承平・天慶の乱(1)

雷神の祟りで?急逝した藤原時平にかわり摂関家の門跡を継いだのは
弟である藤原忠平(ふじわらのただひら)であった。
醍醐天皇の時代である927年に延喜式(式とは律令・格の施行細目)を編纂し
兄・時平の遺業ともいえる延喜格式の完成を成し遂げ、
930年には朱雀天皇の即位と共に摂政へ任じられた。
忠平の時代、中央政界では際立った政争もなく平和な日々が続いていたが
平安京の東西で大規模な兵乱が発生、都はにわかに騒然となる。
土着した地方官は次第に武装化し自らの領地を確保するようになり
遂に武力を行使して中央政界に叛旗を翻したのだ。
関東地方で独立国を打ち立てようとした平将門(たいらのまさかど)
瀬戸内海で海賊として名を馳せた藤原純友(ふじわらのすみとも)
両者の興亡は如何なるものであったのか。


平将門 〜 桓武平氏、関東地方に展開
桓武天皇の曾孫である高望王(たかもちおう)は皇族を離れ
平姓を賜り臣下となり平高望(たいらのたかもち)と改名した。
桓武平氏の起こりである。
高望は上総介(上総(現在の千葉県中部)国司の次官)を命じられ関東へ下向、
4年の任期を終えても都へ帰らずそのまま現地に土着した。
都で政争に明け暮れる毎日よりも、地方を開拓し自らの領地にし
富と武力を蓄える事に魅力を感じたのである。
高望のように、国司の役職からそのまま現地に住み着く者は少なくなかった。
やがて高望の子らは常陸(茨城県)・下総(千葉県北部)・武蔵(東京都・埼玉県など)
相模(神奈川県西部)へと展開、平氏一門は関東の支配者として実力を養っていく。

平氏の起源

平氏の起源 ―は親子関係
平将門は高望の子・平良将(たいらのよしまさ)の嫡子として生まれ
若い頃は都へ上り藤原忠平に仕えた。このように地方官の子が都へ上り
中央政界に進出しようとする者もまた少なくなかったが、
将門はそうした「出世志向」の者達とは異なり、宮仕えにはさほど関心がなかったらしい。
父・良将の死をきっかけに忠平の下を辞し、故郷の下総へ帰った。
しかし将門が下総へ入国した時には既に父の遺領は分割され、
叔父である平国香(たいらのくにか)平良兼(たいらのよしかね)らの手に渡っており
将門が相続したのはごくわずかの土地でしかなかった。
当時は嫡子相続の原則はなく、死亡した者の領地は一族が分配するようになっていたので
国香や良兼が遺領の一部を受け取る事自体に問題はなかったが
領土分配があまりに不平等で、しかも嫡子である将門の承諾なく行われたため
叔父・甥との間で目に見えない確執が発生した。
しかし将門は取られた土地を挽回するように原野を切り開き、
開墾した領地には税の軽減など善政を施いたため農民が集まり生産力が向上、
みるみるうちに叔父らの勢力を凌駕していった。
935年、甥の伸張を危険視した叔父・国香は、源護(みなもとのまもる)らと結託して挙兵、
「将門潰し」の攻撃を仕掛けた。しかし将門の軍勢はこれを返り討ちにし
敗れた国香は自害、護一族は戦死する事態に至った。さらに将門は伯父である
平良正(たいらのよしまさ)の軍勢も打ち破った。
翌936年、再起を期す良正は良兼と図って挙兵。国香の遺児・平貞盛(たいらのさだもり)
これに合流して将門打倒の旗色を示した。元々貞盛は将門と入魂の仲で
国香の死後も表立って将門と対立する事を望んでいなかったが、
伯父2人の説得によって遂に兵を挙げるようになったのである。
反将門連合軍の動きを察知した将門は直ちに対応、
またもや叔父達の軍勢を返り討ちにしてしまった。
良兼らは下総国府の中に逃げ込み、これを将門軍が包囲したが
国司である良兼を殺す事は国家への反逆を意味したため
軍の囲いを解いて見逃がした。しかし良兼は将門の情けで逃げおおせたにも関わらず
都へ登りあろうことか朝廷に将門の処罰を願い出たのである。

平将門の乱 〜 将門、国司と対立
937年、将門は朝廷に召喚され尋問を受けたが、戦は常に良兼らが仕掛けたものであったため
罪を問われる事無く帰郷。これを快く思わない良兼・貞盛はまたも将門に攻撃を行った。
時に将門軍が敗れる事もあったが、数度の会戦を経て良兼は再起不能にまで叩かれ
貞盛は都へと逃亡。もはや坂東(関東地方)で将門に抗える者は消えたのである。
将門の武勇は関東一円に轟き、民への善政もあって声望は高く評された。
この時、武蔵国では武蔵国介(国府において国司の次官)源経基(みなもとのつねもと)
権守(ごんのかみ、国司に準ずる仮役職)興世王(おきよおう)
郡司の武芝(たけしば)と対立していた。経基と興世王が私欲に走り農民を虐げており、
武芝はそれに反対していたのである。将門はこれを聞いて仲裁に乗り出した。
民を助ける武芝を支援した将門は武蔵国府へ向かい、興世王と対談。
興世王は非を認めて将門の仲裁に従った。一方、経基は将門の武勇に恐れを為して逃亡した。
これにより新たな国司が派遣されてきたが、興世王はこの新任国司とうまく行かず
将門の元へと身を寄せた。同じ頃、常陸(現在の茨城県)国府に追われる
藤原玄明(ふじわらのはるあき)なる男も、将門の声望に惹かれて転がり込んできた。
経基を追い出し、新国司と折り合いの悪い興世王や国府に追われる玄明をかくまった事で
将門は各地の国府から睨まれるようになってしまった。
939年11月、玄明の引渡しを求める常陸国府軍と将門軍は衝突。
国府軍の背後に貞盛が暗躍している事を突き止めた将門は
遂に常陸国府を襲い国司の権力を奪った。とうとう将門は朝廷に対して反逆してしまったのである。
それならばと開き直った将門は、常陸に続いて下野(栃木県)・上野(群馬県)国府も占領、
関東地方を独立国とし、自らを「新皇(しんのう)」と称した。
呼んで字の如く、新しい天皇として君臨する事を世に表したのである。
王城(首都)は石井(いわい、現在の茨城県岩井市)に置かれた。
「将門反乱す」の報は直ぐに都へ伝えられたが、朝廷では反乱平定に有効な策がなく
ひたすら神仏への祈祷が続く有様であった。将門を倒した者には
五位の位が与えられるとされ、940年にようやく押領使(おうりょうし、地方反乱や盗賊の取締役人)
藤原秀郷(ふじわらのひでさと)が派遣される。この追討勢に貞盛が呼応、
将門を包囲する軍は4000の大軍に膨れ上がった。
一方、将門方は帰郷していた者などが多く、手勢はわずかに1000人程度。
将門の腹心であった弟達や興世王らが自分の領地へ帰っていた間隙を突かれてしまったのである。
終始不利な状況で戦い続けた将門であったが、持ち前の戦闘力を発揮し善戦。
しかし兵力差は如何ともし難く、ついに将門は戦死し反乱は平定される。
一族は捕らえられ尽く処刑、乱を鎮めた秀郷と貞盛は功績を認められ朝廷に取り立てられた。
こうして将門の反乱は終わりを告げたが、都を離れた地方において
実力で領地を治めようとする武士の発生はこの時に始まったと言える。
坂東で935年〜940年にかけて起きた将門の兵乱を「承平(じょうへい)の乱」と呼ぶ。



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