平安貴族の栄華

平安時代と言えば、華やかな宮廷生活のイメージが強い。
十二単(じゅうにひとえ)の女官、和歌を愛でる文化、絢爛豪華な御所…。
しかしそうした貴族の栄華は、
一般庶民の地道な生産活動を吸い上げた財力でまかなわれていた。
如何にして財源を確保し、より多くの収入を得るか、
それこそが平安貴族の贅沢な生活を支える課題であり
だからこそ摂政・関白といった高い位を求める理由でもあった。


国風文化 〜 遣唐使廃止後の平安宮廷文化
菅原道真の建議により、894年に遣唐使が廃止されたため
大陸からの情報流入はストップし、日本独自の文化が花開くようになった。
この時代の文化を「国風文化」と呼び、貴族達を中心とした華美な文化なのが特徴である。
映画などでよく描かれる十二単の女官、和歌を交わす貴族達、
寝殿造(しんでんづくり)の建築様式で建てられた公家の邸宅など、
いわゆる「平安朝」を思い起こさせる事柄は多く、想像するのも難くない。
現代ならばブランド服で身を固め、メールでコミュニケーションを取り、
テーマパークに皆が集うようなもの…と言うと俗っぽくなってしまうが
平安貴族にしてみればそれくらいに日常的な事であり、「至極当然の事」だったのである。
しかし、煌びやかな十二単の装束や寝殿造の大邸宅などは
言うまでも無く莫大な費用がかかるものだし
和歌を嗜むのも風雅を愛でるセンスと深い教養がなくては出来ない事であった。
一口に「平安貴族の優雅な文化」と言っても、なかなかに難しいものである。
建築
平等院鳳凰堂
法界寺阿弥陀堂
醍醐寺五重塔
彫刻
平等院鳳凰堂阿弥陀如来像
法界寺阿弥陀如来像
絵画
平等院鳳凰堂扉絵
高野山聖衆来迎図
書道
秋萩帖・屏風土代(伝 小野道風筆)
離洛帖(藤原佐理筆)
白氏詩巻(藤原行成筆)
<三蹟…小野道風・藤原佐理・藤原行成>
物語文学
竹取物語(作者不詳)
伊勢物語(作者不詳)
宇津保物語(作者不詳)
落窪物語(作者不詳)
源氏物語(紫式部)
言わずと知れた「かぐや姫」の物語。物語文学の祖とされる。
都落ちした在原業平を主人公にした短編歌物語集。
清原俊蔭(きよはらのとしかげ)の子孫をめぐる音楽物語。
落窪の君が継母に虐められながらも貴公子に愛される物語。日本版「シンデレラ」。
世界最古の長編恋愛文学。主人公光源氏の愛憎を中心とした華麗な平安宮廷絵巻。
日記・随筆
土佐日記(紀貫之)
蜻蛉日記(藤原道綱母)
和泉式部日記(和泉式部)
紫式部日記(紫式部)
更級日記(菅原孝標女)
枕草子(清少納言)
土佐守の任期を終えた紀貫之が帰京するまでの道中日記。
夫との不和を題材にした平安時代の家庭日記。
和泉式部と敦道親王との恋愛を回想した自伝日記。
中宮彰子に仕えた頃の随筆、人物評などが中心の宮廷日記。
少女時代に下向した上総から帰京し、成長し、初老に至るまでの回顧日記。
平安時代を代表する随筆。中宮定子に仕えていた頃の胸中を記録。
詩歌
古今和歌集(紀貫之ら)
和漢朗詠集(藤原公任)
905年成立。最初の勅撰和歌集としてあまりにも有名。
1018年成立。朗詠に適した詩歌約800首を編集している。
国風文化の代表例
平安時代中期は比較的穏やかな時代ではあったが
中央では政争が絶えず、地方では兵乱がしばしば起こり
天災などもあって民衆の暮らしは豊かなものとは言えなかった。
こうした不安から、仏教においては浄土思想を欲するようになった。
現世において不幸でも念仏を唱える事によって
来世では極楽浄土へ救われる、とする考え方である。
この教義は民衆だけでなく貴族へも流行し
現世で政争に明け暮れても来世で浄土へ辿りつきたいと念ずる者が多かった。
関白・藤原頼通は来世の浄土を現世に体現しようと欲し
宇治にあった別荘を改築し寺に改めた。
その中でも阿弥陀堂は中堂に阿弥陀仏を安置し、
左右に翼廊(よくろう)を広げた優美な姿で
池に写るその姿はさながら鳳凰が翼を広げるかに見える。
これが10円玉の刻印になっている建物、浄土を模した平等院鳳凰堂である。
国風文化を代表する建築物と言えよう。
本尊となっている阿弥陀仏、その阿弥陀仏を納めた中堂の扉絵なども
この文化を鮮やかに彩る工芸品である。
宇治平等院鳳凰堂平等院鳳凰堂(京都府宇治市)
国風文化は「文学の文化」とも言える。
空海・橘逸勢・嵯峨天皇の「三筆」に比較される書道の三名人、
小野道風(おののとうふう)藤原佐理(ふじわらのさり、すけまさとも
藤原行成(ふじわらのゆきなり、こうぜいともは「三蹟(さんせき)」と呼ばれる。
唐風の字を書く三筆に対し、三蹟は和様の優美な曲線で文字を記した。
男性が公文書などで用いる真名(まな、漢字の事)文字を平易に崩し
女性が簡単に使えるように工夫された仮名文字もこの時代の成立。
仮名文字の発生は国文学を勃興させ、特に日記文学は
「蜻蛉(かげろう)日記」「更級(さらしな)日記」など
女性ならではの視点で描かれた文章として有名である。
特別な存在が男性の紀貫之(きのつらゆき)が記した「土佐日記」。
仮名文字を使い女性が書いたように見せかけた紀行日記である。
当時貫之は幼い子供を亡くしており、子供を追想する場面が多いこの作品は
女性の観点に近い文面で書かれている事も頷ける。
物語文学もこの頃から発祥し、日本最古の物語文学と言われる「竹取物語」は
「かぐや姫」の御伽噺として現代まで親しまれている。
和歌で文通するこの時代の文化、集大成と言えるのが和歌集の編纂であろう。
905年に成立した「古今和歌集(こきんわかしゅう)」は
最古の勅撰(ちょくせん)和歌集(天皇が直々に編纂を命じた和歌集)で
上記の紀貫之らが中心となって編纂された和歌集として名が高い。

