前九年の役・後三年の役

平安時代も半ばを過ぎ摂関家の勢力が弱まると、政界は混迷の度を深めた。
旧来の権力を維持したい藤原氏、それを排除して主導権を握りたい皇室、
どの勢力に追従するか見極めなくてはならない中・下級貴族…。
こうした先行き不透明な状態の中では実力=武力を持つ者が台頭してくる。
武士が政治の表舞台に登場する時代がやってきたのである。
武家の本流とも言うべき源氏一門が勢力拡大の足がかりとした
東国における兵乱とその結果を紹介する。


平忠常の乱 〜 清和源氏、東国へ進出
1028年、上総国(現在の千葉県中部)で平忠常(たいらのただつね)が反乱を起こした。
平将門の乱を鎮めた功績で貞盛の系統は取りたてられ伊勢へ移り伊勢平氏となったが
関東に残る平氏の一族もあり、その中の一人である忠常が兵乱を起こしたのである。
朝廷は追討軍を送るがなかなか鎮圧できず、平忠常の乱は3年にも及ぶ長期戦になり
その間、房総半島一帯は忠常の支配下に置かれていたのだった。
業を煮やした朝廷は1031年に源頼信(みなもとのよりのぶ)を派遣。
頼信は河内源氏の総領で、藤原純友の乱を収めた源経基の孫にあたる。
剛勇を鳴らす源氏一党の出陣を見るや、忠常は朝廷軍に降伏。
頼信の武威は瞬く間に東国一円へ広まり、各地に勢力を張る豪族(在地の武士)達は
源氏の配下として臣従を誓うようになったのであった。

源氏の起源

源氏の起源 ―は親子関係
清和天皇の孫、源経基を祖とする清和源氏は、その子・満仲(みつなか)
摂津国(現在の大阪府北部と兵庫県の一部)多田荘に土着し多田源氏を名乗り
安和の変で摂関家に接近し勢力を伸ばした。
さらに満仲の子・頼信が河内国(大阪府内陸部)石川荘を根拠に河内源氏を称し
武辺の者として名を上げていた。源氏は地域に根付いて勢力を蓄え
周辺の諸将をまとめて大規模な軍事力を擁する事を得意としていた。
上の系図中、摂津(大阪府南沿岸部)や甲斐(山梨県)といった地名が出てくるのは
そうした場所に土着して武士団を形成した者であるためだ。

前九年の役 〜 陸奥守頼義、奥州を平定
話は一転、奥州(東北地方)へと飛ぶ。坂上田村麻呂が討伐して以来、
奥州は一応朝廷の支配下に組みこまれたが、実際のところは反乱が絶えず
従属というには不充分な状態にあった。朝廷も現地の豪族を郡司に任じたりして
かろうじて支配権を行使してはいたが、ほとんど放任のようなものだったようだ。
11世紀中頃、陸奥の豪族で蝦夷の首長であった安倍頼良(あべのよりよし)
奥六郡(胆沢・江刺・和賀・稗貫(ひえぬき)・紫波(しわ)・岩手の六郡)の郡司に任ぜられ
勢力を拡大、次第に朝廷への反抗姿勢を表すようになり、1051年遂に大規模な反乱を起こした。
事態を重く見た朝廷は新たな陸奥守に源頼義(みなもとのよりよし)を任命、
慰撫の軍勢を派遣する。頼義は頼信の子で源氏の棟梁を継いだ者。父・頼信以来の忠誠を誓う
東国武士はこぞって頼義の下へ馳せ参じ、朝廷軍の兵力は一気に膨れ上がった。
武勇並ぶもの無しと評される源氏の総帥自らが参陣した事に驚いた頼良は兵を引き
帰順の証として頼義と同じ名の「よりよし」を改名、安倍頼時(よりとき)とした。
が、朝廷へ心服する訳がない蝦夷の民と、奥州の完全制覇を狙う源氏一党が折り合える筈もなく
この和平はわずか数年で破られた。1056年、安倍氏の軍勢により衣川柵が閉鎖され
再び朝廷軍と交戦状態に入る。地の利に乏しい源氏軍は、安倍氏を封じ込めるべく
奥六郡のさらに奥地の豪族へ働きかけ、味方に付けた。
こうして同じ蝦夷の民同士が争う事態の中、頼時は流れ矢を受け、この傷が元になり死亡。
しかし反乱の首領は頼時の子・安倍貞任(あべのさだとう)に引き継がれ
さらに泥沼の様相を呈した。剛勇を鳴らす源氏軍と言えど奥羽の気候風土には不慣れで、
思うような活動ができなかったのが長期化の原因である。
地元の勇士を加勢させるのが不可欠と感じた頼義は、1062年に出羽の豪族
清原武則(きよはらのたけのり)を味方へ引き入れる事に成功。
清原氏の助勢で安倍氏の防衛拠点であった衣川柵・厨川柵(くりやがわのさく)を陥落せしめ
遂に貞任を討ち取って反乱を鎮圧した。1051年〜1062年と続いたこの乱を
「前九年の役(ぜんくねんのえき)」と言う。乱を鎮めた源氏の声望は都へ轟き、
鎮圧に多大なる貢献をした清原氏は奥州で最大の勢力を持つ豪族へと成長する。

