院政の始まり

東北で源氏が戦いを続けている頃、京の都で権力を握ったのは
摂関家や天皇の力を押さえた上皇であった。
本来の権力者であるべき天皇を筆頭とする朝廷をも凌駕し、
政界から引退したはずの上皇が絶対的な権力を掴み権勢をふるったのである。
政治の混迷は留まる所を知らず、上皇・法皇のわがままで翻弄されていく。
上皇の政庁である「院庁(いんのちょう)」は如何にして政治を動かして行ったのか。


白河天皇の政治 〜 院政の開始
荘園整理令を出し、摂関家をものともしなかった後三条天皇の後を継ぎ
1072年、第72代天皇に即位したのが白河天皇である。白河帝も父の政治を踏襲し
藤原氏を排除した思い通りの政策を打ち出したのであった。
白河帝にはあらゆる権力が集中するようになり、1086年に堀河天皇へ譲位した後も
上皇の立場から政治を執り行った。上皇の住まいを「院(いん)」と言い、
院において政務を行う役所を「院庁」と呼ぶ。白河上皇は天皇に代わって
院庁で執政を為したため、天皇・摂関・公卿らから成る朝廷は
採決を院に上奏し、「院宣(いんぜん)」と呼ばれる最終決定を貰わねばならなかった。
また、朝廷の政策とは別に院庁が独自に下す命令「院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)」もあり
政治の実権は上皇を首班とする院庁がほとんどを握るようになったのである。
こうした上皇による政治体制を「院政(いんせい)」という。
白河上皇は摂関家を排する事を旨としていたため、中・下級貴族を側近に置くようにしていた。
そうした貴族も荘園を独占する摂関家に反感を持っており、両者は意気投合。
院に気に入られた下級貴族達は上皇の思うままに出世する事もあり
政治の世界は混迷の度を深めていく。

白河院と源義家(1) 〜 義家の抑圧
後三年の役は白河院が政治の実権を握っていた時期に起きた兵乱である。
陸奥守・義家は職務として奥州の争乱を鎮撫したとして白河院に恩賞を求めたが
上皇はこの訴えを棄却した。源氏が奥州において勢力を拡大しようとした「私闘」であるとし
朝廷に関わりのある問題ではないとしたのだった。恩賞を与えてしまっては
源氏の力がさらに大きくなるので、権勢を集中したい白河院はこの請求を避けたのである。
しかし義家にしてみれば、命を懸けて戦ってくれた配下に対し
「恩賞はない」で済まされるものではない。このため義家は自らの領地を削って
部下への恩賞を与えたのである。潔い配慮を受け、東国武士はより結束を固め
義家は絶大な信頼とさらなる人気を得る事になった。白河院の狙いは裏目に出てしまったのだ。
どうにかして義家の勢力を押さえたい白河院は、1092年に義家の荘園を整理するよう命ずる。
しかし強大な軍事力を持つ源氏を敵に回すのも危険な事であり、
白河上皇は思案を深める日々が続いた。
この間、娘を亡くした上皇は1096年に出家し法皇となった。

白河院と源義家(2) 〜 武士の昇殿
ところで、白河院は「北面(ほくめん)の武士」「西面(さいめん)の武士」と呼ばれる
武装集団を組織して警護にあたらせていた。それと言うのも、この当時の大寺院は
自らの政治的要求を叶えるために「僧兵(そうへい)」「悪僧(あくそう)」と言う
武装した僧を繰り出して暴力的デモンストレーションを行っていたのだ。
御輿を担ぐ僧へ盾突くのは仏罰を受けるとされ、しかもその僧侶が武器を持っていては
何人たりとも手を出すことができない。
権勢並ぶ者無き白河院でさえ僧兵の強訴には頭を悩ませていたのである。
「自天の君(じてんのきみ、国の最高権力者)たる白河院にも苦手な物が3つあり、
 一つは鴨川の水、一つは賽の目、最後は僧兵なり」と揶揄される様に
洪水になると止めようの無い鴨川、民衆が夢中になったサイコロ賭博と同じように
強訴を続ける僧兵の勢いは手が付けられなかった。
1098年、遂に義家は白河院に召し出され昇殿(しょうでん)を許された。
昇殿とは、天皇や上皇の前に上がる事を指す。昇殿はこの上ない名誉であり
義家の不満を解消するには十分であった。しかし白河院の狙いは僧兵を退けるために
源氏の武力を利用する事にあった。義家は法皇の期待に応え、強訴の排除に貢献。
こうした活躍で、武士の地位も少しずつ高まっていく。この後、義家は1106年に没した。