枕草子と源氏物語 〜 平安文学の二大巨匠
さて、平安文学といえば忘れてはならない2つの作品がある。
日本人で知らぬ者はいないという位に有名な「枕草子」と「源氏物語」である。
「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは…」の書き出しで知られる枕草子は
中宮定子に仕えた才媛の女官、清少納言が記した随筆。
約300段から成るもので、宮仕えの間に見聞きした事の回想や自然描写、
日記、折々の事柄に感じた想いなど、様々な短文をまとめた作品である。
女性ならではの独特な感受性、鋭い観察力、ユーモアや辛辣な表現が織り交ぜられ
随筆の魅力を存分に引き出した文章となっている。
清少納言は歌人清原元輔(きよはらのもとすけ)の娘で、
結婚して子をもうけたが10年ほどで離婚した経歴を持つ。
家庭を出た後に宮中へ入り、一条天皇の中宮定子に女房として仕え
数年間を過ごしたものの定子が死去した事により宮仕えを辞した。
一方、定子に代わって中宮となった彰子に仕えたのが紫式部。
その式部が著した全54帖(巻)の大長編恋愛小説が源氏物語で、前編の44帖は光源氏が主人公、
残りの10帖は「宇治十帖」と呼ばれ、光源氏の子・薫大将を主人公にした内容となっている。
(宇治十帖部分は別作者という説もある)
光源氏が帝の子として産まれ、臣下に降りながらも栄達し
その間に様々な女性と逢瀬を重ねる恋愛物語だが、
後半は愛憎の人間関係に悩み苦しむ晩年を描き
宇治十帖では薫大将をめぐる男女の暗い運命が記されている。
源氏物語は400人を越す登場人物があり、4天皇約70年の期間を内容とし
平安時代の宮廷貴族の複雑な人間関係を写し出しており
文学としてだけではなく当時の社会事情を研究する題材にもなっている。
現在においても読み継がれ、現代語訳や外国語版としても広く普及しているのは周知の通り。
紫式部は藤原為時(ふじわらのためとき)の子。為時は摂関家一門だが傍流であり
官位はあまり高くなかった。しかし学者としては有名で、漢詩や和歌の名手でもあった。
式部は10歳の頃からこの父に学問を教えられ、余りにも覚えが早かったため
「この子が男子であったならば…」と感嘆された才女である。
20代後半に父・為時が越前国司に任ぜられ共に下向、帰京後に結婚し女児を産んだが
わずか3年で夫と死別、その直後から源氏物語の草稿をしたため始めた。
式部の高い教養は宮中で評判となり、中宮彰子の女房に取り立てられたのである。
彰子に学問を指導しつつ数年に渡り源氏物語や紫式部日記を書き進め、
宮廷を退いた後、45歳ほどで亡くなったと言われている。
清少納言・紫式部共に、中・下級貴族出身の娘ながら才能を認められ
天皇の妃となる女性の女房として活躍したという共通点がみられるが
これは決して偶然ではない。
というのも、当時の貴族は自分の娘を天皇や高級貴族に嫁がせ縁戚となり
より高い位への昇進を狙った訳であり、その鍵となる娘には華麗な装飾・衣裳を施し
他の妃以上の教養や才能を磨かせ、夫となる天皇の目に留まらせる事が肝心だったのである。
その為に貴族達は娘の学問を指導し華やかな演出を為せる優れた女房を求めたのだ。
清少納言や紫式部は摂関家の目に叶う素晴らしい才能があったからこそ
枕草子や源氏物語といった優秀な文芸作品を書き得たのである。

