保元・平治の乱

皇室・摂関家の内部対立は、鳥羽法皇方と崇徳上皇方の2大勢力へまとまり
大乱勃発の寸前にまで事態が進行していた。
1156年4月、年号が保元(ほげん、ほうげんとも)に改元され
その直後に鳥羽法皇が死去。しかし法皇の遺志は後白河天皇に引き継がれ
天皇vs上皇で対立関係が継続されていく。
大乱に際する皇室・摂関家・源氏・平氏、それぞれの思惑は。


保元の乱 〜 天皇方vs上皇方
皇位継承や摂関家門跡をめぐり対立していた後白河天皇派と崇徳上皇派は
最終手段、すなわち武力紛争の可能性を考慮して互いに武士を集めていた。
武功を挙げて昇官を目指す源氏や平氏の各人はこぞって参集、
相手方に勝利して覇権を握ろうと目論んでいたのだ。
崇徳上皇に加担するのは摂関家の藤原頼長、源氏の源為義・為朝、
それに平氏の平忠正(たいらのただまさ)であった。
一方、後白河天皇の味方は摂関家の藤原忠通、公卿の信西(しんぜい)
源氏の源義朝、平氏の平清盛(たいらのきよもり)重盛(しげもり)父子。
出家前は藤原通憲(ふじわらのみちのり)といい、位の低い役人だった信西は
学問に優れていたため鳥羽院に重用されるようになった人物。
平清盛は忠盛の跡を継いだ平氏の氏長者で、信西とは入魂の仲であった。
重盛は清盛の嫡男である。
1156年7月、とうとう両者の争いは合戦として戦乱に発展した。保元の乱である。
後白河天皇方
(勝者)
後白河天皇
(弟)
忠通 [関白]
(兄)
清盛(甥)
重盛(清盛の子)
義朝(兄)
皇室
摂関家
平氏
源氏
崇徳上皇方
(敗者)
崇徳上皇(兄)
:讃岐へ流罪
頼長 [左大臣]
(弟):傷死
忠正(叔父)
:斬首
為義(父):斬首
為朝(弟):伊豆大島へ流罪
保元の乱関係表
( )内は一族内の関係
:の後記は処分内容
合戦上手の為朝が先手必勝の原則に従い夜襲を進言するが
根っからの学者である頼長は「夜討ちは卑怯」としてこれを退ける。
結果として、後白河天皇方が先に動いた。為朝の考えた通り、夜戦を仕掛けたのである。
天皇方の実質的な総司令官であった信西が、一番手に清盛、二番手に義朝を指名、
かねてから親交を深めていた平氏の軍勢に先陣の名誉を与えようとしたのだった。
これに従ってまず平氏軍が崇徳上皇の邸宅を襲撃する。ところが待ち構えていたのは
暴勇で名を轟かした為朝の軍。平氏の軍勢は次々に討ち取られ、清盛は回避を指示した。
撤兵は不名誉として若き重盛が真っ向勝負を挑むが、これではますます混乱を来たすばかりであった。
続いて到着したのが源氏の総領、義朝の軍。東国の荒武者たちをまとめあげ
ふがいない平氏軍に代わり、一気に為朝軍へ襲いかかった。
さらに義朝は風向きを読んで火計を仕掛け、為朝の軍勢を蹴散らした。
屋敷に火を掛けられ、進退窮った崇徳上皇方は敗退する。
皆が散り散りに逃亡する混乱の中、頼長は流れ矢に当たり傷を受け、それが因で死亡する。
上皇も乱後出家を余儀なくされ讃岐へと流罪、天皇らを怨みながら同地で没した。
敗軍の将となった平忠正・源為義は斬首の刑に処せられ、源為朝は伊豆大島へと流される。

平治の乱 〜 保元の乱勝者の内部対立
保元の乱後、勝軍を率いた平清盛と源義朝はそれぞれ昇進、
清盛は播磨守、義朝は左馬頭(さまのかみ)に任ぜられた。
ところが、これは清盛の方が大きい出世だったのである。
先陣の功を認めての昇進であったが、実際に武功を上げたのは明らかに義朝の方である。
信西のえこひいきとしか言い様のない行賞に、当然義朝は不満を募らせた。
こうした渦中、1158年に後白河帝は退位し二条天皇の後見として院政を開始した。
この頃、後白河院の近臣であったのが藤原隆家の子孫にあたる藤原信頼(ふじわらののぶより)
信西と信頼はどちらも後白河院の気を引こうと対立する関係であり、
特に信頼は「出世を邪魔された」と常日頃から信西を怨んでいた。
このため義朝は信頼に接近。それに対抗する信西は清盛と関係を深める。
保元の乱の勝者は、またも派閥を作り覇権を争うようになったのである。
1159年、両者は遂に武力衝突を起こした。これを平治の乱(へいじのらん)と呼ぶ。
信西方
(勝者)
信西:自害

