摂関政治の展開

東西の兵乱が収束し、再び平和の世が訪れた。
中央政界では藤原氏の権勢がますます強くなり
摂政・関白の位は常設されるようになる。
藤原氏の権力抗争はいよいよ大詰めの局面を迎える。


天暦の治 〜 村上天皇の親政
946年、村上天皇即位。その3年後、949年に藤原忠平が亡くなった。
関白の位は空位となり、宇多・醍醐帝の時と同じく天皇親政の時代が訪れたのである。
951年に和歌所を設置し文芸の振興を図り、
958年には新銭の乾元大宝を鋳造。乾元大宝は最後の皇朝十二銭である。
この親政は「天暦の治(てんりゃくのち)」と呼ばれ、
延喜の治と並んで後世天皇政治の理想とされるようになった。
しかし967年、村上帝の死と共に天皇親政は終了。
冷泉天皇の即位に併せ藤原実頼(ふじわらのさねより)が関白に就いた。
以後、摂政・関白は常設のものになるのが通例となり
藤原氏はこの位を巡って必死の権力保持を行うようになった。
969年、藤原氏にとって目下の政敵とされた左大臣・源高明(みなもとのたかあきら)が誣告され
大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され政界を追放される事件が発生。
この政変は「安和の変(あんなのへん)」と呼ばれ、
藤原氏による他氏排斥活動の陰謀と見る説が有力である。
この事件を最後に、藤原氏に対抗できる政治勢力は消えたが
今度は藤原氏内部での勢力争いが勃発していくようになる。
ちなみに、高明は醍醐天皇の皇子。皇族でありながら皇位に就く機会を逸し
源姓を賜って臣下になった人物である。この境遇をモデルにして描かれたのが
かの「源氏物語」の主人公、光源氏だと言われている。

一族内の対立 〜 兼通・兼家、伊周・道長、相争う
実頼の死後は伊尹(これただ)、伊尹の死後は兼通(かねみち)が摂関に就任。
兼通の関白就任を最も怨んだのがその弟・兼家(かねいえ)であった。
兼通はもともと権中納言、大納言である兼家よりも低位であったが
それを飛び越えて本来兼家が継ぐべきであった関白職に就いてしまったのである。
兄弟の争いはさらに続く。
977年、兼通は死の間際に関白職を従兄弟の頼忠(よりただ)に譲り
兼家を治部卿(じぶきょう)に左遷した。死の床にあってなお兼家の出世を阻んだのだ。
986年、ようやく兼家に関白職獲得のチャンスが回ってきた。
この時の皇位にあった花山天皇を強引に出家・退位させ
一条天皇を即位させた。一条帝の母は兼家の娘・詮子(せんし)であり
外祖父の地位を得た事でようやく関白の位に就いたのである。
なお、迷う花山天皇を無理矢理連れ出して出家させたのは
兼家の2男・道兼(みちかね)である。

藤原家の確執

藤原家の確執 (赤字は女性) ―は親子関係 =は婚姻関係 数字は皇位継承順
990年に兼家が死去すると、政権を巡る争いは兼家の遺児達によって繰り広げられる。
一条天皇の摂政職は兼家の長男・藤原道隆(ふじわらのみちたか)が引き継ぎ、
道隆の子・藤原伊周(ふじわらのこれちか)も蔵人頭に任ぜられ
さらに道隆の娘・定子(ていし)は一条帝の中宮
(ちゅうぐう、皇后・皇太后・太皇太后の総称。この場合は天皇の妃を意味する)に立てられた。
これが面白くないのは花山法皇の出家を決断させた道兼と、
それに与する弟・道長(みちなが)である。
995年に道隆が他界、関白職は道兼に転がり込んだが
流行病に罹っていた道兼も数日のうちに死亡。
政権争奪戦は伊周・道長の甥・伯父の間柄で続けられるようになった。
一条天皇の母・詮子の口添えがあり、この勝負は道長に軍配が上がり
内覧(ないらん)の宣旨を受けた。内覧とは政治の決裁書類を天皇に奏上する前に閲覧する職務で
事実上、摂政と同様の実権を持つものである。道隆から関白職を譲られるはずであった伊周は
道長の台頭を不満に覚え、周囲の政敵を一掃すべく画策
996年にあろうことか不仲であった花山法皇の暗殺を企てた。
この陰謀は失敗に終わり、罪を問われた伊周・隆家(たかいえ)兄弟は流罪に処された。

道長・頼通の天下 〜 摂関政治の最盛期
政治的ライバルを全て蹴落とした道長の時代がやって来た。
1000年、娘の彰子(しょうし)が一条帝の中宮になり
定子は皇后の位に遇せられた。ありていに言えば、定子は妃の地位を追い出されたのである。
父・兄・一条帝といった後ろ盾を失った定子はこの年の暮れに寂しく没する。
このように、道長の権勢は娘を天皇に嫁がせる事で維持されていくのであった。
ちなみに、定子の女房(皇妃に仕え学問指導などに当たる女官)として有名なのが清少納言
彰子の女房として名を馳せたのが紫式部である(次頁参照)。
1011年に一条天皇が薨去、三条天皇が即位すると
すかさず道長は次娘・妍子(けんし)を中宮に据える。
だが道長と三条帝は折り合いが悪く、道長としても外祖父の地位を手にし
幼帝の摂政・関白となったほうが政治を行いやすいため、三条帝は譲位を迫られた。
1016年、三条天皇は退位。故一条帝と彰子の子・後一条天皇が即位した。
道長は念願の外祖父となり、正式に摂政の位に就任。
翌1017年には道長の子・頼通(よりみち)が摂政職を継承、道長一族の安定を基礎付けた。
1018年10月16日、道長の娘・威子(いし)が後一条天皇の中宮に即位。
3人の娘を歴代天皇に嫁がせ、道長の権勢はここに極まったのである。
天下を握った道長の詠んだ歌が次のものであった。
この世をば 我が世とぞ思ふ 望月(もちづき)の
 欠けたる事も 無しと思へば    藤原道長

[意味] この世の全てが、まるで我が物であるかのようだ。
  欠けた処の無い満月のように、私の心は満ち足りている。
その後、政治の表舞台から引退した道長は阿弥陀仏を信仰しつつ1027年に亡くなる。
道長の後を継いだ頼通は、妹・嬉子(きし)後朱雀天皇(後一条天皇の弟)に嫁がせ
父と同じように摂関の地位を維持していく。
後朱雀帝と嬉子の間には後冷泉天皇が誕生し、
頼通は後一条・後朱雀・後冷泉の三天皇、約50年に渡って摂政・関白であり続けた。

道長・頼通と皇室

道長・頼通と皇室 (赤字は女性) ―は親子関係 =は婚姻関係 数字は皇位継承順



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