墾田地系荘園 〜 初期荘園の成立
さて、貴族は出世の為に豪華な装飾を娘に与え、優れた人材を広く求めたが
当然それには多大な費用が必要であった。
その費用を捻出するには財源を確保しなくてはならない。然るに、
出世を望む

娘を天皇や高級貴族に嫁がせる

娘に装飾をさせ、師範となる優秀な人材を集める

費用が必要となる

出世しなくてはならない
というジレンマに陥る訳である。
では、貴族の財源となるものは一体何だったのか?当然、土地(領地)から得る収穫物である。
奈良時代中期の743年、墾田永年私財法が発布され土地の私有が認められると
貴族や寺社は自らの領地を得るために土地の開墾や買収を行った。
周辺の農民はもとより、浮浪人や逃亡農民まで集めて労働力とし
直接的な経営を行い私有地=領地を確保し収入を増やそうとしたのである。
こうした私有開墾地を荘園(しょうえん)と呼び、特に8〜9世紀における
貴族・寺社の直接経営荘園を墾田地系(こんでんちけい)荘園と言う。
墾田地系荘園の中でも、貴族・寺社が自ら開墾した土地を自墾地系(じこんちけい)荘園、
既に開墾されていた土地を買収し得た土地を既墾地系(きこんちけい)荘園と分類する。