平氏
清盛・重盛
院の近臣
武家
信頼方
(敗者)
藤原信頼:斬首

源氏
義朝:謀殺
義平:斬首
頼朝:伊豆へ流罪
平治の乱関係表
:の後記は処分内容
平清盛が熊野詣(くまのもうで)へ出かけた隙に源義朝が挙兵、
後白河上皇を確保し信西宅を急襲、放火した。
熊野詣は当時の貴族がこぞって行った信仰で、熊野(和歌山県熊野市)の3神社に参詣する事。
義朝の襲撃は清盛が都を留守にした軍事的空白を狙った行動である。
信西は脱出し宇治まで逃げたが、頼みの清盛がいなくては逃げ切れぬと観念し自害した。
ところが、合戦に疎い信頼は緒戦の勝利に酔いしれて
清盛も討ち取るべきとする源義平(みなもとのよしひら)の進言を退けた。
いくら精強な兵力を有していても、指揮官がバカではお話にならない。
義平は義朝の長男で、悪源太(あくげんた)と評される豪傑である。
そうした「戦のプロフェッショナル」である義平の提案を避けたことで、
信頼はみすみす平氏に反抗の機会を与えてしまったのだ。
帰京した清盛は後白河上皇や二条天皇を奪還、後顧の憂いなく合戦を開始。
こうなっては源氏方は統制が取れず、諸将は無能な信頼を見捨てて逃亡するに至った。
乱の首謀者・信頼は斬首、東国へ逃れようとした義朝は尾張国(愛知県西部)野間で謀殺され
捕縛された義平も首を斬られ、義平の弟で初陣の頼朝(よりとも)は伊豆への流刑に処せられた。
遂に平氏は他の政敵を一掃する事に成功し、中央政界へ進出する機を掴んだ。
一方源氏は主要な武将を討ち取られ完全に勢力を失った。残された源氏一族も地方へ散っており
かつてのように大兵力を動員する事は不可能と思われた。主を無くした東国武士達は困惑し、
ある者は平氏へと鞍替えし、ある者は自立するようになり、
それぞれが生き残る為に独自の行動を取らねばならない時代になったのであった。
ちなみに、捕らわれた頼朝はこの時わずか13歳。父や兄と同じく首を斬られるところであったが、
清盛の義母である池禅尼(いけのぜんに)
「年端も往かぬ少年までも斬罪に処するは平氏の器量が疑われる」と忠告し命を助けられた。
しかし頼朝こそが約20年後に平氏を打倒するのである。
後年、清盛はこの時の甘い処断を痛恨の極みとして悔やむようになるのだった。


★この時代の城郭 ――― 東国武士の居館
戦国時代の堅牢な城郭には程遠いが、その源流となるのがこの時代の武士居館である。
以前の頁にも記した通り、当時の武士はまだ半農半兵という生活で
土地の開墾や農作業に従事する事が多かった。だからと言って、武士の館が
一般の農家と同じだった訳ではない。農閑期には相撲などの武術や
馬術・弓術・水練といった実戦本位の訓練をしていたのであるから
こうした活動を行う為の設備や用地を確保するような場所に作られていた。
具体的に言えば、耕作地となるべき平野に面した立地でありながら
他勢力が攻めてきた場合を考慮し、背後を山麓などで固めつつ
館の周囲に堀を巡らし水利を維持できるような川沿いなどに居館を構えたのである。
(当然、こうした水利は農業用水としての使用も兼ねている)
館の敷地を囲むように板塀(戦国・近世城郭に比べると簡素な物だが)を巡らせ
出入口となる門の頭上には物見櫓を設け外敵の侵入に備えた。
敷地内には武具・兵糧などを収納する倉や馬小屋が立ち並び、
武芸を訓練する馬場なども用意されていた。
基本的な考え方は、戦国時代の城郭と大差ないのである。
しかし当然の事ながら、建築技術がまだまだ未発達である事は否めないし
後世の城郭理論のように曲輪を分割する縄張り方法や
山岳地や傾斜地を利用するといった複雑な築城形式、
石垣や大規模な土塁・堀のような高等土木技術は用いられていなかった。
「城」ではなく、単純に「武装化した屋敷」でしかなかったのである。
が、大規模な兵乱や戦闘理論の向上、土木・建築技術の発展などを通じて
こうした「武士の居館」が「武士の城郭」へと進化していった事は間違いない。
農作業に従事する事も「体力と精神力の訓練」と言え、大地にしっかりと根差した東国武士は
上記のような実戦に即した館で暮らす事で、武力と胆力に磨きを掛けたのだ。
一方、都で政権を握った平氏は次第に貴族化していき、
「武士の在るべき生活の姿」とはかけ離れていった。
この差がいずれ大きな違いを生み、平氏軍事力の弱体化へ繋がっていくのであった。




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