院政の継続 〜 平氏の台頭と鳥羽上皇
1107年に堀河天皇が没し、子の鳥羽天皇がわずか5歳で即位した。
天皇が幼いため、白河院の院政はまだまだ継続される。
源氏は棟梁の義家が没したため一時的に勢力が衰退、
義家の子・義親(よしちか)は出雲(現在の島根県)へ落ち
同地で狼藉を働くようになっていた。これを見た白河院は伊勢平氏の
平正盛(たいらのまさもり)に命じて鎮圧軍を派遣した。
源義親の乱を鎮めた功績で平氏が台頭。1113年には正盛の子・忠盛(ただもり)
盗賊捕縛で名を上げ、同年に正盛・忠盛親子は僧兵の強訴を鎮圧。
さらに1129年には忠盛が瀬戸内海の海賊を追捕し、遂に1132年忠盛が昇殿を許された。
源氏に代わり平氏が武威を響かせ地位を上げるようになっていたのだ。

院政と平氏

院政と平氏 (赤字は女性) ―は親子関係 =は婚姻関係 数字は皇位継承順
さて、白河法皇の政治はわがままを極めるようになり
鳥羽帝を1123年に無理矢理退位させ崇徳天皇を即位させた。
が、1129年に白河法皇は死去。時代は鳥羽上皇の院政期に入る。
無理に退位させられた事を怨んだ鳥羽上皇は白河法皇の側近を排除し
自分に都合の良い院庁の人事を行った。この後上皇は出家し鳥羽法皇となったが
権勢は衰えず政権を維持し続けた。1141年、自分と同じように崇徳天皇を無理矢理退位させ
弟の近衛天皇を即位させた。崇徳上皇は、近衛帝の次には自分の子が即位すると期待したが
その夢はもろくも打ち崩された。1155年に近衛天皇が薨去、鳥羽院は後白河天皇を即位させ
皇太子にも後白河天皇の皇子を据えたのだった。後白河天皇も近衛天皇と同じく
崇徳上皇の弟。鳥羽院は白河法皇によって皇位を奪われた事を根に持ち、
とことん崇徳上皇を嫌っていたためであった。
鳥羽法皇と崇徳上皇の対立は一気に激化、勢力を盛り返そうとする摂関家、
源氏と平氏の昇進争いなど、政治は不安定さを極め、遂に大乱を引き起こしていくのである。

源氏と摂関家の動向
次頁に行く前に、源氏と摂関家の動向を記しておく。
源義親の乱を経て源氏は一時衰退。門跡を継いだ義親の子・為義(ためよし)
源氏一党雌伏の時と捉え、息子らを全国各地へ派遣し勢力挽回の機会を待った。
各地で暮らす子供が現地の武士団を糾合し配下にすれば、
日本中の武士はみな源氏に従うようになると目論んだのだった。
この考えはある程度効果を現し、為義の嫡男・義朝(よしとも)
東国の武士団を配下へ加える事に成功する。しかし義朝の弟・為朝(ためとも)
武力に優れるというよりは暴れ者で、下向先の九州で度々問題を起こしていた。
この叱責を受け、1154年に為義は検非違使の役を解任されてしまった。
なかなか上手く事は運ばないものである。
一方、摂関家は藤原忠実(ふじわらのただざね)の息子2人が争っていた。
長男の忠通(ただみち)が摂関職を継いではいたが、
忠実が贔屓にしていたのは2男の頼長(よりなが)であった。
頼長は学問に優れ規律正しい者として有名であったため、父の忠実や崇徳上皇に
可愛がられていたのだ。忠実に「藤原氏の氏長者は頼長に譲る」とまで言われ
憤懣やる方ない忠通は鳥羽法皇に接近。忠実・頼長が崇徳上皇に与するならば
対抗策として鳥羽院の力を借りる事にしたのだ。
崇徳院を嫌う鳥羽院は、当然の成り行きで忠通を受け入れた。
皇室と摂関家、それぞれの内部で起きていた対立は
鳥羽法皇方vs崇徳上皇方という2大勢力に糾合され、一触即発の事態になったのである。



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