承平・天慶の乱(2)

東国で将門が反乱を起こしていた頃、
時を同じくして瀬戸内海周辺で海賊行為を行っていたのが藤原純友である。
都人に恐れられた西の覇者・純友もまた土着した地方官の一人。
「陸の王者」将門に相対する「海の魔王」純友の動きを辿る。


藤原純友 〜 摂関家の末裔、瀬戸内で暴れ廻る
藤原冬嗣から下る事、4代目にあたる人物が純友である。
もともとは伊予国(現在の愛媛県)の掾(じょう、国司の3等官)であり
平安京から現地に下向し、かの地に勢力を伸ばした。
平高望と同じく任期後も都へは帰参せず、伊予の地に土着し
周辺の海賊衆を手名付けその総領となってしまった。
日振島(ひぶりじま、愛媛県宇和島市の離島)に本拠を置き海賊行為を展開。
純友が活動範囲とした瀬戸内海は、都と大宰府・中国大陸を結ぶ一大交通路で
軍事的にも経済的にも当時の日本の大動脈であったと言っても過言ではない。
この水域を支配した純友は「海賊」どころか「海軍」と呼べる程の規模を誇り
朝廷と言えども慰撫するのは並大抵の事ではなかった。
936年、朝廷は海賊衆をなだめる為に官位や領地を与えようとしたが
純友はそのような誘いには乗らず、939年に摂津国(大阪府北部と兵庫県の一部)
940年には淡路国(淡路島)、讃岐国(香川県)国府を襲撃、
放火・略奪などを働き都へ攻め上る勢いであった。
この時、朝廷は東国で起きた平将門の乱を平定する事を優先とし
西の純友平定まで手が回らなかったのである。

純友の乱 〜 海賊、西へ
純友が西海で暴れ回った兵乱を「天慶(てんぎょう)の乱」と呼ぶ。
この乱も将門が破れた事により収束へと向かっていく。
東国で将門が戦死したため、いよいよ朝廷が純友の討伐に乗り出したのだ。
追討軍を率いるのは小野好古(おののよしふる)と源経基、
将門に武蔵国府を追い出されたあの経基である。
940年8月から朝廷軍は純友軍と交戦。この時、純友の腹心であった
藤原恒利(ふじわらのつねとし)が朝廷軍に寝返り、純友軍は敗れる。
再起を期す純友は西へと転進、941年に大宰府を攻撃した。
海賊勢は一時大宰府を落としたが、陸海から朝廷軍が挟撃し形勢逆転。
遂に純友は決戦に敗北した。
この戦の後、純友は自害したとも捕らわれて処刑されたとも伝えられている。
乱を平定した経基は功を認められ、中央政界への進出を果たした。


★この時代の城郭 ――― 武士のおこり
城を舞台に戦をし、城の主として領国を経営したのは言うまでもなく武士である。
その武士の起源はこの時代、平安時代中期まで遡る。
桓武平氏や純友のように、地方官として下向した者が土着し
武力を以って領地・領民を支配した「実力者」達である。
彼らは平時においては開墾などを行って領地を増やし
他者の侵略を受けた時、あるいは他者の領地へ侵攻する時には
武器を携え勇猛に戦った。このように、当初の武士は「半農半兵」であり
「生活の糧として」武装化し交戦したのであった。
それ故、負ける事は領地を失う事を意味し、
実力本位の厳しい戦いが繰り広げられたのである。
都で貴族が平安を謳歌していた頃、地方農村では生きるために戦い、
死と隣り合わせで領地を獲得していった武辺者が誕生していた。
彼らは地位が低くとも、自らの力のみを頼りに生きる強者であり
次第にその実力(=武力)は貴族にとっても無視できない存在になっていく。
特に東国は桓武平氏以来「武士の治める地」の風潮が根強く、
「武士による武士のための政治」を希求するようになっていき
その信念は鎌倉幕府成立への原動力となっていった。




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