文化財を護るため、
現在は写真のように
コンクリート製の保護堂に覆われている。
絵画において特筆すべきは、何と言っても平家納経(へいけのうきょう)であろう。
清盛が法華経を写経し、その表紙や見返頁に美しい絵画装飾を施したものである。
平氏一門の繁栄を願い、この経典を氏神である厳島神社に奉納した。
また、摂関政治時代に話題となった事象を絵画にする事も多く行われ
応天門の変を主題にした絵巻物である伴大納言絵巻や
紫式部の大作として有名な源氏物語を絵巻物にした源氏物語絵巻などがある。
源氏物語絵巻は2000円札の絵柄として現在一般的に見られるようになった。
変わった物では、扇形の用紙に下絵を描き、その上から写経をする
扇面古写経(せんめんこしゃきょう)と呼ばれる風俗が流行。
下絵となる大和絵は貴族や庶民の生活を描いた物が多く、別に経典とは関係ない内容である。
果たしてこれに御利益があるのか?と疑いたくなるが
何故かこうした写経が寺社に奉納される事が流行っていたようである。
もう一点、有名な絵画に鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが)がある。
鳥羽僧正覚猷(とばそうじょうかくゆう)の作と言われ、人間を動物の姿に置き換えて
貴族・僧侶・庶民などの生活を描いた社会風刺画とされている。
蛙の仏像に読経する狐の僧侶、それに従う兎の貴族…などの情景は日本初の漫画と呼ぶ人もいる。
建築

造園
中尊寺金色堂
願成寺白水阿弥陀堂
浄瑠璃寺本堂
山仏寺投入堂
富貴寺大堂
毛越寺庭園
厳島神社
彫刻
浄瑠璃寺本堂九体阿弥陀如来像
富貴寺阿弥陀如来像
臼杵石仏群
絵画
厳島神社平家納経
厳島神社彩絵檜扇
源氏物語絵巻
信貴山縁起絵巻
伴大納言絵巻
年中行事絵巻
鳥獣戯画
扇面古写経
歴史書

説話
大鏡(作者不詳)
今鏡(作者不詳)
栄華物語(赤染衛門か)
今昔物語集(源隆国か)
藤原道長を中心とした摂関家栄華を記載。世継物語とも言う。
大鏡以後の歴史(後一条天皇〜高倉天皇の時代)を記述。
藤原道長を中心に宮廷貴族の栄華を描く。
インド・中国・日本における仏教古説話を収録。
歌謡
梁塵秘抄(後白河法皇)
平安末期の流行である今様・催馬楽の歌謡集。全20巻。
軍記物
将門記(作者不詳)
陸奥話記(作者不詳)
平将門の乱を記録した最初の軍記物。
前九年の役に関する記録。
平安末期文化の代表例
この時代の芸能として取り上げるのは、今様(いまよう)や催馬楽(さいばら)と呼ばれる歌謡。
今様とは呼んで字の如く「(当時の)現代風」という意味で、
従来の五・七調で区切られた堅苦しい和歌ではない自由律の歌である。
こうした今様に合わせて舞を舞う踊り子を白拍子(しらびょうし)といい、
高位の貴族や平氏らにもてはやされた。摂関家の勢力が衰えた事により
貴族の生活は退廃的になり、また力ある武士たちは拘束されるのを嫌ったため
型にはまった芸能よりも、自由気楽で奔放な歌謡を好んだのであった。
今様や催馬楽などの雑芸を、後白河法皇自らが編集したものが梁塵秘抄(りょうじんひしょう)。
平安時代末期の代表的文芸作品である。
この他に、摂関家を題材にした歴史を文学形式で綴った歴史物や
武士の攻防を迫力あるストーリー展開で物語にした軍記物なども登場するようになった。



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