後三年の役 〜 八幡太郎義家、再び奥州へ
父・頼義と共に前九年の役へ出陣した嫡子・源義家(みなもとのよしいえ)は、
元服名を八幡太郎(はちまんたろう)と言い、頼義の死後に源氏の棟梁を襲名した剛の者である。
後世の武士に「八幡太郎義家の末裔」と名乗る者は多いが
それはこの源義家を指している。摂津源氏・甲斐源氏など、分家が多く立つ源氏において
義家以降の一族が本流として定まった事から、源氏の流れを汲む武将は
「八幡太郎義家」の名を誇るべき祖先として尊称したのであった。
源氏の長たるに相応しく武略に通暁し、反乱者の鎮圧などに活躍した義家は
実力を買われて1083年、父と同じく陸奥守に任命された。約20年ぶりの奥州下向である。
丁度この頃、清原氏の内部で紛争が勃発。武則の孫である
真衡(さねひら)家衡(いえひら)清衡(きよひら)三兄弟が互いに争う事態になっていた。
安倍頼時の娘を母に持つ2男家衡と3男清衡が異母兄の長男真衡に戦いを挑んだのだ。

奥州藤原氏の起源

奥州藤原氏の起源 (赤字は女性) ―は親子関係 =は婚姻関係
真衡からの救援要請を受けた義家は軍勢を率いて家衡・清衡を追討、降伏させた。
この陣中で長兄真衡は病死してしまったため、義家の裁量で奥六郡を
家衡・清衡に二分する事とした。ところが1086年、この裁断を不服とした家衡が挙兵して反乱する。
今度は清衡が義家に救援を要請。前九年の役で清衡の父・藤原経清(ふじわらのつねきよ)
安倍氏側として参陣して殺されており、清原氏の正統を自認する家衡は
旧敵の遺児として弟の清衡を攻撃したのだった。
度重なる反抗をする家衡を許してはおけない義家は直ちに出兵。
しかしこの年は雪に阻まれ進軍できず、いったん撤兵を余儀なくされた。
翌1087年9月、義家は家衡の本拠地・金沢柵(かなざわのさく、現在の秋田県横手市)へ再出兵。
荒野を進軍中、前方を飛び去る雁の群れが乱れるのを見た義家は
そこに伏兵がいる事を察知し返り討ちにした。
兵法書に「兵が野に伏したる時、空を飛ぶ雁は列を乱す」と教示していたのを
義家はとっさに思い出し、難を逃れたのであった。兵略に通じた八幡太郎義家の為せる技である。
この出兵には義家の弟・源義光(みなもとのよしみつ)も参陣。
新羅三郎(しんらさぶろう)と称される義光は誉れ高い甲斐源氏の始祖である。
心強い応援を得た源氏軍は総攻撃に出て金沢柵を落とし、家衡を戦死させた。
この戦いを「後三年の役(ごさんねんのえき)」と呼ぶ。
乱後、清原清衡は藤原に復姓、藤原清衡(ふじわらのきよひら)と名乗った。
平安末期から鎌倉初期にかけて奥州の王となった奥州藤原氏の始祖である。
一方、義家の声望はさらに高いものとなり、「天下第一の武勇」と称えられるようになった。




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