寄進地系荘園 〜 荘園の発展と弊害
10世紀になると荘園制度も新たな展開を見せるようになる。
既に公地公民制の大原則は無実化し、班田の収授も行われなくなり
荘園は全国的に広がっていった。
しかし私有地と言えど多額の税を国に収める事に変わりはなく、
律令制の労役負担などの義務もあったはずである。
ところが、摂関家といった有力貴族は特権を利用し
自分の荘園には租税を納めなくて良い権利(不輸の権)や
国司の立ち入りを断る権利(不入の権)を制定してしまった。
荘園で働く農民を保護し、より収益率を高くするためである。
国司も官僚、自分の人事権を握る強大な貴族に逆らえるはずもなく
そうした荘園には手出しができなかったのであった。
この権利に注目したのが他の荘園で、名目上の地主を有力貴族にして不輸・不入の権を獲得、
収穫の一部を名義貸ししてくれた貴族に支払うという方法を編み出した。
年貢を納めなくてはならない事に変わりはないが、
国司に納税するよりは負担が軽く、有力貴族側も自らの荘園が増えるため
互いの利益が一致し、このような荘園制度が成立したのである。
荘園を有力貴族に寄進する形態になるため、この種類の荘園を寄進地系荘園と呼ぶ。
こうして特権を得た荘園は国の干渉を受けない完全な私有地となっていき
貴族の生活を潤したが、逆に国家財政は圧迫される一方となり
「自分の収入は増やしたいが、国家の財政は混迷してしまう」という悩みを貴族に与えていった。

国衙領の形成 〜 国司も蓄財に走る
有力貴族や有名寺社が中央政界の権威・名声・勢力を基に荘園を増やす一方、
地方官として下向した国司たちもまた現地で蓄財に走るようになっていた。
地方行政を任された国司らは、中央から目が届かない事を良い事に
任国を自らの領土であるかのように専横の振舞いを行ったのである。
即ち、規定の税率以上の課税をして余剰分を私財化したり
課税の必要がない物資までも不当に取りたてたり、
私的な労役を住人に課したり、配下の俸給を取り上げたりと
あらゆる手段を以って己の収入を増やそうと企む事が公然となっていたのである。
こうした不法国司を受領(ずりょう)と言う。
「受領ハ倒ル所ニ土ヲツカメ」と揶揄される様に、例え転んだ時であっても
道端のわずかな土くれでさえ手にして自分の蓄えにしようとする程、
受領は貪欲に財物をむさぼったのであった。
10世紀頃から、荘園にならなかった公田を国衙領(こくがりょう)と呼ばれる公領とし
その公田を名(みょう)という課税単位に再編、
その名を耕作する農民の請負人として名主の制度が出来たため
国司が直接的な土地支配・農民支配を行い易くなったのが原因である。
受領のあまりに非道な行いは時に住民の直訴を引き起こし
974年に尾張国司藤原連貞(ふじわらのつらさだ)、988年に尾張国司藤原元命(ふじわらのもとなが)
999年に淡路国司讃岐扶範(さぬきすけのり)、1003年に大宰権帥平惟仲(たいらのこれなか)
訴追されたが、往々にして表面化する事はなく
巨大な富を蓄える者が少なくなかったのだった。

後三条天皇の即位 〜 荘園整理令と摂関家の衰退
膨れ上がる一方の荘園により、公田が荒れ国衙領は減収
国家財政が圧迫される事態が目立つようになると
たびたび荘園整理令が発せられた。代表的なものが902年の延喜荘園整理令、
984年、1045年、1055年における荘園整理令である。
しかしその法令を出す貴族自身が荘園を持っているわけだから
効果が期待できるはずもなく、有名無実なものに終わっていた。
ところが1068年に後三条天皇が即位した事で状況に変化が現れた。
後三条帝の父は後朱雀天皇、母は同じく皇族の禎子内親王
藤原氏の血脈は入っていなかったのだ。藤原頼通は娘の寛子(かんし)
後冷泉天皇に嫁がせていたが男子は産まれず、遂に藤原家外戚の伝統は崩れた。
名目的に藤原教通(ふじわらののりみち)を関白に据えたが
直接的に藤原氏と関わりがない後三条帝は摂関家に気兼ねせず想い通りの政治を行った。
荘園の弊害を処断すべく1069年に延久荘園整理令を発布、
新立荘園や不明確な荘園、国務に妨げのある荘園などは全て廃止する上
記録荘園券契所という役所を設けて徹底的な荘園整理を行ったである。
財源である荘園を奪われ、皇室との血縁も断たれた藤原氏は次第に衰退。
後三条帝の後を継いだ白河天皇も藤原氏を排除した政治を行い
これが院政(いんせい)へと続いていくのであった。



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